12話 少女と始まり
腰を下ろしていたのは、柔らかい芝生の上。頬に当たっているのは暖かな風、視界一杯に広がっているのは大きな、何本もの桜で──隣には誰かが居るんだけど、どうにもこうにも、顔はボヤけてしまっていて、声は掠れて聞こえませんでした。それでも私は気にしなかった。彼女が笑っていることは分かっていたし、私に何かを話していることで、もう充分嬉しく思えていたからです。
しかし突然、そんな世界は真っ暗闇に包まれてしまいました。
自分自身だけは異常にはっきり見えているのに、自分以外だけが何も見えない、そんな暗闇。当然、私は慌てて立ち上がり、彼女を探して走り回ります。だけど何処にも彼女は居ません。それに、この闇では何も見えないのに、どこを探せば良いのでしょうか。それでも、息が切れても足が絡れても走り続けて、
やがて私は、視界の先に一筋の光を見つけます。
あれだ、きっとあそこに──と、私は無我夢中で駆けて行って、彼女の後ろ姿が段々と鮮明に変わっていきます。
「ハルちゃんっ」
そうして手を伸ばして肩に触れた瞬間、彼女の体はぼろぼろと崩れていって、
「柚子のせいだよ」
振り返る寸前、聞こえたのは呪いの言葉。それから目の前には大きな口があって、私は呆然としたまま、何も言えずにただ、噛み砕かれるのを待っているだけだったんです。
次に目を開いた時、朧げな意識の中で感じたのは途方も無い気怠さと、重い瞼。
「……朝」
静けさと、窓から刺す日の光。どこからか聞こえる人の声。車のクラクション。
呟いた瞬間にはもう、先程まで見ていたのは夢で、私は眠っていたのだと理解しました。掛けられていた布団を剥がして立ち上がろうとしたのですが、何とか起こせたのは上半身だけ。そして自分の体に絆創膏や包帯など、幾つかの治療した後を発見し、更には服も着替えてある事を知ります。
「ここ、どこ?」
辺りを見回すと、広がっていたのは見知らぬ一室。あったのは私の居るソファーと簡素なテーブル、冷蔵庫、キッチンだけ。床には絨毯も敷かれていない部屋。あまりに物が少な過ぎて整理整頓されていると言えば良いのか、それとも無機質なのか。兎にも角にも私の部屋ではないし、知っている場所でもないというのは確かです。
置かれた状況に困惑する程の体力も無くて、ただただ呆然としていると、
「ただいマンドリルー」
リビングから伸びる廊下、その先の玄関から聞き覚えのある、能天気な声。
目を向けると想像通りの熊飼さんが、初めて会った時のようなフォーマルではなく、ジーパンにパーカーのラフな格好で帰宅したようでした。そして彼が居る事で、どうやら私はお持ち帰りされてしまったのだと把握してそれから──眠る前に起こった全てを思い出してしまったのです。
「お、ようやくお目覚めか」
私が何もかもの元凶で、ハルちゃんも何もかもを失って、一人になってしまった事を。
「まあ3日も寝りゃ充分だろ。そろそろ活動しようぜ」
熊飼さんは冷蔵庫を開けると、中から一本ペットボトルを取り出し、私の足元へ投げ置きます。
「……そんなに」
私は緑茶をラベルを見つめながら、それを手に取ることもせず、自分がどれだけの期間倒れていたかを呟きました。
「ところでガハラちゃんは今すぐ死にてえって衝動、まだあるか?」
彼はテーブルを挟んで対面に座ると、煙草を咥えて、私を見ながら微笑んで言います。
「今は……少し整理する時間が欲しい、です」
何もかも、頭の中が空虚過ぎて考えられなかったから。
「なるほどね。そりゃ良かった」
彼は煙を吐き出すと、本当に思っているのか思っていないのか、相変わらず表情だけでは区別が付きません。
「私は、どうして眠ってしまったんでしょうか」
「眠ったというより、気絶してたよお前。慣れない力を使ったせいだろうが……ったく、ここまで運んで来るのがどんだけ面倒だったか。大家のババアには通報されそうになるし、重えし汚れてるし、色々金も飛んでったしよー」
「……迷惑を掛けてごめんなさい」
「ああ、もう二度とやりたくないね」
熊飼さんは火を消して立ち上がり、向かったのはキッチンでした。
「ハルちゃんは、どうなりましたか」
