第5話 出会い

 彼女の名前は、御木・クジャールという。インド人の父親と日本人の母親をもつハーフで、私と同い年である。彼女は、プロの画家であり、都内で画廊を営む経営者でもある。


 そんな彼女とは、私が大学三年のときに知り合った。一人で街をぶらついていて何気なく入った画廊に彼女が居たのである。そこに飾られていた絵は、あまり詳しいことは分からないが、いわゆる印象派と呼ばれるような、写実的なものが多かったように思う。


 ドアを開けて中に入り、彼女が私の方に振り向いたとき、私の視線が彼女の大きな瞳に取り込まれたような気がして一瞬動けなくなった。はっとして彼女から目を離し、どぎまぎしながら店の中を見渡していると、彼女が私に声をかけてくれた。


「いらっしゃいませ」


 その潤いのある声と静かな笑顔が、私の気持ちに少しだけ余裕を持たせてくれた。


「どのような絵がお好きですか?」


 そう言って彼女が近づいてきたとき、彼女の髪の色と彫りの深い顔立ちが、日本語のきれいな発音と乖離しているように思えた。


「あっ、いや、その……」


 私は、壁に飾られていた絵に急いで視線を走らせた。そのとき、他の絵よりも一回り小さな額縁に収められている一枚の絵に、ふと目が止まった。


 その絵をじっとみている私を見て、彼女が微笑みながら話しかけてきた。


「この猫の絵が、お気に入りですか?」


「えっ? これが猫?」


 私がそう言った瞬間、彼女が一瞬驚いたように見えた。私は、しまったと思った。


「いや、ちがうんです、別にそういう意味ではなくて、ただ、なんというか……」


 私がまごまごと言い淀んでいるうちに、いつの間にか彼女の顔から笑顔が消えていた。


「お客様、大変失礼ですが、お客様にはこの絵に描かれている動物が何にお見えになるのですか?」


「えっ? 何に見えるって」


 私は困っていた。一見すると、確かにその絵に描かれているものは猫に見えるような気もするのだが、猫だと断定するには、言葉では言い表せない「説得力」のようなものが不足しているように思えたのである。


「なんというか……もちろん猫に見えなくはないと思うのですが……いや、正直に言うと、そもそもそれが動物なのかどうかも、私には分かりません」


 思い切って私がそう言うと、彼女は目を大きく見開いた。そして、その視線を私の体全体に絡ませようとでもするかのように、私の周りをゆっくりと歩き出した。


「あの、なにか?」


「あっ、申し訳ございません。私ったら、大変失礼なことを」


 彼女は恥ずかしそうに少しだけ笑った。


「実はこの絵は、私の祖母から譲り受けたもので、他の絵の場合とは違い、その意図はおろか、いつ頃、誰の手によって描かれたものなのかさえも、未だに分かっていないのです」


「へえ、そうだったのですか」


 とりあえず返事をしたものの、彼女のその言葉の意味が、私にはよく分からなかった。なんだか気まずくなってきた私は、腕時計を見て他に用事があるようなフリをした。


「そろそろ、行かないと」


「えっ、もう行かれてしまうのですか?」


「ええ、ちょっと」


「そうですか、仕方がありませんね。あの、よろしければこれを」


 そう言って彼女は私に名刺を差し出した。


「私は、御木・クジャールと申します。この画廊のオーナーをしています」


「えっ! あなたがここのオーナーさん?」


「はい、そうです」


「あっ、すみません、いや、その、驚いたりして、失礼だね、ほんと」


 彼女は、顔を少しだけ傾けて、くすりと笑った。私は、その女性のことを、見た目は外国人でも、おそらく年齢は私とそれほど変わらないのだろうと思っていたため、ここで受付か何かをしている人だと、勝手にそう思い込んでいた。


