11話 少女は手放して、眠る
「あー、俺俺……いや、その下りもう良いって。例の廃病院の件、片付いたから清掃員の派遣頼むわ。数は……怪物共がゴロゴロで、人間が3人分……知らねえよそんなの。とにかく俺は頼んだからな。そいじゃ」
熊飼さんは誰かと連絡を取っていて、場所が場所だからそれはもう声が凄く響いていました。
こんな山奥の、冷たい早朝だったから。
たちまち空を白く染めた、山頂から溢れる日の光。朝起きればいつだって見る事の出来る日常の明かりですが、経験した物事が違えば、感じる印象はガラリと変わります。かつてこんなにも、朝日を眩しいと思ったことはありません。かつてこんなにも、日の光が恋しかったと考えたことはありません。
腕の中で瞼を閉じる彼女には、決して見えていない光景。どこからか聞こえる鳥の鳴き声もまた同じ事。木々を抜けた風で髪が動くと、こんなにも冷たい体からでも、優しい香りがしていて、本当に眠っているみたいです。
「……綺麗だね」
流れた涙のおかげでさっぱりしていた私の心は、少し感傷的になっているのでしょうか。普段なら絶対に思わないであろう、言わないであろう言葉が無意識に溢れていました。
「さ、お別れは済んだろ? そこを退きな」
しかし、熊飼さんの辞書には遠慮の二文字は存在しないようです。彼はもう準備万端といった感じで二つに折れた斧を携えて、私達を見下ろしていました。まあでも、お別れの間を、ほんの少しだけ待ってくれていたと。
「本当に首を切り落とすんですか。このまま、火葬してもらうとか……」
彼女の土埃で汚れてしまった頬を拭って、その細い首筋が目に入ってしまいます。
「あー……もう面倒臭えからそれでいいよ。それでいいからさっさ、とっ」
言葉を言い切る寸前で熊飼さんは突然、血相を変えて駆け出します。それからこちらへと手を伸ばしたかと思えば、あまりにも急な出来事。
私は声を上げる暇もなく、気が付くと胸倉を掴まれて放り投げられていました。
「いたた……ちょ、ちょっと熊飼さん、一体」
何をそんなに慌てる事があるのかと思って、自分が先程まで居た場所に目をやると、
「ほれ見たことか。やっぱさっさと済ませるべきだったじゃんかよ全くクソッタレアンポンタン」
そこに居たのは、大きく口を開けた怪物、というよりハルちゃんから抜け落ちた右腕でした。体の部分を失くしていたそれは、まるで首を切り落とされた蛇にも見えて、開かれた口の奥からは腕が数本伸びて──ハルちゃんの体に巻き付くと、瞬く間に彼女は怪物の中へと消えてしまいました。
「なるほど、どーやらこっちが本体。いーね、丁度物足りないと思ってたところだ」
流石の熊飼さん、武器が破損していようと腕が使えなかろうと、全身隈なく負傷していようと関係なく闘志を漲らせていました。立っている場所には、彼の衣服では吸収出来ていない分の血液が垂れて床に落ちています。通常ならば出血多量でとっくに死んでいるだろうに、一体どういう体の構造をしているのかと、私は不思議でなりません。
ですが、
「いえ……熊飼さんはそこに居て下さい」
彼ばかりに任せては、私がここにいる意味がない。
「はぇ?」
怪訝な顔をする熊飼さんの横を通り過ぎて歩き出すと、怪物は私に目掛けて、吹っ飛ぶように飛び掛かって来ます。
「が、ガハラちゃんッ!?」
怪物には瞳が無く、あるのは口と喉から伸びる腕だけ。開いた中にはもうハルちゃんの姿も無くて、しかし私は酷く穏やかな気持ちでした。怪物が何を求めているのかさえ分かる程に。
「今度は、私の番です」
不思議と目の奥は痛まなくて、頭痛も吐き気もありません。彼女が──私の友達が、綺麗だと言ってくれた瞳だから。
「えへへ」
怪物は私の目の前まで接近すると、直前でまるで見えない壁にでも遮られているみたいに停止します。どうしてこんな事が出来るのでしょうね。まあどうでもいいですけれど。
私は動かない怪物を、哀れに愛おしく思い、気が付けば手を伸ばしてその頭らしき場所を撫でていました。
「怪物さん……あなたが欲しいのはこれ?」
そうして『薬指』を見せつけると、怪物は周囲の小鳥達を痛めつけるくらいの、喜びに近い絶叫を上げています。
「うん、ハルちゃんはもういないの。だから、いいよ」
