ハンプティダンプティ転んだ(1)

目覚めは最悪だ。けれどそれは、正しい孤独に満ちた起床だった。午後の空き時間、いつものように僕はウサギに夢の詳細を話すことにした。彼女は夢に対して感想を述べない、ただ淡々と、表情も変えずにメモをするだけだ。


「どう思う?」


どうとは?と首を捻りながら、彼女はそのメモ帳を閉じた。少し目をつぶって唇をトントンと、考え込むように触る。


「思春期ですね。自分探しの旅に出られるときは、わたくしに一声おかけください」

「確かに。僕のことは僕のことで心配だが、問題は夢合わせのほうだ。僕に何を伝えたがっているのだろうか」


僕はきっと、何かを理解しなければならない。いしきが伝えようとしているシグナルは、僕という問題の核心へ触れている。


僕にとってヒトは記号だった。心や体の細部に至るまで、何かを表現する記号に固められた塊だ。記号を収集し、記号を管理し、記号を整列させる。構成アセンブルによって、「歩」を「と金」に変える現代の錬金術。それがどうだ。女と男、僕は執着している。そして、失敗して傷つくたびに、自分の無力さ、愚かさを、価値のなさを確認する。


僕自身が惚れっぽい自覚はある。価値がなかったからだ。意味がなかったからだ。ただ、それら全てを踏みにじれるほどの強さが欲しいと、心の底から渇望した。欲望を中心に僕は再構築リビルドされ、手足インターフェースを通じて現実は浸食おかされた。


これは最後の欲望。僕は心を満たすため、間違いなく他者を求めている。この記号は「愛」だ。愛という記号。僕の命を無条件で肯定するワイルドカード。僕の力を無条件で強くするワイルドカード。僕の人生の終幕を、真に「人」たらしめる最後のピース。


脳裏に浮かぶ光景は、両の手で数えられる程度の命乞いだった。存在を──捧げられる。この快感だ。全てが支配できる。全てが自由である。そして、無慈悲に全てを奪う。悪魔はルールに基づいて奪うのが仕事だ。何も残らない。契約を終えて姿を消す。


分かっていることもある。彼ら彼女らは死の間際に際し、僕という存在を拡張するために機能した。まるで自分の指先を動かすようだった。綺麗に美しく、マナーよく並べられた意思のアライメントが僕の前でこうべを垂れていた。


きっと赤ん坊は、母親が自身の存在の延長であることを疑わない。そして、母親も赤子らのその期待に応えるのであろう。これはそう、そこに回帰しようとしている醜い男の欲望。──そう思うと、この感情にも少し納得ができた。


結論は既に知っている。重要なのは同化に至る過程だ。赤子は天使だから許される。愛を依り代に、その存在を捧げられる。


少し長い沈黙の後、ウサギは声を発した。


「これは仮説ですが、旦那様を中身のない卵にみたてているとして……旦那様が捨ててしまった卵の中身こそが、彼女なのかもしれません」

「つまり、彼女は僕自身だと?」


仮にそうであれば好都合だった。僕が僕自身の愛で満たされているのであれば、僕というシステムは、それ以上の部品を取り込む必要がない。


「辞めてしまったメイドの皆さん、その特徴が少しずつ入っているのが気になりますが、まぁ……突拍子もないものが夢ですから、あまり深く考えても時間の無駄ではないでしょうか?」


だからこそあり得ない。「すみのいしき」が他者の特徴を内包していること。妄想であるならば、これは僕自身が僕以上の何かを必要としているシグナルだ。


「少しずつ、自分自身のことが分かってきた気がするよ。少なくとも──、君に見捨てられたことは悪夢をみるくらい悲しいことだったらしい」

「別に見捨ててはいませんよ。仕事ではない、というだけです」


彼女はそういって会話を断ち切ると、立ち上がって足早に席を離れた。部屋から出ようとして、その手でドアノブを掴むと──思い出したかのように振り返った。まっすぐとした視線、凛とした声。背筋をいつも以上にすっと伸ばして僕の方へ正対した。


