冷たいカリカチュア(2)
その日はいつになく大きな疲労感を感じていた。症状がでるまでもなければ、薬を飲む必要はない。自分でもいつ寝たかも分からないようなタイミングで──目の前に彼女がいた。
「わはははは。ワハハッピー」
イカれた子供向け番組のような狂った挨拶だ。彼女はおどけたような顔で満面の笑みを浮かべながら、両の手を蛇の頭のようにみたてて、ガウガウとダチョウの鳴きまねをしながら手を開閉している。
夢だ。しかし今日は、ぞっとするほどにリアルだった。僕は今、彼女の呼び声に応じて、眠たい目をこすりながら眼を見開いている。現実と何も変わらない質感と、かすかに聞こえる彼女の息遣い。寝たときのままの寝室が目の前に広がっていた。
しかも、今日は僕が僕だ。喉のあたりを触ってみたり、しきりに両手をグーパーと開閉させたりしてみた。自分の意志で、自分の思い通りに世界へ干渉できる。そんな当たり前のことが、こんなにも自由だとは思わなかった。
「質問だ」
「どうしましたか? 旦那さま」
彼女はいつものように、少し恥ずかしそうな顔をしながらニコリと僕へ微笑みかけた。僕と会話ができることが楽しくて楽しくて仕方がないといった様子だ。おもむろにベッドの上に載ると、肉食獣を思わせるような艶めかしい動作で、ゆっくりとこの体に覆いかぶさる。足の間に差し込まれた太ももの感触が嫌にリアルだ。
迫る。
長い眉毛が、うるんだ瞳が、赤らんだ頬が、グロスの引かれたつやめいた唇が、肺から浅く吐き出される湿った吐息が。
今すぐにでも唇を奪う、そういう姿勢で彼女は静止した。それは、密着した意思表示だった。
「都合の良い答えが用意された、都合の良い質問を、私にしてみたくはないですか?」
耳元で静かにささやかれた声は、少女の
システムが動く。タイミングだ。重要なのはこのタイミングだ。彼女の本質に迫らなければなけない。何らかの事象が彼女に干渉した。だから、彼女のアクションは意味がある。重要なのは見極めること。引き延ばすための戦略なのか、気が
思い出したのは昼間のことだった。ウサギとの会話。つまり──コンテキストを省略した会話を、彼女がどう理解するのかを試すべきだった。
「セックスできれば良いなと思った」
「最低、ですね」
彼女は静かにおでこをぶつけながら、囁くようにそう言った。現状のシチュエーションに対する返答なのか、ウサギの手を握った理由の説明だと受け取ったのか、どちらにもとれるような言葉だ。何も知らぬ第三者か、僕の脳に潜む全能の神か、はたまた使い古された悪魔の
「境界を越えたかった。僕という人間の境界を。日常と非日常の境界を、自分に都合の良い形で捻じ曲げたかった」
その身体は僕の首にやさしく手を回しながら距離を詰める。言葉を咀嚼するただの
僕の口から洩れたものは独白だ。質問ではない。現実で起こった事象に対する懺悔なのか、それとも夢の中で起こっているこの状況に関する感想なのか、自分でも既に分からなくなっていた。
彼女がゆっくりと上体を起こすと、その腕はするすると首の側面を通過していく。頸動脈をこする彼女の体温は、確かに温かかった。
その小さな手のひらが、後頭部をやさしく包む。抱きかかえるようなその姿は、赤子をかかえる母のようにも、信仰を試す女神のようにも見えた。
「旦那さまは誰かに、魅力的にみられるためにどんな努力をしましたか?」
目の前に差し出されたエメラルドの瞳は、窓から射し込む月の光を受けて薄く輝く。財宝を守る竜が、まるで盗人に対して詰問をするようだ。
「お金を稼いだ」
それで、と彼女は続ける。
「あとは……体を鍛えている、くらいか?」
僕は無意志のうちに圧倒されていた。その小柄な少女の体躯にどれだけの威圧感があったというのだ。自分でも予想しえなかった疑問符が、言葉尻に混ざっていた。
