第14話 出勤

「しまった、もうこんな時間か。ケンタ、このつづきはまた帰ってきてからだ」


 そう言って私が自分の部屋に行こうとしたとき、ケンタが私の前に立ちはだかった。


「待ってくれ兄貴、仕事とか、そんなことは今の兄貴にはもうほとんど関係ないねん」


「関係ない? 何を言ってる? セブンスだかなんだか知らないが、働かなければ暮らしていけないことは一緒だろ? そこをどいてくれ」


「いや、どかん。話をせなあかんことがまだ山ほどあんねん。もしどうしても行くいうんだったら、俺らも一緒に行くで」


「なんなんだよそれ? くそっ、もう時間がない。勝手にしろ!」


 私がそう言うと、ケンタは素直に廊下の脇に寄った。


「兄貴!」


「今度は何だ?」


「朝飯は?」


「え? ああ、冷蔵庫に入れておいてくれ。帰ってから食べる」


「ほーい」


 ケンタが自分と私の分の朝食を片づけている間に、私は急いでスーツに着替えて身支度をした。その間レイは、キッチンの椅子に座り、一人静かに朝食を取っていた。


「よしっ、行くぞ」


 出勤する用意ができて、私が玄関で靴を履いていると、白のパーカーとダメージジーンズに着替えたケンタが、ニヤニヤしながら私の背後に近づいてきた。


「兄貴」


「ん?」


「きっと、驚くで」


「はあ?」


 そう言って私は、ケンタの方に少しだけ振り向いて眉を寄せた。そして、靴を履き終えると、玄関の扉を開けてマンションの外廊下に出た。その瞬間、いつになく目映い光が、容赦なく眼球に差し込んで来て、周りが真っ白になった。


(な、なんだ?)


 目を細めながら、眩しさが収まるのを待った。そうしてやっと目が慣れてきたと思ったとき、


 う、うわああああ!


 私は、声にならない声を上げた。息をするのさえ忘れてしまうほどの驚嘆、それが永遠に続くような感覚に捕らわれ、全身が震えた。


 マンションは地上21階建ての高層マンションで、私たちは18階に住んでいた。普段なら最初に目に入る景色は、鬱蒼とした緑が栄える神宮の杜だった。すなわちそこには、周囲の高層ビル群による無機的な景観とは対照的な、見る者にすんとした安らぎを与える都会のオアシスとも言うべき場所がある。しかし、眼前の光景は、これまでと全く違う常軌を逸したもので、神宮の杜などはほとんどオマケに過ぎなかった。


 こ、これは一体?


 神宮の杜の上空には、漆黒の巨大な建造物が浮いていた。いや、浮いているというよりも、その空間に当てはめられているという表現の方が適切かもしれない。その建造物は、そこに存在することがむしろ当然であるかのように、この世界との一体感と、なにか頑とした雰囲気とを漂わせていた。


 私はなんとか気持ちを落ち着かせようとしたのだが、それはほとんど無駄なあがきだった。これまで経験したことのない激しい興奮が、私のあらゆる感覚を麻痺する寸前まで追い込んでいた。


 その巨大な建造物の中で最も目の引くのは、その中心部分に存在し、且つ最大の大きさをもつ、エジプトのピラミッドを上下逆さにしたような構造体だった。無数のブロックが巧妙に組み合わされて成るその構造体は、経年の変化を全く感じさせない真新しい独特の光沢を放っていた。


 また、その逆ピラミッド構造体の周りには、古代のギリシア・ローマで造られた神殿に似た建物が、まるで原子軌道のように、幾重にも、且つその傾斜角度を相互に違わせながら帯状に連なっていた。


 私はゆっくりと歩き出して、外廊下の手すりに手をかけた。すると、すぐ下の方に何か大きなものの気配を感じてぎょっとした。よく見るとそれは、禍々しい獣のようなものをかたどった像で、まるで生きたままで固められてしまったようなリアルさがあった。その獣の像は、立派な台座の上に据えられた状態で、鋭い目つきを私の方に向けていた。


 こ、この像は一体……?


