第2話 会社にて
自室の扉を開けて中に入り、壁にあるスイッチに手を伸ばそうとしたとき、ふと、窓から見える西の空が気になった。私は、部屋を暗くしたまま、窓際に立った。
外には夕焼けの空が広がっていた。あと数分もすれば、日は完全に落ちる、そういう時間だった。いつもの、特になんことはない景色だったが、そのときは妙に物悲しく、心に留めていた何かを急に思い起こさせるような、深い青を帯びる静かな光景が私の視界のほとんどを占めていた。
私は、虚ろな目を空の方に向けながら、会社での出来事を思い出していた。
都内の大手IT企業で、私はシステムエンジニアとして働いている。新卒で入社して三年目、目を見張るような成果はまだないが、これまで特に大きなミスもせず、およそ順調に仕事をこなしていた。会社での自分の存在価値が認められつつある、そう思っていた矢先、それは起きた。
「何!? 第1グループが協力できないだと!」
フロア全体に武田部長の怒号が響いた。そのときフロアにいたスタッフの全員が、一瞬手を止めた。
先月納入したばかりの、ゼット社の顧客管理システムの運用プログラムに関して不具合が見つかり、私の所属する第二グループはその修正指示を受けていた。その運用プログラムは、第二グループが主体となって第一グループと共同開発したもので、不具合は、第一グループが担当した部分で生じていた。
ゼット社からは、早急に対応するように要請されており、第二グループのチームリーダーである児玉氏と、サブリーダーである私は、この事案についての対策を練るべく、武田部長のデスクに来ていた。児玉氏が説明を加えた。
「第一グループは今、シーケンス社の仕事にかかりきりで、他に手が回らないそうです」
「児玉リーダー、シーケンス社はわが社のメインクライアントであり、最優先すべき大事な顧客だ。そしてそのシーケンス社を担当する第一グループが今忙しい状況にあることも勿論把握している。しかし、こうした不測の事態にも対応できるように、第一グループには、専用の設備と十分な人員を配してある。全く手を貸せないということはないはずだ!」
「昨日、出張に出ていた私の代わりに、久保が第一グループのチームリーダーである渡辺氏に掛け合いに行ってくれたようなのですが、少なくとも今月中は無理とのことです」
「久保君、それは確かか?」
「はい、部長。渡辺さんによれば、シーケンス社から依頼を受けた仕事が、予想以上に複雑で時間を要するものが多く、今は略全員で作業に当たっているとのことでした。第一グループにこれ以上の無理を強いるのは酷かもしれません」
「そういうことか……だがどうする? ゼット社から指示のあったプログラムの修正変更は、第一グループの者でなければ扱えないぞ」
「部長、この際、以前に久保が中心となって我がグループで開発した汎用プログラムで代替してみてはどうでしょう? 設定を少し変更すれば、現在のプログラムで想定されていた性能よりも処理速度等のクオリティは多少落ちますが、ゼット社から指摘された不具合は完全に解消されますし、もちろん納期にも間に合います」
「うーむ、ゼット社の納期は絶対だ。仕方がない、その案で行こう。頼むぞ、久保君!」
「分かりました!」
そうして私は、ゼット社からの要請に対応すべく、汎用プログラムの設定変更を進めるため、グループ内での仕事の手筈を整えていった。そして代替プログラムの完成するめどがついた今日、第一グループの渡辺氏が私のデスクにやって来た。
「久保さん、例の件、一応準備ができたんだけど」
「例の件? 何です?」
「ゼット社のプログラム修正の件だよ」
「えっ? それはこの前お願いしに行ったときに無理だとおっしゃっていたじゃありませんか」
「いいや、無理とは言ってないよ! かなり厳しいようなことは言ったけどね」
「そ、そんな」
渡辺氏が声を荒げたとき、武田部長からの視線を感じた。一瞬だけ視線を向けると、私のデスクから少しだけ離れた位置で、武田部長の頭だけがパーティション越しに見えた。
武田部長の頭は、ほとんど動いていなかった。私たちの会話に耳をそばだてていることを容易に推測できた。
私は、代替プログラムのことを小声で話した。
「なーんだそうかぁ、それならもう問題はないんだね? だったら、もっと早くそう言って欲しかったなあ」
渡辺氏は周りに聞こえるような声でそう言うと、武田部長のデスクの方に一瞥を送った。そのとき私は、渡辺氏がやって来た理由を、半ば沈むような思いと共に把握した。
「……すみません。ちゃんと伝えておくべきでした」
そう言うのが精一杯だった。机の下で拳を握り締めた。
「次からは是非そう頼むよ、久保君。それじゃ私は、本来の仕事に戻るから」
そう言う渡辺氏の顔は、来たときとは全く違う、だらしなく弛緩したニヤついた表情に変わっていた。渡辺氏は、武田部長のデスクのそばを通って悠然と第一グループのある棟の方に戻っていった。
おそらく彼は、武田部長が怒っていたことを誰かに伝え聞いたのだろう。内線一本で済む話を、わざわざ私のデスクまでやって来たのだ。ゼット社の件が片付きつつあり、尚且つ、私と部長がそれぞれのデスクにいるタイミングを見計らって。
つまり、第1グループが協力を拒んだのではなく、なんとか協力しようとしていたのに、その意図を私が誤解してしまったのだと、そんな風に装うために。
その後、代替プログラムは無事完成し、納期にも間に合った。しかし、武田部長や周囲からの私へのねぎらいの言葉などは一切なかった。
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