イースター・バニー(2)

何かの本で読んだ、タルパという言葉が頭に浮かぶ。イマジナリーフレンドの一種だと思えば説明もつく。微笑みかける顔、優しく撫でるような声、白くきめ細かな美しい肌。その雰囲気は全てを受け入れるような慈愛に満ちている。


「全然違います。私はもっと、旦那さまと仲良くしたいんです。契約を超えた主従の関係。いやぁ……それは、言い過ぎか……」


おちゃらけた仕草も、媚びるような表情も、僕の世界には届かなかったものだ。それこそが人間としての格差なのだと、ブリキでできた無価値の王冠が鈍く光る。


心の中で、媚びる表情を向けられた僅かな記憶を思い出した。全てを投げ出してでも貴方に肯定してほしい、その感情の悉くは僕の中の悪魔に捧げられた祈り──つまりは、命乞いだった。


僕を嘲笑した全ての悪意に、僕は必要な分だけ処置をした。善悪はなかった。ただ、それを叶える能力ちからがあった。全てに対処できるほど暇ではなかったが、全てを無視できるほど忙しくもなかった。


「信頼って大事だと思いませんか? 約束って大事だと思いませんか?」


少女は片目を閉じながら、人差し指をチッチと振って、分かってないなぁという表情を浮かべる。


すみのいしき。疑問すらもなく、それが彼女の名前なのだと確信した。


芝居がかった仕草や表情に、ビオラの面影が少し思い浮かぶ。唇の先をつんととがらせ、その少女はいじけた顔をした。本質的な嫌悪が僕の心に沁みだす。その都合の良い妄想は、現実の僕に向けられたものじゃない。上映される幕間には、能面となった彼女がぽつりとそこに佇んでいるはずだ。


「要するに、旦那さまは、恥知らずなんですよ。こんな小娘に、常識について今更、お説教されているわけですから」


これは愛だ。ついぞ、僕が手に入れることのできなかった打算のない愛だ。夢の中の僕は、さも当たり前かのように、彼女のその気遣いを受け入れていた。


感情が鈍くくらく、まるで夜のとばりが空を覆ったかのように冷えた。弱さは、塔のようにうず高く積まれても誰の目も引きやしない。僕だけがその弱さと向き合うことができた。他人はどうだった。押し付けて、逃げ出して、僕が掴んだ手を握り返すことさえなかったじゃないか。


挑戦者──砂糖菓子のように甘い弾丸をヒトに投げつけて、そのたびに傷つく愚か者だ。けれど僕は知っている。繰り返すんだ、痛みを感じなくなるくらい。反復して反復して反復して反復して、すると──それは、少しずつ日常を壊す。


結局のところ、これはただの我慢比べだ。殴られたら殴り返せ。それを自分の手足がへし折れるまで続ける覚悟。性根の前提が異なる。僕は痛みを忘れないし、僕は罪を許さない。例えこの足が潰されようと、僕は這ってでも前に進み続けるだろう。


救いがあるかどうかは関係がない。ただ動き続ける。既に僕は、そういうシステムに成り下がった。 


それでも僕はおそらく、この無条件な優しさに包まれたかったのだ。白馬の王子様を待つ少女のように、人間らしい生き物として。


「今回だけですよ! ちゃんと信頼したいんですから。約束、守ってくださいね?」


僕は一体どういう返事をしたのだろうか。上目遣いで僕をみる少女の顔は、これまでにないくらい満足そうだった。


夢から醒めた後はひどく疲れている。この狂気は、ただの孤独をこじらせた男の妄想ではなかったのか。現実の境界線を少しずつ侵し始めた。これは、対処すべき問題なのだ。



「馬鹿な相談をさせてくれ。──変な夢を見るんだ」


朝食を口にするよりも早く、僕はウサギを引き留めて会話を始めた。毎夜同じ女が夢に出てきて、僕と親しげに会話をしている。ウサギは怪訝な顔で僕を見て、それを下世話な話だと受け取ったのか、少しまなじりを上げた。


「いや、そうじゃない。本当にただ、僕を愛してくれている。僕を肯定してくれている。お前とは違ってな」


余計な一声だった。お前、と呼ばれたウサギの目はどこか冷たい。呼び方がかんに障ったのだろうか。単純に怪談の類が苦手なのかもしれない。都合の良い妄想を侮蔑しているようにも見える。もしくは、相談したこと自体の意図を、彼女は未だ図りかねているのかもしれない。


僕が知っているのは、今も昔も悪魔を支配する方法だけだ。人生で繰り返したごっこ遊びを、再び淡々と繰り返す。


「大事なのは事実だ。今の僕には金があって、僕は理想の女を夢にみるくらい頭がイカレていて、僕はこの場所に交渉の余地があると思って話しかけた」


片側の頬がピクピクと、痙攣しているようにもみえる。怒るなよ、と付け加えたら、怒っているわけではありません、と返事があった。


「つまりだ、口にするのも恥ずかしい内容だけれど、演じて欲しいんだよ。夢の中の理想の女の子ってヤツを」


沈黙。何も言ってはいないが、片方の眉が上下に動くのを見た。彼女の言い分を顔から察するに、「すみませんが何を言っているのかよく分かりません」ということらしい。言葉が通じない相手に対しては、非言語ノンバーバルコミュニケーションを巧みに使いこなすようだ。


「それは仕事ですか? 私は、貴方の欲望を満たす道具ではありませんよ」


元来、潔癖症とも思える彼女の気質だ。相応とも思える返事をもって当然のように返された。僕は間髪入れず、朝食の準備に戻ろうとする彼女の動きを指先で静止する。


「道具ではないからこそ──誠実さを、冷静さを、そして深い思慮と対等な関係を、合理性のほかに自分の都合よく望んでしまう。君だって僕に対してそうあって欲しいと、常々口にしているじゃないか」


腹の底から意気地の悪い笑いがこみ上げてきた。あの夜、孤独に怯えていた僕はどこにいってしまったのだろう。誰かがいて欲しい願う純粋な祈りは、この欲望を処理する道具に成り下がったのか。そういうシステムに、作り変えられてしまったのだろうか。


「まぁ、仕事っていうのは互いに気分よく働けるよう努力すべきだ。そういう点では、君の支えに一度だって感謝しなかったことはないよ」


正直に言えば彼女の仕事ぶりに文句はない。むしろ、心地よいとすら思っている。彼女自身がどう思っているのかは分からないが、ただ最後まで残った、それだけで貴重な人材だった。それは彼女の処世術の賜物でもあったし、直截な彼女の発言は察しの悪い僕に丁度良かったらしい。


「馬鹿にしているわけじゃない。君を軽んじたつもりもない。これはあくまで相談だ。この仕事を頼めそうな人間がすぐ近くにいたから、一番最初に話を聞いてほしかっただけさ。君が好きな場所で好きなように働けるのとさほど変わりはしないよ。困りごとの相談くらい、好きなタイミングで好きな相手にさせてくれ」


彼女は、何か思案するように口元を抑えると、考えてさせてください、と小さく返事をして朝食の準備に戻った。


別にどちらでもよかった。けれど、話し終えた僕は既に確信していた。


夕暮れ時、月のない空はほの暗く紫色に染まる。瞑色めいしょくの空が、さらに大きく夜に傾く頃、小さなノックの音が書斎に響いた。



夜──月のない夜だった。進むべき道も分からない、真正の闇だった。

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