「えっと、私は久保、久保リョータです。まだ学生なので名刺はもってないです。すみません」


 私のぎこちない口調のせいか、彼女は右手で口元を隠しながら、またくすりと笑った。


「あの、リョータさん、また是非こちらにいらしてください」


「あっ、はい?」


 下の名前で呼ばれたことに、私はちょっとだけ驚いた。


「できればもっとじっくりとこの絵をご覧になってほしいのです。お願いですから、必ず、また来てくださいね」


「はあ……」


 私は、気のない返事をしてしまった。実はもう二度とその画廊には行かないだろうと思っていた。


 しかし、私は、次の日曜日にまたその画廊に出かけていった。それは、彼女と交わした曖昧な約束を果たそうとしたからではなく、彼女に会いたいという思いが、なぜか日増しに強くなっていたからである。勿論、あの絵のことも少しは気になっていたが、彼女の存在に比べればそれほど大した動機付けにはならなかった。


 私が二度目に来店したとき、彼女はちょうど外出中で居なかったのだが、別のスタッフが私に気付いてすぐに彼女に連絡を入れたようだった。そのスタッフは、あと三十分くらいで彼女が戻るので、それまで画廊に居て欲しいということを私に伝えてきた。


 そしてそのおよそ二十分後に出入り口の扉が、バタン! と勢いよく開けられた。そこには、髪の毛を振り乱して怒ったような顔つきの彼女が立っていた。息も切れ切れで、明らかにどこからか急いで走ってきたことが伺えた。


「はあ、はあ、き、来たわね、久保リョータ!」


 いきなり呼び捨てにされて、私の気持ちが少しだけ退いた。


 彼女はつかつかと私に近づいてきて、急に満面の笑顔を見せた。


「よくお越しくださいましたね。ありがとうございます!」


 呼び捨てにされた後の丁寧な営業スマイル。この態度の変容はどういうことなのだろうか。しかし、よくよく考えてみると、絵を購入する約束をしたわけでもないのに、こんな風に丁寧にお礼を言われるのはかなり妙な感じがした。


 彼女は画廊の奥の部屋に私を案内してくれた。そこで彼女はなぜか例の絵のことには一切触れず、その画廊が当時主に取り扱っていた絵画に関することについて詳しい説明をしてくれた。そのときに、彼女は実は画家でもあって、彼女の描いた絵もいくつか飾られていることを知った。


 私は、彼女の説明を聴きながら、その顔をじっと見つめていた。切れ長の大きな目と、凛として通る鼻筋とが、ときおり彼女の口元からこぼれる笑みを、よりいっそう美しいものにしていた。


「……というわけで、この絵のテーマには様々な時代のニヒリズムが織り込まれています。リョータさん、今の説明でお分かりになりました?」


「え? ああ、ええ、まあ」


 いきなり現実に引き戻された私は、また慌ててしまった。彼女の説明をほとんど聴いていないことがバレバレだった。呆れられてしまったと思ったが、彼女の口からは意外な質問が飛び出した。


「あの、リョータさん、かなりプライベートな質問をしてもよろしいですか? 失礼ですが、今お付き合いをされている方はいますか?」


「は?」


 彼女の瞳は、静かに何かを待つように明らかにその光を抑えていた。


 私はごくりと唾を飲み込んだ。


「いえ、付き合っている女性はいません。なぜですか?」


 そう言った瞬間、彼女の瞳が再び輝き始めた。


「そうですか。できれば、この辺りの美術館に私と一緒に行って欲しいと思っていて、でももし付き合っている方がいたら」


「そういうことですか。その点はご心配なく、って、いやいや、そもそもどうして私なんですか? 絵とか芸術に関して私は素人同然なんですよ」


「正直に言うと、あなたにとても興味があるのです。私と付き合っていただけませんか?」


「ええ?」


 あまりにストレートな言い方に私はかなり戸惑った。しかし、断る理由がなかったので、結局、私は彼女と付き合うことになった。


 こんな綺麗な女性が、なぜ私と? 彼女と会うたびにこの疑問が私の中に沸き起こった。彼女には何か別の目的があるに違いない、そうでなければ私なんかと、というショックアブソーバーを私の心のどこかに必ず潜ませていた。けれども、彼女と知り合いになれたという事実だけで、私の人生はそれまでと全く違うものになったような気がしたし、正直、そのときの私にはそれで十分だった。


