イースター・バニー(1)

これ以上はない。言葉ではなく行動で示せ。


彼女が放つ朝の挨拶は、痛々しいほどに現実だった。その目は怒っているようにも、少し泣いているようにも見えた。朝食が終わってもしばらくの間、視線が合わさることはなかった。


ビオラに聞いたことがある。変わりが用意できない場合はどうするんだ、不安じゃないのか、世の中に一つだけしか与えられないモノがあったとして、それをどうやって引き留めれば良い?


「だから、大切にするんじゃないですか?」


彼女はいない。この屋敷は既にウサギと僕の二人きりだ。淡々と仕事をこなし、二三言、他愛もない相槌のような会話をして、日課のトレーニングに出かけた。


このまま永遠と走っていたかったが、いつもより調子の良いペースで屋敷へ戻ることになる。


「おかえりなさいませ」


冷静に理解できることもあった。寝台のそばの椅子は、もう用事を申しつけても埋まることはないだろう。押し寄せる孤独は、愚かさの代償だ。空の椅子に手を伸ばしても、冷たい温もりですら僕の指先には届かない。


頭痛薬と睡眠薬を流し込み、誰もいない寝室で静かに横たわる。色彩のない世界を閉ざす瞼。その瞼の裏を見ても、同じく幕を下ろした暗黒だった。黒洞々と伸びる夜を抜け、明日になればすべてを繰り返す。そうやってまた、一日を耐えるのだ。


──それは分かるほどに夢の出来事だった。



「『罪の意識』はありますか?」



ポチのように愛くるしかった。ローズのようにたおやかであった。ビオラのように思慮深く、その姿は異なる世界へ招くウサギのようにも見えた。


紺碧のワンピースに白いエプロンドレス。この屋敷のメイド服と同じ柄だ。都合の良い部分だけを食い合わせた芋継ぎのヒトガタ。その姿に、その刹那に、取り返しのつかない何かが、失ってはいけなかったものの深さが、足元から氷のように早く冷たく迫る。


「冗談ですよ、旦那さま」


寝室の横にある椅子から立ち上がると、くるくると回りながら部屋を移動した。当然、僕の体は動くはずもなく、ただその姿を眼の端で追うだけである。


「あれれー。あまりの可愛さに、腰ぬかしちゃいましたか? ドンマイ」


モノクロだった世界がとたんに色彩を取り戻す。愛だ。少女の微笑みが僕に向けられたのは、彼女の両の手が僕を包み込んだのは、誰にも愛されることのなかった僕を掬い上げたのは、その全てが愛によって導かれた奇跡。


夢の中で目をつぶる。きっとそれは、誰かに祈りたかったからだ。包まれた両の手は静かに導かれ、その指先は初めから一つであったかのように絡み合う。手の温度は、とけるほどに熱い。ゆっくりと倒れた彼女の上体が迫る。胸元の柔らかな感触だけがやけにリアルだった。


だから僕は、唇から目が離せ──正気に戻った僕は、あらん限りの力でその額に頭突きを食らわせた。


「お前は、現実リアルじゃない」


無意識に垂れ流された憎悪の塊こそが今の僕である。繰り返された祈りは届くはずもなかった。だからこそ、人と悪魔の境界はあいまいになったのだ。


しかし、少女の顔には欠片の怯えもなく、その全ての憎悪すら抱きしめたいと願う、そんなにこやかな笑みが張り付いていた。例えるなら、額をこつんと重ねあわせる動画を逆再生したような気味の悪さだ。


意識はそこで途切れ、気付けば朝になった。


「僕は健康のために体を鍛えている。医者にもそういわれた」


夢すらも恥辱だった。朝コーヒーを飲みながら、誰でもない自分自身のためにそう言い聞かせていた。夢の中の暴力の感触が残っている。ウサギは不審そうな顔でこちらの様子を見ていた。


誠実さは自分なりにあった。しかし、それは弱さゆえの優しさではなかったか。ふと、気になってウサギを見た。彼女とまったく同じ瞬間に目が合って、少し気まずい空気が流れる。僕は大仰に頭を振って意識を逸らしたが、自分の怯えを隠すことはできなかった。


夢の中の彼女と会う回数は、既に10を超えていた。そのたびに彼女を否定して目を覚ます。いや、見栄を張った。正直に言えば、何度かは屈服した。最後まで愛に包まれたその日は至上の目覚めだった。現実リアルを虚無に変えるその代償は、決して安くはなかったが。


頭に浮かんだものは、嘘にまみれたビオラの手紙だ。それは、全ての人間に仕方ないねと思わせる、優しさを詰め合わせたような最後だった。結局のところ、本質には変わりがない。失った。誰もこの空虚を埋める部品にはなりえない。


僕は、自分自身が求めているものの醜悪さに歯噛みをした。結局のところ、僕が満たしたいものは、自分勝手に空いた隙間へうまく詰め込める緩衝材だ。 


夜が訪れる。隅の意識──夢の中の少女はまたそこにいた。

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