「馬鹿っ、よせ!!」
背後から、初めて聞く熊飼さんの焦った声。見れば彼はもう駆け出していて、そんな制止に、私は振り返って笑顔で返しました。それから改めて、待たせていた怪物に向き直ると、
その口に手を突っ込んで──私は怪物の望む通りに、望むものを与えたのです。
「あーあーあ。お前、自分が何したか分かってる?」
すると怪物から、大きな鼓動が聞こえて来ました。
「ごめんなさい……でも、これは」
これは今までハルちゃんに背負わせてしまったモノの、その集大成。
「本来は私一人で受けるべきだった──呪い、ですから」
ドクンドクンと脈打って、膨れ上がり──喉から伸びた腕は二つに裂けて牙を生み出し、口となってはそこからまた繰り返し。増殖を続けては肥大して、頭が増えて蟠を巻いて、その姿はまるで巨大な蛇のようで、しかし木々の生い茂る樹海のようでもありました。やがて屋上の半分を埋め尽くす程に巨大化した怪物は、私達では見上げるくらいに高く積み上がって、今尚膨れ上がり続けています。
「私の家族は私のせいで、死んでしまいました」
最初はお父さん、靄が見え始めてからは皆、居なくなってしまった。
「ああ……そう聞いた」
「この建物の異変、私には見えていたけれど、最初に気が付いたのはハルちゃんでした」
彼女は入った瞬間、『誰かに見られている気がする』と言っていたっけ。
「……だろうな」
空を覆う勢いで増え続ける怪物は、遂に私達が邪魔になったのでしょう。開いた口、無数にある頭部の一つが襲い掛かって来ました。それから後を追うように他の牙が続々とこちらに向かって来ていて、
「ハルちゃんも、私と同じだった」
一番早くに辿り着いた怪物へ手を伸ばし、指先が触れた瞬間──怪物は黒い靄を噴き出して、それから霧散して消え去り、あれだけ騒がしかった視界が一気に晴れ渡ります。見上げると残った体表が雪のように降り注いでいて、しかしそれは桜の花弁が舞っているようなものとは程遠い、お世辞にも綺麗とは言えない光景。
「熊飼さんは知っていたんですね」
彼は『一人や二人食ったくらいじゃこうはならない』と言っていました。であればもう、その時には薄々分かっていたのでしょう。
「俺は……ガハラちゃんの話を元に、推測しただけだぜ」
熊飼さんは口元だけを緩ませると、視線を逸らされることはありませんでしたが、実に微妙な表情をしています。それもその筈、彼にとってこの話題は一番避けたかったものでしょうから。
私に『絶対死ぬな』と言った彼には。
「私は怪物を引き寄せる。だからお母さんもお父さんも、みんな死んでしまった。だけどハルちゃんは違ったんです。私はずっと、それは私が呪われていないからだと、思って来ました……だけど、それは違った」
思っていただけで、心の何処かではちゃんと分かっていたんです。
だからこそ、私にとって、ハルちゃんはたった一人だったんです。
「ハルちゃんも……私と同じ特別な人間だっただけ、ですよね」
熊飼さんは深く息を吐き出すと、床にあぐらをかいて、煙草に火を点けます。それは私の言っていることが、彼のようにただの推測をしただけでしたが、考えが当たっている何よりの証拠と思えました。
「いつ気が付いた?」
「私の瞳を綺麗だってハルちゃんが言ってくれた時、思ったんです。私のこれが怪物を引き付けるなら、それ以外も、もしかしたらって。そこからは熊飼さんの言葉や今までのことを思い返して、結論を出しました」
「そうか」
「……聞かせて、くれませんか?」
彼の吐いた煙は天高く昇り、そしてそれには、恐らく諦めに近い感情が織り交ぜられていたように思えます。
「知らないままで気付かないままの方が幸せな事もある、が、お前はそうもいかないか?」
「私には……私だけは知らないといけない」
観念した、言い表すならそんな感じでしょう。
「あーそうかよ」
何度か煙草を吹かすと、彼は徐に語り始めました。
「建物内に居た怪物の量は、はっきり言って異常だった。しかも喰われたのは3人らしい。すぐにピンと来たよ──被害者の中に普通じゃない奴が混ざってるってな」
「まずは……私」