「うるせえ、んなことよりはとりあえず飯だ。話は食いながらにしようぜ? お前だって腹減ってんだろ」
言われた私は、言葉に出されたからなのか、その時初めて空腹に気が付きます。死にたいくせに、体だけは無意識に生きようとしているんだなあと、私は思わず笑ってしまいました。
そうして暫く呆然としていると、何処からともなく良い香りが漂って来ます。
「……料理出来るんだ」
私は無意識にキッチンへ視線を向けてつぶやきました。思わず、そう呟かずにはいられませんでした。だって彼の後ろ姿があまりにもテキパキとしていたから、受けていた印象とはあまりに違ったんです。言葉遣いや態度はとても厳しいのに、今はこうして、病み上がりの私に料理を振る舞う様や、
「へいお待ち」
消化に優しいと噂のお粥を運んで来る時の穏やかな表情で、私はますます──熊飼さんは一体、どういう人間なのだろうかと困惑してしまいました。
「ありがとうございます……いただきます」
「ん」
スプーンで掬って息を吹きかけた後、口に入れて感じた絶妙な塩加減にも、私は酷く驚きます。更には白いお米の上に赤い梅干しがアクセントになっていて、色彩まで鮮やかだったからもう、とても美味しい──美味しいけれど、私の手はすぐに止まっていました。お腹が空いていなかったわけじゃないのに、食欲があまり無かったからです。無言の空間に居るだけで、色んな全部を思い出してしまったからでした。
そんな様子が気に障ったのか、熊飼さんは『はぁーぁ』と大きく溜息を吐き出して、私と同じように箸を置きます。
「大学生2人、高校生2人の計4人が行方不明、だってよ」
「え?」
「表向きに発表された昨日の顛末、まさか怪物に殺されたなんて言えるわけもないしな」
「そう、ですか……そういう事になってるんですね」
「原因追求を避ける為にも、遺体が親族に返されることはない。骨すら残らない程に焼却されて今頃はどこぞの寺で、名も無き身寄り無き仏さん、として埋葬されてるだろう。怪物事件に巻き込まれた奴はどれもそうなる。いやあ本当に可哀想だよなー」
「どこに埋められてるんですか?」
「事件と関わりのある人間には教えられない決まりになってんだよ。というかそもそも俺も知らんし」
「なんで、そんな」
「怪物を生むからさ」
私が尚も聞こうとすると、
「まあとりあえず食っちまえよ。今から出掛けるぜー」
「私も、ですか?」
「そーそー」
そう言って彼は、いつの間にか完食していた即席ラーメンを汁まで飲み干して、さっさと流しへ持って行ってしまいました。相変わらず彼がどういう人間かは分かっていませんが、これ以上話をするには恐らく、出先まで付いて行く必要があるだろうと理解していました──これから行く場所へ、ついて来いと言われているのだということも。
私はとても美味しいお粥を、無理矢理、口の中に突っ込んでは込み上げるものを堪える、を何度も繰り返します。
話を聞いて死ぬ為に、納得する為に、生きる為に食事をしている。自分の行為の意味さえ分からず、頭の中がとてもごちゃごちゃになってしまって、何か考えるとどうしようもない焦りが襲って来ているから──無我夢中で掻き込んだんです。
「いーねそーいう顔。若い悩みを抱えた、面倒な表情」
熊飼さんに茶化されても構わず食べ進め──ようやく器が空になると、乱暴に上着が一枚投げられます。
「……どこへ行くんですか」
「それはお前次第、好きにしろよ」
彼はパーカーを脱ぎ捨てると、シャツの上にベストを羽織って、初めて会った時のようなフォーマルな格好に変わります。そして上から丈の長いコートを身に纏う姿は、顔立ちだけじゃなく、スタイルまで優れていて、どうして、こんな人が怪物狩りをしているのかと、改めて思ってしまいました。
「さ、どうする?」
私も同じように身支度が整って、スタスタ玄関へ向かって行く熊飼さんの後を追います。
彼が扉を開き、私が外に出るとあったのは廊下でした。と言っても長い通路状のものではなく、向かいにはまた別の扉があって、挟まれるように下へ通じる階段があるだけの狭く、電球の切れた暗い場所。マンションやアパートではなく、事務所などに使われる建物に近い印象でした。
「行くなら行くぞー」