「その、差し障りがあればお答えいただかなくてよいのですが、あの日あの夜、どうして私の手をいやらしい手つきで撫でまわしたのですか?」


確かに。そう考えるのが自然か。


「君は僕の手を握り返さないと思った。だけど、それが絶対とも思えなくて……どうしても確信を得たかった」

「負け惜しみのようにも聞こえますが、どういう意味でしょうか?」

「僕の知る限り、君は良い女だ。理性的で美しく、己自身が常にそうあろうと高みへ向かい努力している」


彼女が小さな声で「……つまり?」と呟いた。それを逃さないように、朗々と思いを吐き出す。


「僕は常に挑戦者だ。そういう人間に否定されてこそ、僕は自分の弱さを理解できる。正しさに近づける。万が一、ハッピーエンドを迎えられたなら、それはそれで良い話だ。僕が魅力的になったことの証明だ」


彼女はなんとも言えない難しい顔をして、一つ何か仮説を思いついたかのように眉をひそめた。


「つまり私は、旦那様の『物差し』として使われたということでしょうか?」

「……そういう言い方をされると返答に困る。もちろん、少なからず下心もあった。そこは僕を信用してくれ」


「最低ですね」


いしきとは違う。言葉通りの冷ややかな声だ。


「……分かった。これはただの負け惜しみだよ。好きだという気持ちが止まらなかった。心がざわつく夜に、大切な相手が手を差し伸べてくれた。僕は仕事だということすら忘れて、心が躍った。その手を握り返してほしいと、どうしようもなく子供じみた妄想に捕らわれた。ただ──そうだな。単純な結果だけみると、僕に魅力がなくてただ気まずくなっただけだ」


ばつの悪そうな顔で頭を掻いていると、彼女は少しほっとした表情で、得意げな笑みを零した。「都合の良い答えが用意された、都合の良い質問とはこういうことか」と僕は独り得心していた。


僕は気の抜けた表情も隠さずに、そのまま彼女へ言葉を重ねた。


「無理に理解してほしいとは思わない。弱い自分が好きじゃないことも、君が好きなこともどちらも事実だ。不安なときに隣にいて欲しいだなんて、君が好きじゃなきゃ仕事でも言いっこないさ。ただの仕事だと笑われるかもしれないが、例え仕事だとしても君が隣にいてくれることは本当に誇らしい」

「旦那様」

「だからこそ、強くありたい。隣にいて恥ずかしいと思われない人間になりたい。弱い自分が嫌いだ。弱い自分を拒絶されることは、もう世界に居場所がなくなったかと思うくらいに恥ずかしい」


僕は彼女の目を見た。彼女も僕をみている。それはまるで宣戦布告だ。神聖な誓いと寸分の違いもない行為のようにも思えた。


「でもね、勘違いしないで欲しいんだ。いつか弱い自分を受け入れてくれる神様みたいな人間が現れたとして、弱い自分のままで良いだなんて──そんな状態、他の誰が許しても僕自身が許さない。だって、そうだろ。自分が気に入らないものを、好きな人に受け取って欲しいと思えるかい?」


輝きに追いつこうとする魂のあり方。それはこの世界でたった一つ信じられる、何人にも侵されることのない美しさの象徴だった。


「だから君は僕を許すな。僕の甘さを肯定するな。僕はただ、君の魅力と対等になりたいだけなんだ。都合の良い言葉ばかりを並べているが、その思いだけは信じて欲しい」


どこまでも自分都合の自分語りに、彼女は何故か顔を赤らめていた。僕は彼女を納得させる答えを用意できなかったが、どうやら回答としては十分実用に耐える内容だったらしい。


彼女は静かに一礼すると、今度こそ本当に部屋から退出した。窓に映る庭は、木漏れ日が差す温かな陽気だった。

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