冷たいカリカチュア(1)

宗教的通過儀礼イニシエーションとして、ウサギと僕はその両の手を恋人のようにつなぎ合わせた。迫る彼女の顔は既に死んだ魚のようにもみえる。薄手のロンググローブ越しに触れる彼女の体温は、依然として冷たいままだ。


「……今日はこれくらいで、やめておこうか」


彼女を演じてみるのはどうだ、と声をかけたところ「大変ですね」と素直な返答が漏れた。元来、淡々としていたウサギの動作だったが、少しずつ女性らしいリアクションや、愛くるしい所作を帯びるようになった。特に、その両の目を見開いてニコニコと僕の話を聞いている様子は、夢の中のいしきの姿と大きく重なる部分がある。


「これを聞いたら、怒るかもしれない」


そう聞くと彼女は怪訝そうに首を捻った。僕の顔をじっとみて、どうしてですかと尋ねた。あの夜のこと、孤独に震えた僕の頭に、「すみのいしき」が浮かぶようになった前日、握り返されなかった手の正体を、僕はどうしても知りたかった。


「僕は弱い。だけど、痛みを放置できないほどじゃない。現実を捻じ曲げるほどじゃない。……それでも、やっぱり突き放されたら悲しくはなる」


自分の心を守るために、彼女と自分自身への十分な言い訳をした。


「どうして僕の手を──握り返してはくれなかったのだろうか」


彼女は僕を見て、じっと、繰り返すように僕を見て、極めて理性的に頭を回転させながら言葉を選び始めた。後ろ手に、僕から見えないように隠されたその小さな冷たい手は、きっと理性では隠せなかった彼女の本心だ。


「それ以上を求められていると思いました」


大きな抑揚もなく、淡々と、それはプロフェッショナルとして十分な回答だった。私は人に触れるのも、触れられるのも好きではない。潔癖症とまではいかないが、みだりに接触を求められることを好ましくは思っていない。貴方の私に対する軽率な行動は、私の信頼を大きく損ねるものだった。軽んじられているような気さえした。そう、淡々と、彼女は当時の心境を述べる。


「それに仕事の範疇を、相当に逸脱していると思いました」


その言葉を聞いて、僕は無言で何度も肯定した。理解しようとした。彼女はいつも僕の目を見て話す。今だってそうだ。彼女の主張は限りなく全うで、僕はその言葉をただのひとつも取りこぼさないよう、いつまでも咀嚼するかのように、丁寧に丁寧にうなずきを返した。


沈黙。


彼女はなぜか、いつのまにか終始不安そうに眼を泳がせるようになっていた。


「そんな不安そうな顔をしないで欲しい。君は悪くない。何一つ悪くない。むしろ悪人を決めろといわれたら、誰だって僕を悪者にする」


少し落ち着きを取り戻したのか、そうですね、と小さく彼女は呟きを返した。いつものように僕の顔をまっすぐと見つめると、彼女は僕の口先が何かを言いたがるのを待っていた。


「ごめんね」


自分自身の口からいつの間にかこぼれた謝罪は、彼女の心に対してというよりも、手間を取らせたことに対する形式的な謝罪だった。結局のところ、彼女は僕の行動の意図を、自分から聞くことはなかった。


両者のやり取りは終始一貫、ビジネスとしての体裁を貫き通しているようにみえた。



糖分を欲し始めた昼の3時ごろ、知人から一通の着信が来た。あの悪名高い内閣府ミーム管理局安全管理課の仕事タスクに関する相談だ。依頼候補リストにある造形師ミーマーの一人として、先方から僕の名前が挙がったらしい。


名ばかりの安全管理であることは前身組織からも明らかであるが、彼らのことを思いだすと少し懐かしい気分になった。


二つ返事で依頼を了承すると、待ち構えていたかのようなスピードで仕事タスクの詳細が飛んできた。


「カール・ポランニー……」


カール・ポランニー。どうやら20世紀頃に活躍した経済学者のようだ。過去に存在した偉人の情報子ミームの再構成は、決して珍しい依頼ではない。


しかし、不可解な点は残る。学者のミームはよりも正確性を期待するのが常だ。我々のような特殊なチューニングを行うミーマーに対する依頼が適切だとは思えない。


「なるほど。クライアントに聞けということか」


来週の火曜にアポイントメントを取ると、僕は書斎の隣にある工房に移った。仕掛り中のミームに対し、パッチを当てるシミュレーションを行う。


「従順で、誠実で、僕のことだけを愛してくれるアイドル、ね……」


依頼主からのヒアリング結果を反芻して、仕上がりの姿を心に刻み付けていく。本来のミームの特性を消さずに、不自然にならないよう改変を加えていく作業だ。


「よし──これで」


調律された確率場モデルが、淡く桃色の輝きを放ち揺らめいている。あとは依頼主に確認をとって最終の仕上げだ。恐らくこのミームは使されることが予想されるので、仕上げの補強は可能な限り丹念に行うべきだろう。


高品質であること。期待に応えるのは当然で、使用者が長期間安心して愛用できるミーム。さらに言えば、使えば使い込むほどに手に馴染む遊び・・も必要だ。


確率場モデルのパラメータは優に数億を超えるが、ミームの拍動フローを見ていけば自ずと整うべき場所がある。


「やはり、僕はヒトの欲望を叶えたい」


誰の耳にも届かないよう、虚空に言葉を吐き出した。


強制力を失った契約は意味のない雑音だった。糞にたかるコバエのそれに近い。ルールを蔑ろにされること、がルールを軽んじたその屈辱を、僕の憎悪は十全に理解している。だからこそ、雑音ノイズを刻み付けるのだ。忘れないように。見失わないように。


依頼主にとって、この情報子アイドルは永遠となるだろう。彼のルールは、ようやく初めてヒトとしての扱いを受ける。彼女は彼のルールに寄り添い続けるはずだ。例えその情報子ミームが自壊することになったとしても。

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