「そ、ガハラちゃんが今回の原因だと分かった。だが、残りの問題はどうにも説明が付かない。あの量が生まれるにはそれなりの力を持った奴を食わんと不可能。だったら消去法で残る可能性は一つ──お前が『たった一人の友達』だと言った人間。聞けば家族は皆死んでるらしいが、そいつは今日の今日まで生き残ってたわけだろ」
「でも、ハルちゃんは」
「食われた。最初の二人を食って生まれた怪物が、お友達の力で祓える許容を越えてたんだ」
「そこだけが分からないんです。どうして今日だったんですか、アレはいつだって私のすぐ近くに居たのに、どうして、今になって怪物なんかが現れたんですか」
「お前にもその子にも、耐性はあったんだろーが……まあ」
熊飼さんはそこで言葉を詰まらせました。煙を吐いて視線を上に向ける様子は、まるで告げるかどうか迷っているみたいに──そんな姿に、正直私は心の何処かで期待していました。今日起きた全てが何者かの悪意によるものだと言われる事を。原因は私でも、何か他の要因が重なって、自分以外にも責任があるのだと、聞きたかったのです。
「しかし……遅かれ早かれ結果は同じだっただろうぜ。いつか来る終わりが今日だっただけで、いずれは食われてたろう」
しかし告げられたのは、私が想定していた中で最も残酷な現実で、聞きたくなかった言葉。
だってそれじゃあ、そうだとしたら、
「来月から、私とハルちゃんは別々の道に進む予定でした……だから……」
もしもあとちょっと、もう少しだけ遅ければ、
「起こっちまったもんは仕方無い。失ったもんは返ってこない」
「ハルちゃんは死なずに今も、どこかで生きていたかもしれない」
私は熊飼さんが嫌っていると理解していても、そんなもしもの話を声に出さずにはいられませんでした。もしも私が怪物の事を知っていたら、もしも進路が別れていたら、もしも今日でなければ──と。しかしどう考えたって、それはハルちゃんとは一緒に居られないという事実を意味します。仮に私が怪物を殺す術を知っていたところで、ハルちゃんを守りきれる保証なんてない。私と一緒に居るだけで、いつだって終わりに迫られる日々を、何より私自身が受け入れる事なんて出来る筈もないのです。
そもそも私と出会っていなければ、彼女は生きていた。ただそれだけが重く突き付けられていました。
「だとしたら、なんだよ? 死にたいとでも言うつもりか? 知りたいと言われて教えてやりゃあ勝手な奴。だから嫌いなんだよお前みたいなクソガキは。反吐が出るね」
だからこそ、熊飼さんはこの時の為に私に『絶対に死ぬな』と、それから丁寧にも『自分から死を選ぶな』とまで。
「……死にたいですよ……とっても……私はこんなにも、死んでしまいたい」
「そんな呪いを抱えて死んでみな。怪物になって誰かを殺すのは目に見えてる」
「呪いなんて抱えてる私はもう怪物なんです。だから熊飼さんが殺してくれれば良いじゃないですか。貴方だったら簡単に」
しかし息が詰まって、私は最後まで言うことは出来ませんでした。
「簡単? お前自分で何言ってるか分かってんの?」
見た事のない冷たい表情で、低く地を這うような声色で、熊飼さんに首を掴まれていたからです。
「……だって」
もう、何も考えられなくなってしまいました。
「死にてえ程に辛いのは分かる。なんてたってお前が居なけりゃお友達は死ななかったからなー」
もう何も、分からなくなっていたんです。
「で? だからなんだ? もう居ねえ奴の為に死んで、それに何の意味がある? いいや、意味なんて無いね。無駄な行為以外の何物でもない。にも関わらず、お前のせいで多くの命が失われた今になっても、お前は無意味に死ぬのか」
だからだんだん、視界がぼやぼやしてきました。
「私が生きていたら、誰かが、死ぬんです。それも私の周りの……大事な、ひとが」
頭がぼーっとして、
「未来の事を考えて死ぬのは一番無駄で、一番勝手だぜ?」
「なら私は……わたしどう、すれ……ば」
瞼を閉じる前に、最後に見えたのは心底面倒そうな表情と、
「眠りとは、死の友達だと誰かが言っていた。であるからして、今は黙って安らかに──そうすりゃ、頭も冷えるだろうよ」
優しい口調の、そんな言葉でした。
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