「……もう終わりですか? 髪型は? スキンケアは? 目を大きく見せるコンタクト、ムダ毛の処理や爪のケアはどうですか? 格好は? ちゃんと大切な人に合わせたオシャレな服装でした? 清潔感はありました? 体臭のケアは? 他人を不快にさせるような臭いじゃありませんか? 言動は? 紳士的に振る舞いましたか? 彼女が困ったときにエスコートしましたか? 自分の都合を押し付けませんでしたか? 不快にさせる下品さはありませんでしたか? 自信をもって聞き取りやすい声でハキハキと喋りましたか? 何かを悩んでいるときに、その悩みをちゃんと聞いてあげようとしましたか? 彼女を軽んじた行動をしませんでしたか? 何をどう理解しようとしましたか? 彼女のこだわりを大切にしましたか? 彼女の願いを、望みを、祈りを、誇りを、あなたは幼稚だと笑わずに真摯に受け止めましたか? 価値観に共感して、尊重して、長所を褒めて、短所を諫め、彼女のための良き隣人であろうとしましたか?」
一気呵成に言い切った。それはまさしく少女じみた、いささかの憤怒を交えた義憤的な代弁であった。そう言い切ったその顔は、十分に年相応の幼さを取り戻していた。
「……めんどくせぇな」
疑問よりも状況よりも先に、ただ僕が垂れ流したものは、心の奥底からこぼれた感想だった。
「そう! 面倒くさいんですよ」
ニコリと微笑むと、ドンマイ、と彼女は呟いた。首筋にあたる指先は冷たかった。結局のところ、これは超常の類だ。最初から最後までこれは僕の妄想なのかもしれない。4人のメイドは存在せず、最初からこの古ぼけた洋館で一人、孤独を愛するだけの絶望だったのかもしれない。
「なるほど、いしき。君は僕にとって都合が良いだけの存在じゃないってわけだ」
「そんなの、当たり前じゃないですか?」
満足気に目をつぶると、僕は──僕は、悪魔がささやく声で意識を取り戻した。
「おい、待て」
これが夢か現実か、それは些細な問題だ。急激な睡魔が僕を襲う。そもそもこれは夢の中であったはずだ。僕は、そう、僕であるために僕を満たさなければならない。
「旦那さま、これはもう終わりですよ?」
ベッドから離れた彼女は、部屋を出る扉の前で、恭しく一礼するとこちらに振り返る。洗練された所作。まさしくプロの仕事だ。
「お前のことは分かった。ただ、僕の欲望は満ちてない。僕はまだ孤独で、誰にも愛されず、何も与えられず、ただ奪うことでしか価値を確認できない空っぽの卵だ。中身がない。だから腐ることもできず、孵化することもできず、ただ硬い殻を温めて欲しいと祈るだけの
視界がぼやける。彼女の顔を、その笑顔を、僕に向けられた微笑みを、僕はもう一度見なければいけなかった。
「いけませんか? 冷たい卵だから孵化することができなかった、それでいいじゃないですか。中身のない卵だから温められなかったなんて──そんな悲劇、わざわざ口に出してご確認なさるほど、旦那さまは間抜けですか?」
これは幕間だ。彼女の芝居はすでに終わっている。だからこそ、この視界はその表情を鮮明にとらえない。ただぼやけた輪郭の中で、彼女の口元が三日月のように歪んだような気がした。
イースターエッグ。あれは復活祭を祝うための卵だ。日持ちをさせるため、観賞用の卵は殻をそのままに穴を開け、中身をつぶして取り出す。そうだ、僕は──僕の祈りを詰め込むために、僕という殻を生き長らえさせるために、その中身を投げ捨てたのだ。
愚かにも繰り返した。ベッド脇の椅子に伸ばしたその手は、とうとう誰の手にも届くことはなかった。
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