 さらに周りをみると、そうした巨大な像はそれだけではなく、他にも例えば、天を突くような長剣を手にした戦士が、目の前の敵に咆哮を上げているかのごとき様子を表したものや、言葉ではとても言い表せない超幾何学的な形状をしたもの等、様々な形をした像があった。それらの像は、外廊下から肉眼で確認できるものだけでも何十体とあり、これまでに訪れた美術館等で見てきたどの像よりもはるかに大きく、なお且つかなり異様な存在感を放っていた。


 私は目を凝らしながら、視界に入るものすべてに注意を向けた。少なくとも何千、もしくは何万、もしかすると何十万にも及び得る数の像が、逆ピラミッド構造体を中心として放射状に配置されており、そして互いに近接する像の間を埋めるように、足場となるブロックの塊が置かれていた。


 私は大きく深呼吸をして、全神経のエネルギーを刷新し、目の前の建造物の全体にそれを注いだ。すると、その逆ピラミッド構造体を核とする、得体の知れない莫大なエネルギーを秘めたとてつもなく巨大な球体が、遙か古の時代から延々と光と陰を生き紡いできたような、そしてさらに、この世で最も尊いものの一つとされ、なおかつ人類にとってはまだ未到の知を含む「生命」という概念さえもすでに超越した存在であるかのような、一人の人間には耐えしのぐにあまりある感覚が、私の元に跳ね返ってきた。


 像の群が存在する領域のさらに外側は、細かすぎて肉眼でははっきり分からなかったが、何かの残骸のような小さなブロックの群が、地平まで延々と散在しているようだった。


 トン!


 そのとき突然、私の近くの手すりの上にレイが飛び乗った。彼女はまるで猫のような身軽さで、造作もないという感じだった。レイはそのまま両腕を左右一杯に広げた後、前の方で両手を合わせ、その両手を天高く上に突き出し、そのままゆっくりと上体を前方に倒して、身体を深く折り曲げた。


「ほら、兄貴もやって」


 ケンタが笑顔で私の横にならび、レイと同じように、両腕を一杯に広げた後に前の方で両手を合わせると、目を閉じて深くお辞儀をした。


「ケンタ、一体何を?」


「何て、感謝の祈りや、この壮大な光景を見たら、嫌でもこうしたくなるやろ?」


「感謝の祈り?」


「そうや、俺たちの住むこの世界が、今、こうして存在していることに!」


 そう言うケンタは、何かとても嬉しそうだった。マンションを出たときから外の光景に圧倒されていた私は、ケンタに促されるまま、とりあえず両手を合わせて目を閉じた。そのとき、レイのいる方から声が聞こえてきた。目を開けると、その両腕を大きく左右に広げながら、顎を少しだけ上に向けて空を見据える、そんな凛としたレイの姿が見えた。


 Oh, the wind rises to you.


 The whispers of light and shadow wake up shaking my heart.


 Where shall we go?


 Just with the warmth we have together.


 Rainy morning, misty night.


 Even if I can not see anything, that moment will come.


 When your wings break my thoughts, everything starts to move.


 (以下、訳)


 ああ、風立ち昇る君のもと


 光と陰のうごめきが


 私の心を揺さぶり覚ます


 どこへ行こう


 共にある温もりだけで


 雨の朝、霧の夜


 何も見えなくとも


 その一瞬は訪れる


 君の翼が私の想いを断ち切るとき


 すべては動き出す


 それは、明確な声色を持たない、透明感があって、それでいて遙か遠くまで届けられる、そんな歌声だった。彼女のもつ全ての想いが、青く透き通った朝の空に響き渡り、神聖という言葉以外にあてはめようのない感覚が、私の心を吹き抜けていった。


「ケンタ、あの巨大な物体は一体……」


「すごいやろ? これが俺たちセブンスから見たこの世界の姿や。あれはまあ遺跡みたいなもんやな。ちなみに、ここだけやなくて、日本じゃ、例えば伊勢神宮や出雲大社の上空にも似たようなものがあるし、外国には、特に、エジプトのピラミッド、ペルーのナスカの地上絵、あとチリのイースター島の上なんか、さらにもっとゴツイ奴が浮かんどる」


 ケンタの言うことは、昨日まで、いや、ほんの三十分くらい前の私にとってはかなり突拍子もない話にしか聞こえなかったのであろうが、今の私には、圧倒的な事実として受け入れざるを得なかった。それほど、目の前に広がる光景は、それまで持っていた私の常識を根底から覆してしまうものだった。


「現在のセブンスの間では、あれは、俺らと同じセブンスの能力をもっていた古代人が作ったものだっていう説が有力視されとる。けど、俺の解釈は違う。きっとこの星には……おったんや」


「何が?」


「そら決まっとる、神さんや!」


「神様?」


「そうや。俺、セブンスとして生きるようになって、改めてほんまに思うことがあってな。それは、人っていうんは、絶対に一人では生きていかれへんゆうことや。たとえセブンスでも、人である限りその事実は変わらへん、仲間が必要なんや。つまり、人間という生き物は、この惑星に産み落とされたときからずっと、お互いに助け合いながら生き延びてきたんちゃうやろか? せやから、さっき説明した〈六次の隔たり〉みたいな関係ができたんやないかって思うんや」


