10話 少女と涙
「こりゃ久しぶりの大物、だが今なら殺せる。ガハラちゃーん、さっきみてえに気を抜くなよ?」
熊飼さんは私の肩に置いていた手を離すと、首に掛けた十字架に軽く口付けをしていました。それから一歩前へと出て、脇に抱えた斧を構えます。背後から見ても、やはりもう、右腕は折れ曲がってしまって、動くことはないと思えました。彼の言葉通り、油断のせいで生まれた負傷。
「はい……もう、大丈夫ですから」
私は──怪物に視線を向けます。靄は怪物を取り囲むように発生していますが、その中でも、あの大きな口のように変形した右腕部分はより一層深く濃く、黒く染まっていました。
「熊飼さん。カバーお願いしますね」
「お、それなんかバトル漫画っぽいな」
彼は軽く鼻を鳴らすと、それから斧を下段に下ろして一気に怪物へと向かって行きました。
「嫌いじゃないぜそーいうの」
間合いが詰まると同時に、熊飼さんは体を回転させた勢いを利用して、斧を横に薙ぎ払います。しかし、怪物の巨大な右腕が体を守ると、建物内や屋上で難なく怪物を両断していた刃先は、簡単に弾かれてしまいました。
「あはははっ硬ってえー」
滑らかな表面と、鉄が衝突したとは思えぬ音が響いて、その強度を知らせています──それに、先程からずっと、私は怪物を注視しているというのに動きには変化がなく、熊飼さんが『大物』と称した理由を理解しました。
確かに、アレは他のものと明らかに違う。見た目も靄も、中身も何もかも。
それからも熊飼さんは、手を休めることなく攻撃を加えていました。彼は手負の筈なのに、寧ろ速度が早まっているとさえ見える連撃でしたが、その全ては回避だってされずに弾かれていきます。殆ど人体の限界を無視した動きと思える速度で、後ろに周り込んで斬りつけても、怪物の右腕はまるで意思を持っているかのように、主人を守り通していました。
一歩だって、動かないまま、熊飼さんの攻撃を捌いていたのです。
「このクソ怪物がよぉ」
あまりにも手応えが無い事による苛立ちか、終始余裕だった彼の横顔に、僅かな翳りが窺えました。更には一歩後退した彼の、斧を持つ手からは出血していて、木製の柄を赤く染めている事に気が付きます。
「っ、熊飼さんっ、血が」
「皮膚が破れたんだろーなー、まずいなー、このままだと俺より先に武器が壊れちまうよーどーしよーかなー」
彼はちらりちらり、私を横目で。『お前がどうにかしろ』もしくは『決め手に欠けてる』と言いたいのであろうというのは分かっていました。しかしどうすれば良いのでしょう。私の目はそもそも、自分自身でさえ何かも理解していないのに。これが仮にバトル漫画であれば頑張るとか、より力強く見つめるとかでどうにかなるんでしょうが、それが出来るなら苦労はしません。
具体的な、何かが足りていないのかも。
「熊飼さん、私は死ぬつもりはないです……だから、ちょっと無茶しても良いですか?」
「その言葉を待ってた。んでどうする?」
「近付きます。触れられるくらいまで」
多分、足りていないのは、距離だと思いました。何故かは分かりません、ただ初めて怪物を送った瞬間、私は彼らに触れていたことを思い出したんです。そしてその時が一番──強かった。
「りょーかい」
熊飼さんは言って、次にはもう怪物へと向かっていました。
私は震える足を何度も縺れそうになりながら、彼の背中を追い掛けます。
そして予想通り、怪物と距離が詰まる程に目の奥が強く痛むんです。頭のてっぺんがそのまま爆発してしまうんじゃないかと思えるくらいに熱を持って、締め付けられるのではなく、沸騰するみたいに痛みました。
あまりに痛くて吐きそう。痛過ぎて視界が滲む。
私が接近している間も、熊飼さんは飛び上がって斧を振り下ろしていました。柄を握る手が裂けても、弾かれても。構わずに振るい続けて、それはきっと私の為に。そうして遂に──限界を迎えたのは斧の方でした。幸い刃は折れてはいませんが、怪物に叩き付けた瞬間、彼が手にしている根本から完全に二つに折れてしまったのです。
私はより一層、怪物に焦点を当てました。しかし今だってもうかなり近くに来ているのに全く効果は無くて、突如強烈な痛みに襲われ、無意識に瞼を閉じてしまいます。胃の中には何も入っていないので、液体が溢れ出しました。
足を、止めてしまいました。
そうして聞こえたのは笑い声です。聞き覚えのない類の、聞いたことのある声色。彼女は身を守る必要が無くなった、と判断したのでしょう。咄嗟に瞼を開くと、これまで防御一辺倒だった怪物の右腕が、大きく口を開いています。中から飛び出したのは鋭い爪を備えた3本の腕、その内の一つは瞬く間に熊飼さんに襲い掛かり、
