ハンプティダンプティ転んだ(2)

火曜の午後。僕は永田町にある建物で複数の職員に囲まれていた。待合室から会議室に部屋を移す。ミーム管理局の職員と名刺こそ儀礼的に交換したが、どうせこの名は偽名だ。覚える必要はないだろう。


「キミ、今『どうせ、この名前は偽名だろ』みたいな顔をしたね」


長机越しに座る女性は、どうみても10代の女性だった。金髪、ツインテール、眼鏡。安っぽい蛍光灯の光を跳ね返すキューティクルが、その髪に天使の輪を描いていた。間違いなく真人まじんだ。


「いや失礼した。ただのくせなんだ。長生きするとろくなことがない」


彼女は僕の緊張を見てすかさずフォローした。不老化処理をした上級国民に、意味もなく喧嘩を売る馬鹿はいない。


「キミ、魂が揺らいでいるよ。大丈夫か?」

「緊張しているだけですので、お気になさらず」


綺麗ごとをいうつもりはない。先の大戦で生き延びたということは、大なり小なり化物かれらと矛を交えたということだ。およそ仲間が殺されただけの一方的な虐殺ではあったが、僕たちの班はからくもその捕獲に成功している。


「ふむ……。そうだ、私にあだ名を付けてくれないか。組織のルールを変えることはできないが、キミから名前をもらうくらいは良いだろう」


安全な後方部隊への異動が認められたのはそのすぐ後だ。彼女が所属する内閣府ミーム管理局安全管理課——僕はその前身組織に所属していた。僕が持つミームの改変・安定化に関するノウハウは、そこで得たものに過ぎない。


だからこそか、豚舎で家畜の豚が話しているようなこそばゆい気分・・・・・・・になったのは仕方のないことであった。


「いきなりそう言われても、中々思いつかないですが……。安直ではありますが、先生アリスさんと呼ばせていただいても構いませんでしょうか?」

「アリス……」


彼女の眼差しが薄く鋭く尖り、扉口に立つ職員と顔を見合わせ始めた。どうやら、何か問題のある呼び方だったらしい。


「すみません。Aから始まる名前を安直に決めただけです。お気を悪くされたなら申し訳ございません。名刺のお名前でお呼びさせていただきます」


本当は実験体アルジャーノンと呼ぶか相当に迷ったが、最後の理性を振り絞って先生アリスと呼ぶことにした。


「いや、こちらこそ少し勘違いしただけだ。凄腕の造形師ミーマーは、知らず本質に触れてしまうことがあるものだと感心してしまった。安直というが、それは君たちの職業病みたいなもので、私が責めるのはお門違いだ。遠慮なくアリスと呼んでくれ。いや、自分でお伽噺の主人公を騙るのは少々恥ずかしいが、気に入ったよ」


アリスはニヤリと笑いながら、印刷された紙の資料を手渡してきた。情報管理を考えれば、むしろ紙の資料はリスクになるはずだが、こういうところはまだまだお役所らしさが残っている。


「詳細については、資料を読んでいただけばと思う。我々が求めているのはカール・ポランニーと呼ばれている人物の未発表原稿の続きだ」


情報子ミームを再現して偉人の遺稿を完成させる。理数系の分野ではいまいち成果を残せなかった研究ではあるが、文学の世界では何度かセンセーショナルな発表が行われていた。


「より正確に言えば、『自由と技術』と呼ばれる未発表論文。その草稿に相当するものとして扱われている『ウィークエンド・ノート』。これらに関する考察を補助するためのミームを求めている」

「……なるほど。つまり、本人を再現するというよりは、専門家による補助エキスパートタイプの実装ですね。この仕様ですと、旧来でいうところのチャットボットがイメージとして近いでしょうか?」


資料に目を通しながら、気になる点を彼女に2、3質問したが、すらすらと答えが返ってくる。経験者かどうかまでは分からないが、ミーマーの仕事に関する基本的な知識はあるようだ。


「それでは、最後に2点だけ。予算と理由に関してです。これはあくまで依頼の目安ですが、作業自体はおよそ3カ月。納期としては半年程度を想定しています」


相手側としては、現状1000万円程度で考えているらしい。この仕事の報酬としてはなるほど妥当だ。特段高くも安くもない依頼である。


「理由に関して──」、そう言い淀むと少し悩むような顔をして、彼女は頬杖をついた。何やら答えづらい事情があるのだろうか。


「……私たちが求めているものは、カール・ポランニーという人間そのものじゃない。自由、平等、独立。耳心地は良いけれど、それは私たちが割り当てられた仕事タスクじゃないの。金、社会、個人。『社会関係を経済というシステムに埋め込む』という欲深の幻想を、なるべく長続きさせたいってわけ。そういうこと」


吐き捨てるように言った言葉は、彼女なりの誠実さだったのかもしれない。それぞれの仕事タスクにはそれぞれの事情がある。僕に頼むということ──つまり、彼らが欲しているのは生者の欲望を満たすシステムだ。死者の意思を受け継ぐことではない。


「どうやら、それそろ時間ね? 本日はこんなところかしら」

「事情は承知いたしました。あとで正式な見積もりをお送りさせていただきます。もちろん、ご依頼いただけば完璧な仕事をさせていただきます」

「そう、素晴らしいわ」


感嘆を返す彼女の瞳は、まるで心の奥底をなくしたような鈍色だった。上目遣い──僕と目が合う。口元を人差し指で抑えながら、少女の外見に似つかわしくない蠱惑的な表情で、思わせぶりな仕草をみせた。


「キミへの報酬として支払われる紙幣、誰がどうみてもこれはただの紙。いや、あえて質問させて欲しい。欲しいものは殴って殺して奪えば良い、そうならなかったのはどうしてかしら?」


命の大切さを叫ぶための道徳的なフレーズが、脳裏に数百と浮かんだ。しかし、僕の体はあえて沈黙を選ぶ。真理が近づいてくる絶対的な予感がしたからだ。僕が知っている形式的な詭弁で、彼女の言葉しんりを遮るべきではない。



「つまるところ、ってものはね、として能力が低すぎるの」



これはあくまで私の意見に過ぎないけれど──そう付け加えた彼女は、まるで10代の少女のような満面の笑みを浮かべていた。

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