第3話 弟
西の空から薄く延びていた日の光は、いつの間にか全て無くなり、漆黒の闇が天上に座していた。地上にちらつく街の明かりが、なぜか忌々しく、全てが無駄であるかのようにさえ思えた。私は窓をぴしゃりと閉め、クローゼットまで戻り、さっさと部屋着に着替えて部屋を出た。
キッチンの方に向かうと、弟はさっきと同じように、その曲のサビの部分を歌っていた。
もういいかげんにしろよと、普段の私ならそう言ったかもしれない。しかし、そのときはなぜか、弟が歌うその歌をもう少し聞いていたいような気がした。
その映画での女子高校生と中年男のそれぞれのシーンが、私の頭の中を交互に巡っていた。
人生そのものにもがき苦しむ女と男。だが二人の生きる方向はほぼ真逆だった。
幼さの残る女は、心に大きな傷を負ってもなお前を向き、全てを受け入れ、ありきたりだが本当の幸せを掴もうとするが、男の方は、絶えず付きまとう暗い陰から必死に逃がれようとでもするように、身勝手な人生の早まった終焉を望んでいた。
極端な見方かもしれないが、はたして今の私は、どちらの方向を向いているのだろう?
様々な意思や運命が複雑に絡み合う人間社会。そう、人生は思うようにはいかない。それは分かっている。でもそのくせ、こうしている今、今のこの瞬間こそが、その後の人生に大きく関わってくる可能性があることも事実だ。人間はきっと死ぬまで、このジレンマに冷たく晒される。
「俺は、かばったのにな……」
昨日までの無数の瞬間に存在した『過去の自分』、それらが幾重にも積み上げられて成した形が、渡辺氏のなめた態度に何も言えなかった『今日の自分』だったのかと思うと、やるかたない虚しさが再びこみ上げてきた。
「うおんちゅうー! 俺を憐れみ、すべてを見透かす~、その憂う瞳~♪」
弟は、そのサビの部分を歌い終えるといったん止めて、しばらくするとまた歌い出すという、そんなことを繰り返していた。
なんとかの一つ覚えかよ、そう思いながら私はキッチンに行き、冷蔵庫の扉を開けた。
中段の棚の中央に、皿に盛られてラップをされた野菜炒めがあった。弟が作ってくれたそれは、まだそれほど時間は経っていないようで、皿の縁を触ると、それと分かる温もりがあった。
ほぼ出来立てという、ちょっとしたことが心に差し込んできたとき、きちんと切れてない繋がったニンジンと、同じように繋がったネギがラップ越しに見えた。忙しい時間を縫って作ってくれた弟の姿が思い浮かぶと共に、弟らしさを感じた。
思わず笑みがこぼれた。
今回に限らず、これまで弟が作ってくれた料理はどれも、見た目に関して言えばお店で出されるようなものほど整ってはいない。けれども、食べてみると、私にとってはこれが結構、いや、はっきり言って旨い。
ほとんどの料理が薄味で、必ずしも一般受けする味付けではないが、素材を生かすというか、香り、食感、歯ごたえといった、その素材しか持ち得ない何かがしっかりと残されている。本人がそれを意識して作っているかどうかはわからないが、弟の料理はそういう類のものだ。
私は、料理を取り出すのを止めて、冷蔵庫の扉をバタンと閉めた。
弟は、大学を合格した直後に休学してどこかをほっつき歩いていた。一年後、ひょっこり姿を現した弟は、家事は自分がするからと言って、強引に私の所に転がり込んできた。
お金はあるのだからお前も一人暮らしをしろよと思ったが、どうやら弟は、幼い頃に母親に言われたことを律儀に守っているようだった。当時からかなり奔放だった弟に対し、母親は、「もし地元を離れて東京の大学に行くのならお兄ちゃんと一緒に住みなさい。お兄ちゃんはそのころきっと東都大学に入学しているだろうからその方が安心よ」みたいなことをよく言っていた。母親がかつて言っていた言葉、今はもう生身の力を持たないその言葉に、弟は忠実に従っている。
いい年をした男兄弟が一緒に暮らしているなど、普通の人から見ればちょっと変だと思うかもしれない。だが、家族の誰かがいつもそばに居てくれるということは、まあ面倒くさいこともあるけど、それでも有り難いことの方が多いような気がする。
特に私たちの場合、ケンタがほとんどの家事をしてくれるので、仕事を持つ私にとっては本当の意味で助けになっている。
今日までおよそ三年半、弟は一日もさぼることなく食事を作ってくれた。正直、感謝している。少し大げさかもしれないが、弟が作ってくれる料理には、私の中の何かを暖かく包み込む、そんな力があると思う。社会人になってからは特にそう感じるようになった。
「ふうー」
心の中でもつれていた何かが解れ出した。人に単純と思われてもいい、弟の料理が、私の気持ちを引き戻してくれた。
(まったく、何をいつまで小さいことにグダグダとこだわっていたんだ、俺は?)
辺りが、いつもの軽い空気に変わったような気がした。
(それもこれもみんなあいつのせいだ、あの下手糞な歌を聞かされているおかげで)
私は再び冷蔵庫の扉を開けた。扉のポケット棚から缶ビールを二本取り出してリビングに向かった。そして、弟の後ろの方から近づき、持ってきた缶ビールのうちの一本を、弟の脇にそっと置いた。
「おっ、サンキュウ! 兄貴、ちょうど飲みたかったんや、もうすぐ終わるし」
弟の肩越しに、各企業のロゴが入ったA4くらいの大きさの封筒がテーブルの上にきれいに並べられているのが見えた。
「お疲れさん。それにしても今日はどうしたんだ? そんな歌を歌って。何かあったのか?」
私は、テーブルを挟んで弟の対面にある椅子に座ると、ブッシュッと缶ビールの栓を開け、ぐいっと一口ビールをふくませながら何気なく弟の手元を見た。
ブハッ!
少なくとも私のだ液、さらには鼻水までも含み得る黄色の炭酸水が、勢いよく私の口から吹き出た。白泡にまみれたその液体はテーブルの上に散らばり、運悪く封筒にまで達したものは、その内部に速やかに吸収されていった。
「うわあああ! 兄貴のアホ! 何してくれてんねん! これ、会社に出す奴やぞ! びしょびしょやないか! あ~もう、どないしよ~」
「ごほっ、ごほっ、ご、ごめん、本当にごめん。でも、お前、それって……」
何々会社人事部宛と書かれた角A4封筒。その上に置かれた黒のボールペンのペン先は、二重斜線を付した『宛』の文字の横に手書きで添えられた『御中(おんちゅう)』の文字を指していた。
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