第16話 クジュの運命

 午後5時を少しまわった頃、私は、私物を詰め込んだ段ボール箱を一つ抱えて会社のエントランスを出た。


 ドンドコ、ドンドコ、ドドドン、ドドン! ドンドコ、ドンドコ、ドドドン、ドドン!


 不快な振動が私の身体をとらえた。洗練されたアーバンチックな趣が漂うオフィス街に、それとはおよそ馴染まないドラムの音が、地面を這い広がるように響いていた。


「どーもぉー! どもどもどもども! フォックステイルズだぞっとぉ! 先ずはいつもの曲〈お前のハートにワンハンドレッドねこパンチ!〉だ! マジ聞いてくれって!」


 会社のエントランスから少しだけ離れた歩道で、中途半端なアフロヘアをしたマイクを持った青年が、その気はなくとも実質的には媚びを売るような口調で、どこかオドオドとしたノリの悪い動きを見せながら叫んでいた。


 どういう趣旨かは知らないが、それは、月曜日にときどき行われるゲリラ的な路上ライブだった。ボーカルと思われるそのアフロヘアの若者の他に、ギター、ベース、ドラムのそれぞれを担当する三人の若者がいた。いずれの若者も年齢は二十代前半くらいで、アフロの若者以外は、なぜか全く視線を上げることなく、なんとなくすかした表情で演奏をしていた。


 そのバンドの周りにはすでに、申し合わせたように十代、二十代の女の子たちが大勢集まっていて、ときおり白くこぼれる歯と、リズムに合わせて揺れ動く髪の毛とが、喜々とした雰囲気を互いに跳ね回していた。


 帰宅ラッシュが始まりつつあり、家路を急ぐ人たちが、地下鉄の駅やバス停に向かって先を争うように歩いていた。路上ライブの近くを通らざるを得ない中高年のサラリーマンやOLたちは、疲れた顔に険しい目つきを寄せながら、狭くなった歩道の脇を体を横にして通り過ぎていた。


 外では、路上ライブの群衆から少し離れた所でケンタとレイが私を待っていた。


「あっ、やっと来たやん。待ちくたびれたで、早く早く!」


 私は、肩からずれ落ちそうになっている鞄のバンドを、もう一度かけ直した。


(くそ、こっちは仕事の引継とかでいろいろ大変だったんだぞ)


 私は小走りでケンタたちの所に向かった。


「ほんでも兄貴、ホンマによかったんか? 仕事辞めてもうて。せっかくリーダーになれたのに」


「うるさい、俺をハメやがって! あのまま何食わぬ顔をしてあそこで働けっていうのか、冗談じゃない!」


「ハメたって、そんな人聞きの悪いこと言わんといてくれ。兄貴が望んどったことやないか」


「だまれ、お前とはもう口もききたくない」


 迂闊だった。セブンスについてまだ知らないことがたくさんあることは分かっていたはずなのに、私は何の警戒心も持たずに、まんまとケンタの口車に乗ってしまった。


「分かった、俺が悪かったわ。この通り謝るから許してくれ」


 そう言ってケンタは頭を下げたが、私は不用意な自分に腹を立てているのであって、ケンタの謝意など全く求めてはいない。


「フン、で、俺はこれからどうすればいいんだ?」


「おっ、兄貴、許してくれるんか? そうそう、こういうことはさっさと水に流して前に進まなあかん」


「お前が言うな。ん?」


 胸のポケットに入れてあった携帯が振動した。取り出して見ると、LINEのポップアップでクジュの顔が小さく表示されていた。


「クジュか」


 私がそう言うと、ケンタが突然顔を曇らせた。


「ほら兄貴、さっさと帰るで!」


「なんだよ、ちょっと待てよ。彼女、何を言ってきたのかな?」


 携帯の画面をタップしようとしたとき、


 ドン、パパパン!


 大きな破裂音が聞こえた。


 キャアアアア! バババン、バン! うわあああ! ドドン、バパン!


 すぐ後に悲鳴のような音と破裂音が交互に響いた。


「なんだ?」


 私は初め、路上ライブで何かが起きたのだと思った。見ると、ライブはすでに中断されていたのだが、何か様子が変だった。バンドのメンバーを含む路上ライブに集まっていた人の多くが、私たちのいる所とは反対方向の、大通りの方をじっと見ていた。彼らと同じ方向に目を向けると、私のいる位置から百メートルくらい離れた交差点に、信号と車を無視してなだれ込む人の群が見えた。


 バババン、ババン、ガシャガシャガシャーン!


 突然、その交差点の近くにあるビルの二階の窓ガラスの横一列が、突然割れ落ちた。


 キャアアアア!