 私は、肯定するでも、勿論否定するでもなく、ケンタの言うことにじっと耳を傾けていた。

「俺と兄貴がまだガキだった頃、じいちゃんとばあちゃんがよく言っとったやろ? じいちゃんたちが子供の頃は、ほんまにおせっかい過ぎるぐらいの近所付き合いがあって、面倒見のいいおっちゃんとおばちゃんが周りに一杯おったって。悪いことをしたら親の代わりにちゃんと叱ってくれたり、腹減ってたりしたら、家で一緒に飯食わしてもろたりとかして、いろいろ世話になっとったって」


「そう言えば、そんなことも言ってたかな」


「そうやで、せやから昔は、そんな人間たちを見てて、何かあったらこいつらを助けたろっていう神さんも、きっとぎょうさんおってくれたんやと思う。せやけど今は、多くの人間が自分のことばかり考えて、問題が起こるとすぐ周りのせいにしたり、目先のことに捕らわれ過ぎて、嘘や欺瞞が横行しとる。もちろん俺かて偉そうなことは言われへんけど、他人のことを自分のことのように大切にするいうことが、ほとんどなくなってしもうてるんやないかな。ほんでもって、とにかく景気や経済や言うて、欲望を煽って歯止めを利かそうとせんから、この星をゴミで汚しまくっとる。そら、さすがの神さんも愛想尽かしてどっかに行ってまうわ。そう思わんか兄貴?」


「神との共存か、お前らしい解釈だな。だが、もしかしたらお前の言うとおりかもしれない。少なくとも、あれを人間が造ったなんて見方は、とんでもない思い上がりかもな」


「せやろー。残念ながら神さんは居なくなってしもうたかもしれへんけど、俺らにはまだヌースがおる。でももし、ヌースにまで嫌われて居なくなられてしもうたらもう最悪や。だから俺にとって仲間は特別やねん。ほんでその特別な仲間の一人が兄貴というわけや。さっきは三年半もって言うたけど、兄貴が気付くまで五年でも十年でも俺は待つつもりやったでえ」


「えー、本当か?」


「ほんま、ほんま、ホンマやって」


 そう言うケンタの顔は、とても生き生きとしていた。その瞳は、少なくともこの街で一緒に暮らしてからは見たことのない、新鮮な光を放っていた。


 それにしても何だろう、この安らぐ感じは? 自然と笑みがこぼれているのが自分でも分かる。こうしてケンタと本音で話をするということを、私はもうずっと前から忘れていたような気がする。


 ピピ!


 携帯のアラーム音が再び鳴った。時刻は始業開始の5分前を示していた。


「しまった! 会社のことをすっかり忘れてた。だめだ、もう完全に遅刻だ」


「兄貴、心配無用や。俺とレイでちゃんと送ったるから」


「送る?」


 そのとき、私たちのもとに何かが近寄ってきた。

「おっ? お前が手伝ってくれるんか?」


 それは、ぱっと見、一匹の赤毛のねこのようにも見えたのだが、この期に及んで疑う余地などないだろう。そう、それは紛れもなく〈ヌース〉だった。


「ミーウ、ミーウ、ミャミャンミャ、ミィ」


 何かを話かけているような軽いトーンの声を発するその赤毛のヌースは、とても利発そうで、なお且つ愛嬌のある黒い大きな瞳をもち、太く長いしっぽをしなやかに動かしながらケンタのもとに近づいてきた。体の大きさは、普通の猫と同じか、それよりも少し大きいくらいだったが、短めの体毛はとても艶やかで、その一本一本にまで気高い光りを宿しているかのようだった。


