Cats on the blocks
K助
第1話 久保兄弟
西暦2039年10月、東京
「Want you!」
マンションのドアを開けると、それは聞こえてきた。
「俺を憐れみ、すべてを見透かす~、その憂う瞳~♪」
一緒に住む二つ下の弟、ケンタの声が玄関まで響いていた。
「それでも君が必要なんだ。嘘じゃない。ただ俺は生き急いでるだけ~♪」
(あー、うるせえ)
呟く声までもが、そのまま頭に響いてくるようで、私は目を細めながら靴を脱いだ。
聞き覚えのあるその歌は、今週の日曜日に弟と一緒に見た、ある映画のテーマ曲だった。
短い廊下を歩きながら右手の人差し指でネクタイを緩めると、しゅんとした息が思わず口から漏れた。外したネクタイを左手に持ち、右手でYシャツのボタンを上から数個だけ外した。
リビングに行くと、テーブルの椅子に座ってペンを持っている弟の背中が見えた。
「ただいま」
「おかえり、リョータ」
顔も上げずにそう言いながら、弟はペンを動かしていた。
弟は、私のことをたまに下の名前で呼び捨てにする。幼い頃からそうだった。
「ああ、今帰ったよ、ケンポコ」
そう返すと、弟はペンを止めた。振り向きざまに左手の中指を立て、不敵な笑みを浮かべた。
「それ、
「彼女に? 言う訳ないだろ」
ケンポコとは、昔に父親が弟に付けたあだ名だ。小学生一、二年生の頃の弟は、ちょっと機嫌が悪くなるとすぐにズボンとパンツを脱いで股間をさらけ出し、小刻みに揺れるアレを母親や祖母に見せてまわり、キャーキャーと彼女らが騒ぐのを面白がっていた。
「Want you! 俺を憐れみ、すべてを見透かす~、その憂う瞳~♪」
弟は再び歌いながらテーブルに向かった。
その映画は、契約している動画配信サービスにあったもので、弟はその映画をリビングのテレビで見ていた。私は、初めは見るつもりはなかったのだが、リビングに来た時、何やら楽しそうに見ている弟につられて、ほんのちょっとのつもりで弟の横に座ったら、結局そのまま最後まで見てしまった。
どういう映画なのかと聞かれれば、家出した女子高校生とオートバイ乗りの若者とのラブストーリーということになるのかもしれないが、私の興味がひかれたのは、女子高校生を若者と奪い合うように登場する中年男だった。自殺願望があるのに死に切れない、そんな変にしぶとい淫蕩な男の姿が印象に残った。
映画を見終わった後、その映画を選んだ理由を弟に尋ねた。
「……」
「どうした?」
「ねこ」
「は?」
「冒頭にかわいい子猫が出てくるからだそうや」
「だそう?」
「……」
上京してきて4年目になる弟は、未だに地元の言葉がぬけていない。そのせいもあるのかもしれないが、弟との会話には、たまに噛み合わないというか、妙な違和感を感じるときがある。そう、あいつが、なぜかそのときだけ別の世界にでも居るような……。
弟の歌が途切れ、リビングにいつもの静けさが戻った。
「ところで、就活の方はどう?」
「もっか奮闘中であります! 今もこうしてがんばって履歴書を書いているところであります! あっ、そうや、来週末に大学で就職セミナーがあるんよ。企業の人事の人がたくさん来るんやて。兄貴が昔着ていた黒のスーツ、あれ借りてもええか?」
「ああいいよ」
テーブルの上に、おそらくは会社のパンフレットのような何か、薄い冊子がいくつか散らばっているのが少しだけ見えた。
弟は現在大学四年生、経済学部の学生だ。ついこのあいだまで、単位が足りないとか卒論がどうとかいろいろと騒いでいたが、何とか卒業の見込みがついたようで、今は学校のことよりも就職の方に重きをおけるようになっている。
「飯はどうした?」
「先によばれた。今日は早かったんやな。連絡くれてたら待ってたのに。兄貴の分はいつもどおり冷蔵庫の中や」
「そうか。忙しいのなら、無理して作らなくてもいいんだぞ」
「うん、でもまっ、約束は約束やから」
弟は、封筒らしきものに何かを書き終えると、それをテーブルの隅の方に置いた。そして、左横の椅子の上に置いてある黒のリュックの中から新たな封筒を取り出し、それをテーブルの上において再びペンを動かした。
「ウオンチュウ! 俺を憐れみ、すべてを見透かす~、その憂う瞳~♪」
またそれかよ。一体何のためなのか、明らかに鼻歌のレベルを超えた声量で歌う弟に、私は半ば呆れながら、着替えるために自分の部屋へと向かった。
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