プロローグ(2)
その日は快晴だった。思い出せること──そういえば久しぶりの休み、僕は庭でアウトドアマットを敷いて寝転んでいた。秋にしては珍しく、日差しが強くウトウトとする陽気だった。
シングルベッドくらいの大きさの場所に、小さな影が転がり込む。ポチだ。首を上げると、んっ、と喉をくぐもらせて首の下に腕を差し込むことを要求した。
腕枕をした先にある横顔は事実幼い。この中で一番年若い彼女は、最も強い信頼を僕に寄せていた。満足げなその顔が、ウトウトと寝息を立てて揺れる。
地平線の先、通りがかったビオラが僕らを見た。その顔には、嫌悪と
そういえば昔、アリの手足を引きちぎって笑う学友がいた。僕は今でもそれを可哀そうに思えるのだろうか。力ない弱者を弄ばずに、慈しみの心をどうか清く保てているのだろうか?
今この腕の中にあるのは弱い頃の自分だ。日が落ちてきて、少し肌寒いのか
滑らかな動作はゼンマイを巻いた人形のようだ。口角は意思もなく持ち上がっていた。全てが満たされなければならない。心の大木に青々しい緑を、いつまでも生い茂らせるべきだ。完成に向かって試行を重ね、完了に向かってタスクを積み上げる。
僕の顔は、あの手足のない、無機質なアリのようだった。
「どう思った?」
夜。部屋に呼び出したビオラは、何故かポロポロと涙をこぼし動揺した。不安であったらしい。しばらくして落ち着いてから、その声を聴いた。
「……気持ち悪いと思いました。客観的に言って、引きますよ。ドン引きです。無理。いやもう、いや無理。ちゃんと気を付けてくださいね。距離感保たないとだめです」
彼女は、今までにないくらい饒舌だった。そうだね、と端的に同意を返す。ビオラの言葉を、僕は何一つとして否定する気にもなれなかった。「働きやすい環境を提供する義務がある」そして彼女の主張は全うだ。
これからは気をつけるよ、と心にもなく付け加えた。
「そこまでいったら、勝手に上がっていくものですよ。好感度って」
シャワーを浴び終えたばかりのローズが、話を求めにたびたび寝室へ来ることは黙っていることにした。
結局のところ、あれはシーソーゲームだった。
ポチ、ローズ、ビオラ、ウサギ。誰か天秤が傾いたほうを残す。仮に失敗して全員がいなくなったら、また最初からやり直せば良い。そう思うと心が幾分か軽くなった。
ふと息を吐くと、心の奥底に沈めた悪魔がこちらを覗いているような気がした。これは昔、僕が天啓を得るために求めたものの残滓だ。今更頼るものでもないし、既にこれは僕より弱い。
天秤が動く様子を想像するために、少しだけ目を閉じた。
そして
ビオラは嫌われていた。それはビオラの言動を、僕が他の使用人に逐一相談していたからだ。主人に嫌われた使用人と、好んで仲良くするメイドはいない。
正直に言えば、何も感じなかった。僕を嫌いだったとして、受け入れがたいほどの汚物だったとして、まぁそう思う人間がいても仕方のないことだ。問題があれば必要な分だけ、いつものように──。
けれど、ビオラは嫌われるということを極端に恐れていた。端的に言えば、人前で格好をつける振る舞いも少なくはなかった。そして、正義感もほどほどに強い。けれど、それを押し通せるほどの強さがないことは、彼女自身がどうしようもないほどに自覚していた。
それほど難しい話ではない。少し刺激する程度に弱く振る舞えば良い。私は正義だと、私は戦わなければならないと、そう思わせれば良い。
彼女は、メイドたちに見える場所で僕を侮辱した。無論、彼女自身の溜まっていた感情もある。嫌悪を、醜悪を、侮蔑を。その一切をぶちまけた。
僕の軽薄な言動を否定する彼女の言葉は、何一つ間違っていない。主張は全うだった。
「こんな男に仕えてるなんて、頭おかしいンじゃない──!」
捉えた。この言葉が決定打になる。
「僕を侮辱するのは良いが、彼女たちを
それだけだ。その一言で彼女は正気に戻る。契約を解除したいなら、違約金を払わなければならない。僕自身もそれは望んでいない──何に怒っているのかはよく分からないが、不快に感じた行き違いがあったことは分かった。しかし、それは他の使用人を侮辱して良い理由にはならない。
彼女は押し黙る。天秤を動かすために。
ポチは僕にこう諭した。お前は舐められている。主人としての威厳を示せ。ローズは僕に声を荒げた。許せない、徹底的に痛めつけろ。ウサギは訝しみながらも、仲直りができるようにと助言をした。
『借り物の悪意でしか、他人に危害を加えることができない』
これはルールだ。己の人生に課した制約の一種。破ったからといって何かがあるわけでもない。昔、悪魔に教わっただけのおまじないだ。
ポチとローズは消えた。他人に向けた悪意を、自分自身で味わったからだ。
「僕としては、約束を守ったつもりだ」
ぞっとするほど滑らかに、僕の天秤はビオラたちに傾いた。僕自身の感情は、情状酌量の余地もなく、ただ最初の約束を履行するシステムの前に消費された。
人が去り、録画された彼女たちの思い出は、ただの映像資料となった。
流れる映像。何かを耐えるような表情。静かに怒りをたぎらせた顔。彼女たちが解雇される様子を鑑賞しながら、ビオラとウサギは押し黙る。
「これで問題は起こらない。君の期待に応えただろうか?」
ビオラは、一瞬媚びるような表情で僕をみたが、すぐにいつも通りの顔に戻った。
「それは前提として当然のことじゃないですか?」
スン、と澄ました顔で平然と言ってのけた。職場をどうにかするのはお前の義務だ、風紀を守るように努めただけだ。それだけの話だったと。彼女はそこそこによく働いて、もう戻ってくることはなかった。
最後に一人残ったのはウサギだ。ウサギは僕を導く。言葉をちゃんと、コミュニケーションの道具として扱うメイドだった。言葉は、自分の主張をぶつけるだけの道具ではないと僕を諫めるような言動も少なくはなかった。
誠実さ。誠実さ。誠実さ。
誠実さをうず高く積めば、きっと僕はこの虚しさから逃れられる。
誠実さとは、約束を守ることだ。契約を履行することだ。誰も否定しない、誰も否定できない。だから僕は、正しさで狂う。それは時を刻む秒針のような正確さで。
考える時間が増えた。明滅する恐怖が、詰めモノのように溜まった不安が、僕を際限ない孤独に苛む。絶望が押し寄せてくる。小人たちが運んでくる無価値の王冠を、ベッドの隅に幻視するようになってもう何年経ったのだろう。
頼み込んだ僕はその指先に触れた。ベッドの脇から伸びた、ウサギのその冷たい指先を少しでも温めたくて必死に縋り付いた。
途端、パシリと手の甲を叩く音がして、勢いよく手が離れた。駆け出して行った廊下の遠くから、洗い場で手をこする音が激しく響く。
──静寂。
戻ってきた彼女は、再びベッド脇の小さな椅子に腰かけた。その柔らかく小さな手が、僕に差し出されることはもう二度となかった。
薄暗い部屋で、独り。
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