 ケンタはそのヌースを両手でゆっくりと持ち上げると、左手でその体を支えながら、右手をそのヌースの頭の上に乗せた。


 次の瞬間、ヌースが目映い光を放った。しかし、眩しいと感じたのも一瞬で、気が付くと、ケンタの左手に小さな赤いキューブ(正立方体)が乗っていた。


「兄貴、ちょっと俺の方を向いていてくれ」


 そう言うとケンタは、私の前にやって来て、赤いキューブを左手に持ったまま、私の心臓近くに右手をかざした。


 キーン、キーン、キーン


 何か変な音がするなと思ったとき、突然、私の胸がいくつかのキューブに分割され、そのうちの一つである私の心臓を含むキューブがケンタの手元に引き寄せられた。


「う、うおっ!」


 そのあまりに突飛な状況に、私は一瞬息を止めた。


 ケンタは、その私のキューブに、さっきの赤いキューブをドッキングさせて一体化した。私のキューブの心臓の部分が真っ赤になった。


「これでよしっと!」


 ケンタはそう言って、私のキューブを元の位置に戻した。


 ヴン、ヴン、ヴン


 私の頭の中に心臓の鼓動が響いた。そのバイブレーションは力強く、全身の血液が、今まで体験したことのないものすごいスピードで巡り回っているような感覚だった。


「ケ、ケンタ、俺に何をした?」


「ああ、兄貴は覚醒したばっかでセブンスの力がまだ十分に発現されてへんねん。せやから、ヌースの力を借りて、兄貴を一時的にパワーアップさせた。そうしないと、兄貴は俺らについて来られへんねん」


 ケンタは、右手を床の方に向けてかざした。すると、床の一部が、複数の小さなブロックに分割され、それらが生き物のように、どこか規則的ななめらかな動きを見せたかと思うと、あっという間に、細長い円柱状の物体が形成された。円柱の高さは、ケンタの身長と同じくらいで、直径はおそらく十センチもないものだった。


「なんだ? これ」


「移送チューブや。兄貴の会社まで繋がっとるから、これを使って行けばあっという間やで!」


「は?」


「まあ、セブンス専用の地下鉄みたいなもんや。セブンスは、人間が作った物なら大抵のもんは、少しの間ではあるんやけど、複数のブロックに分けてそれらを自由に組み替えることができんねん。つまり、子供のブロック遊びみたいに色んなものを作れるいうことやな」


「ブロック遊び?」


「そうや、まあ俺も詳しいことはよく分かってへんけど、人間の作るもんっていうのは大抵何かの目的があって作られてるやろ? 例えば、時計なら正確な時刻を知らせるためとか、道路なら車や人を速くスムーズに移動させるためとか。そういう目的を果たすための技術的思想っていうのは、実はヌースとかなり親和性があるんや。ヌースは、ああ見えても知性と理性の塊みたいなもんやから」


 知性と理性の塊。また一つ、私の知らないヌースの側面が明らかにされた。セブンス、そしてヌースに対する私の関心は、どんどん強くなっていた。


「元々セブンスは、ヌースの力を借りることで、いろんなことができるんや。そして、ヌースの力を使えるのなら、ヌースと親和性のある〈思想〉を基に創られた物に対しても、セブンスの力を行使することができる、そういうことみたいやで」


 ケンタはそう説明しながら、私の右手を掴み、さらに、いつの間にか私のすぐ横に立っていたレイが、私の左手を掴んだ。


「さあ行くで!」


 ケンタのそのかけ声と共に、ケンタとレイ、そして私の体が八つのブロックに分割された後、個々のブロックがさらに分割された。そうした分割が何度も繰り返され、我々のそれぞれは、最終的に一立方センチくらいの小さなキューブの集合体となった。


 すると、ケンタが移送チューブと言っていた円柱体の側面に、縦長のスリットが形成された。そして、ケンタを構成するキューブ群が、一列づつそのスリットの中に吸い込まれていった。ケンタのすべてのキューブが吸い込まれると、同じようにして、私もそのスリットの中に吸い込まれた。


 ヴゥゥゥゥン


 どこからともなく響いてくる重低音の中、とにかく眩しいという感覚だけが私を捕らえていた。


「さあ、着いたで!」


 円柱体に吸い込まれてからおそらく三十秒もしない内に、ケンタの声が私の意識に届いた。

 気が付くと私は、会社のビルの一階のロビーに立っていた。ケンタが私の前にいて、「フフン、どや?」とでも言いたげな顔で私を見ていた。マンションの外廊下に作られたものと同じ形状の円柱体が、私の後ろの方に立っていて、キューブの群が、その円柱体のスリットから次々と放出されていた。それらのキューブは、見事なほど正確且つ迅速に積み上げられていて、見始めてから十秒も経たないうちにレイの体が再構築された。


(俺もこんなふうにしてここまで来たっていうのか)


 いつもは40分ほどかかる通勤時間が、およそたったの一分。驚きを隠せないままケンタとレイを見ていたとき、突然、私の胸の一部がキューブの状態で前に飛び出て、赤いキューブがそこから勢いよく分離した。


「サンキュ! レッド」


 ケンタがそう言うと、赤いキューブは元のヌースの姿に戻り、どこかへ姿を消してしまった。

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