 私は彼女と様々な美術館をめぐり歩いた。彼女は絵画だけでなく、版画や彫刻などにも造詣が深く、ほとんど何も知らなかった私に丁寧に教えてくれた。そしていつしか、そうした彼女の物腰には、何となく私だけが感じとれる温もりが漂っていると思えるようになり、少なくとも彼女に対する私の思いは、会うたびにより色濃く鮮明なものに変わっていった。


 そうして彼女とデートを重ねていたある日、彼女はあの絵のことについて語り始めた。


「リョータ、あの絵が、私の父方の祖母から譲り受けたものだってことはもう話したわよね?」


「うん、最初にあの画廊に行ったときに、君がそう言っていた」


「私の祖母は、実はものすごいお金持ちなの。私が日本で画廊を構えるときも、多額の資金を援助してくれたわ」


 彼女の話では、彼女の父親の一族は、200年も前から続く、インドではかなり名の通った家柄であり、特に彼女の祖父が築き上げた財産は莫大で、財界だけでなく政界にも今もなお大きな影響力をもつという。


「10年前に祖父が亡くなってすべての遺産を祖母が受け継いだわ。事業の方は名目上、私の父が継いだことになってはいるけど、経営手腕は祖母にはまだまだ及ばなくて、彼女が実質的な経営者になっていると言っていいの」


「へえ、遺産だけでなく事業も引き継いでいるなんてすごいね。その人を尊敬しているのかい?」


「ええもちろん、それに大好き」


 彼女はとても嬉しそうに笑った。


「それで私が日本に行くことを祖母に話したとき、あの絵をもらったの」


「ふーん」


「あの絵は、我がカレン家で代々受け継がれてきたもので、私の祖母も、その祖母から譲り受けたものなのよ。勿論、職人によって何度も修復されながらね」


「そんな大事なもの、日本に持って来ちゃって大丈夫なの?」


「平気よ、だってあの絵のことを知っているのは、今は私と、祖母であるミジェールお婆ちゃん、そしてリョータ、あなただけですもの。ウフフ」


「え? ちょっと待ってよ、なんで僕が関係してるのさ?」


「お婆ちゃんが言ってたのよ。この絵は、普通の人には猫に見えるけど、そうは見えない人もたまにいるから、そういう人が現れたら気をつけなさいって」


「その普通じゃない人って、もしかして僕のこと?」


「そうよ」


「なにそれ? 僕は普通じゃないってのか? 気を付けろってどういう意味?」


「さあ、わからないわ。ふふふ」


「何がなんだか、僕にはさっぱりだ」


 当惑している私を見ていたる彼女は、なぜかとても楽しそうだった。


「あのさ、そんなんで僕と付き合っても大丈夫なの?」


「いいのよ、だって気を付けろって、そういうことじゃない? 全く関わりをもたないんだったら、気を付ける必要なんてないもの。それに私、あなたと出会ってから毎日がすごく楽しいの。ああ、この人なんだって、いつもそう思っているんだから」


「この人?」


 その意味を尋ねようとする私を先んじるように、彼女が言った。


「美術館を一緒にまわっていて分かったの。リョータ、あなたはとても優れた審美眼をもっている。そして何より、誠実だわ。芸術にも人にも」


 面と向かって「誠実」と言われたとき、妙に照れくさくなって、彼女に質問をする気が失せてしまった。ただ、楽しい思いをしていることは私も同じだった。そのことだけを伝えようとしたとき、再び彼女の口が開いた。


「でも、あなたの審美眼は、おそらく後天的に身についたものだと思う。リョータ、もし違っていたらごめんなさい。でも、あなたもしかして、何かとてもひどく恐ろしいものを過去にたくさん見てきたんじゃない? そのせいで美に対する感性が異常なほどに研ぎ澄まされてしまった。私にはそんな気がするの」


 彼女にそう言われたとき、私はギクリとした。一瞬だけ心臓が締め付けられた気がした。


「どうしてそう思うの?」


「だって、どんなにすばらしい美術品の前でも、あなたの瞳にはいつも暗い影がさしているように見えるから」


 暗い……影、自分の中でその言葉を繰り返したとき、ある記憶が私の中に蘇った。それは、心に痛切に刻まれた刻印とも言うべき、決して忘れることのできない震災の記憶だった。

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