そうしてただ辺りを見回していたら、熊飼さんは鍵を閉めていて、既に階段を下っていたんです。
「ご、ごめんなさい。すぐに」
慌てて付いて行くと、どうやらこの建物は2階建てだったと理解しました。降りた先にはもうエントランスがあって、ガラス扉の向こうには行き交う人々。対面には何かのお店の看板が見えています。もしかしたらかなり都心に近い場所なのかもしれません。勧誘チラシの刺さっている郵便受けの横を通り過ぎ、扉を開けた彼の後ろを付いていくと、
突然光の中に投げ込まれたみたいに、私は日が眩しくて思わず目を瞑りました。
光、人、人、人、光、車、人。
そんな雑踏、環境音が耳の中で騒いで、無意識に顔を俯けてしまいました。
「ガハラちゃん、顔を上げてみな」
「っ……でも」
「良いから。きっと面白いものが見られるぜ?」
熊飼さんが何を言っているか分からず、しかし分からないままで、そう言われたら見たいと思ってしまいます。一体何があるんだろうという期待か不安か、そんなことを一々考える暇もなく、促されるままに顔を上げて、
「あ、あああ」
私はすぐに理解しました。
今は朝である筈なのに、それに自信が持てない程、
「やっぱ、そうだよなー」
空が真っ黒に染まっていた、だけじゃありません。
建物や人もまた、あの黒い靄に侵食されていて、本来見えない筈の、空気中に漂う物質の全てが可視化されているみたいに、黒い靄としてそこにあったんです。何もかもが鮮明に見えているのに──何もかもが黒く、ぼやぼやと蠢いていました。光景の異常さもそうですが、それよりも──今まで自分が、こんな世界で生きて来たのだと、知ってしまった事に、何より恐怖していました。
「お前が今見えているものを俺達の間では、影、と呼んでいる」
私は瞼を閉じた、耳を塞いだ、周囲の視線なんて構わずその場に蹲った。
「空気のように何処にでも存在し、観測出来る人間はごく僅か。人工物、自然、人などこの世の全てから生まれ、分かっているのは──アレから怪物が吐き出されるってコト。干渉の一切を受け付けず、払う事も逃げる事も許されない概念」
そうしていると、私の顔、耳の横辺りに冷たい感触を感じます。
「ほれ、これで多分大丈夫だろ」
違和感に触れてみると、それが眼鏡である事はすぐに理解出来ました。とにかく、すぐにでも現状から目を背けたかった。私は、彼の言う通りに、ズレないよう手で抑えつつ、
「……え」
瞼を開くと見知らぬ街の、見知った光景が広がっていました。人も建物も、空も。
「直接、その目で見なけりゃ平気さ。今のところはな」
それでも──アレがそこら中にある事実は変わりがなくて、私はやっぱり顔を俯けてしまいました。
「もっとも濃い場所じゃあ効果は薄いだろーが、気休めにはなんだろ」
「……どうして、これを私に?」
だって私は、こんなものあったって意味が無いのに。
これから先が無いのに。
「お前は特別だ」
軽く鼻を鳴らす音が聞こえて、私の下へ向けた視界には彼の手が差し伸べられていました。
「死にたいなら死んでも良い。家に帰りたきゃそうしろよ。まあ今のお前が何を選んだところで、それは無意味だろうし無駄な事」
私はその理由が分からずに、ただじっと、その掌を見つめていました。
「だがもしもガハラちゃんがその命、そして力の使い道を考えてーなら、手を貸してやるぜ?」
彼は最後に『選びな』と付け足して、私の言葉を待っていました。
こんな、居るだけで誰かを殺してしまう私に、友達も家族も救えなかった私に、最終的に一人になった私に、選ぶ権利があるのでしょうか。これ以上生きる権利があるのでしょうか。命の使い道なんて、何処にあるのでしょうか。
そう思いながら、それでも私は、
気が付けば彼の手を取って、立ち上がっていました。
いつか、死ぬ理由を見つける日を夢見て。それに彼ならばきっと、何かあれば──私を殺せるでしょうから。
「……熊飼さん。それで、私達はこれからどこへ行くのでしょうか?」
「決まってんだろ?」
そうして彼は『仕事だよ』と、穏やかに微笑み、私の手を離しました。
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