 ライブに来ていた女の子たちが一斉に悲鳴を上げて、私のいる方向に走ってきた。何が起きているのか全く把握できないまま、私はその群衆に飲み込まれた。


「何なんだ! 一体!」


 身構えるようにして立っていると、私の左手を掴む者がいた。ケンタだった。


「逃げるで兄貴、無差別銃撃テロや! イカレたおっさんたちが、ライフル銃で撃ちまくっとる!」


「なんだと?」


 交差点を見ると、迷彩柄のズボンに黒のタンクトップを来た二人の男が、アクション映画などで見るようなアサルトライフル(自動小銃)をもち、周囲の人々に銃口を向けていた。


「おそらく200人近くの人間が犠牲になるで! ものすごい運命の渦を感じる。セブンスに目覚めたとはいえ、兄貴の今の力じゃこの流れに対抗するのは難しい。早くここを離れるんや!」


「くそっ、なぜこんなことが?」


「こういうテロは今、世界中で起きとる。この国かて例外やない……やっぱり、セブンス以外の人間も何となく分かっとるのかもしれへんな」


 何かを言いかけたケンタの言葉が少しだけ気になったが、事態は急を要していた。


「さあ、行くで!」


 そう言ってケンタが移送チューブを作り始めたとき、私はテロリストたちのことが気になって交差点の方に再び顔を向けた。すると、逃げる途中で親からはぐれてしまったのだろうか? 二、三歳ぐらいの子供が、道路の真ん中に泣きながら座っているのが見えた。テロリストの一人が、銃を乱射しながら、その子供の方に近づいていた。


 そのとき突然、道路の両側から二人づつ計四人の大人が子供の方に駆け寄ってきた。その中の一人に、どこか見覚えのあるジーンズ姿の女性がいた。


 バババン!


 テロリストが彼らに気づいて発砲した。一人が肩を撃たれてその場に倒れ込むと、二人は引き返してもとの歩道に逃げ込んだ。残ったのは女性だけで、なんとか子供の所にたどり着くと、子供を抱き抱えようとして私の方に背中を向けたとき、大きな白い鷲のバックプリントが見えた。


(まさか!)


 背筋が一瞬で凍り付いた。その女性が着ていたジージャンは、昨年のクジュの誕生日に私がプレゼントしたものとよく似ていた。私は、いや違う、こんなところにいるはずはない、と自分に言い聞かせながらも、すぐさま改めてクジュとしてその女性を見ると、少なくとも背丈や髪の毛、そしてその仕草のいずれにも違う部分は見あたらなかった。


「馬鹿な!」


 私は思わずその女性の方に走りだそうとしたが、ケンタが私の左手を掴んでいた。


「兄貴、行ったらアカン!」


「放せ、ケンタ! あの女性はクジュだ!」


「そうや、だからや!」


「なんだと?」


「御木さんはここで死ぬ。そういう運命なんや!」


「運命って、お前、知っていたのか!?」


「最初に会ったとき、ああ、この人はあと数年しか生きられへんなって。せやから俺は、できるだけ御木さんとは会わんようにしとった。仲良くなるほどつらくなるだけやから」


 クジュを避けていたというケンタの告白が、私の胸を鋭く突いた。確かに私の知る限り、クジュに紹介したときを含めて、ケンタはこの三年半の間におそらく数回程度しか会っていない。クジュは画廊の仕事が忙しいし、ケンタがなかなか彼女と会えないのは仕方のないことだと、私は勝手にそう思い込んでいた。


「くっ!」


 私はケンタの手をふりほどこうとした。だがケンタの右手は、私の左手首にきつく食い込んで決して放そうとはしなかった。


「兄貴、ここは絶対にアカン! 仕方ないんや、これは御木さんの運命なんや!」


「放せケンタ! それなら、そんな運命なんか、俺が〈カットイン〉して」


 バキイ!


 言い終わる前に、ケンタの左の拳が私の顔面をとらえた。私は、そのまま歩道の石畳の上に倒れ、すぐさまケンタが私の上に馬乗りになった。


「ええかげんにせえや、このアホンダラァ! ホンマに死んでまうど!」


 ケンタの眼光が、怒りと共に私の両目を貫いた。


「この三年半、俺がどういう思いで兄貴を待っとったか、いや、俺だけやない、みんな、みんなが兄貴を待っとるんや! 兄貴の命は兄貴一人だけのものやないねん!」


(み、みんな?)


 だが、その言葉の真意を追えるほど、私の思考力は、ケンタの拳によるダメージからまだ回復していなかった。私は、ケンタに押さえつけられながらも、強引に頭をわずかに上げてクジュの方を見た。


 ババン!


 テロリストの一人が、クジュの足元に威嚇射撃をしてその動きを止めた。クジュは子供を抱いたまま、その場に立ちすくんでいた。


「ク、クジュ!」


 そのとき、私の体の全細胞がクジュで支配された。


 いつも私の胸にピンッと差し込んでくる微笑みをこぼすクジュ、遠回りをしながら丁寧に拾い集めてきたような言葉で私を励まし、そして、決して代替のきかないその温もりと、ときには狂おしいほどの吐息で私を包んでくれたクジュ、そのすべてを今、私は失う!


「ケ、ケンタ、は、放せ! さもなければ、ここでお前を……殺す!」


「な、なんやと?」


 一瞬、ケンタが怯んだ。すかさず私は右拳でケンタの下顎を振り抜いた。軽い脳しんとうを起こしたケンタを、私は強引に投げ飛ばすようにして横にどかすと、すぐに立ち上がってクジュのもとに走り出した。


 ケンタに言ったことは私自身も相当なダメージを負う言葉だった。だが、それほどの暴威を含むものでなければ、ケンタの拘束を解くことはできなかった。


「くそっ、だめや兄貴! 行ったらアカン、行くなー!!」


「ケンタ! アレヲミロ!」


「何やレイ! えっ? おおお! いつの間に!」


「ケンタ、ヤッパリアイツハ」


「ああそうや! 兄貴や!」

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