「熊飼さん!」
彼の負傷した部分に纏わり付いて、深く突き刺さっていました。しかし顔色一つ変える事もなく、強引に引き千切ると熊飼さんの顔は自らの腕から吹き出した血で染まります。続いて二つ目、三つ目が彼の肩と脇腹に突き刺さって、全身に絡み付いてしまっていて、遂には熊飼さんの体は宙に浮いてしまいました。
怪物の右腕が、血で染まった牙が喰らい付こうと開いて、
「ガハラちゃん」
そんな瞬間でさえ、熊飼さんは微笑んでいた。笑って見ていたのは──私。私に見えたのは、何かを告げたように動いた、彼の口元でした。
「こっちを」
私はもう一度駆け出しました。視界の掠れは酷くて、もうかなり何も見えません。
「見てよ」
だからもっと近付かないといけない。それこそ、触れられるくらいに。
「こっちを見てよっ!! ハルちゃんっ!!」
そうして私は触れていた。怪物となった彼女の髪を掻き分けて、頬に触れて、ようやく見えた瞳は黒く染まってしまっていた。だけど私は鼻と鼻とが触れる程の距離で見つめた。
今までで一番痛い距離で、今までで一番近い距離で、初めて目にする表情。
見つめた彼女は小さく、
「ゆ、ず……こ?」
そう呟いたんです。私の知っている顔をして、私の知っている瞳に戻って。
だから私は声にもならぬ叫びを上げて、見つめ続けました。彼女の口から何もかもが飛び出して、苦しそうに震え出してもずっと、離れぬように頬を掴んでハルちゃんが逸さぬように、私が逸らせぬように。
「大丈夫。私が送ってあげるから……ハルちゃん」
靄が完全に体内から消え去ったからでしょうか、彼女の喉から僅かに吐息が溢れ──私の手から離れると、まるで糸が切れた人形みたいに、後ろへゆっくり倒れていきました。巨大な口だった右腕は肩から抜け落ちていて、真っ白だった髪や長さ、枯れ木のようだった体が徐々に元の色を取り戻しています。
その姿はもう怪物のそれではなく、間違いなく私の友人のもの。
「……」
力なく、虚な瞳で倒れる姿を見て、遂に私は、たった一人の友人を失ってしまったと思いました。
「ああ、キツかった」
背後から声が聞こえて、振り返ると熊飼さんは刺さった腕を、平気な顔で抜いていました。
「熊飼さん」
無事で良かった、そう言おうとして言葉が詰まります。彼の満身創痍を見てのことではなく──折れた斧を拾い上げて、倒れるハルちゃんを見下ろしていたから。
「……何をしようとしてるんですか」
「首を切り落とす」
彼は他の怪物を殺す時と同じような微笑みを浮かべて、「退け」と短く。
「もう、充分ですよ」
「見たくねえなら向こうに行ってろ。今までは散々お前のお遊びに付き合ってやったんだ。最後くらい仕事させてくんない?」
私は無言で一歩前に出て、熊飼さんの前に立ちます。
「おー、怖え顔。んでどうすんのかねー。悪いが俺は人間、お前のご自慢の目は効かないぞ?」
彼の言う通り、身体能力に於いては、恐らく手負であっても何もかも私では劣る。それでもどうしても、これ以上の事をして欲しくなかったのです──私以外の、他の何者であっても。
「ですか、じゃあ仕方ありませんね。えへへ」
白み始めた空を見上げて、私は笑ってしまう。
「ほー、なるほどなー」
そうそう、仕方が無い。わがままでも、熊飼さんなら許してくれますよね。と。言葉には出したくない黒い気持ちが、胸一杯に広がっていくのを感じていました。暖かい何かに、全身を包まれているような感覚です。それは例えようがない程に気持ち良くて、思わず身を任せたくて、私は堪え切れず笑ってしまって、清々しくて、おかしくて、楽しくて、愉快で痛快で、馬鹿馬鹿しい、小気味良い、願ったり叶ったり、喜ばしくて、面白くて、
「ゆ……ず……」
「っ」
その時です。
突然、裾を誰かに掴まれていました。僅かに触れる感触はあまりに小さいものでしたが、
「ハル、ちゃん?」
振り返って、私はすぐに駆け寄って、
「……こ」
倒れる体を抱き抱え、微かに残った温度を感じていました。
「ハルちゃん……ハルちゃんっ」
「柚子、?」
微かに開かれた瞼から覗く瞳は、焦点が全く定まっていなくて、多分もう、彼女には私の姿が見えていないのでしょう。微弱な吐息は、多分もう。
「そうそう、そうだよっ……ハルちゃん」
「あー、そっかー……ウチ、死ぬっぽい……ね。あはは」
私はそれでも充分でした。もう諦めていた、友達の声を、聞く事が出来たのですから。
「柚子……覚えてる? 初めて会った時のこと」
「うんっ、うんうん。覚えてる、全部覚えてるよ」
「なんて綺麗な目、なんだろうって……あはは、あー、もうだめ。なんだか声も、出しづらくてさ、顔も分からないや」
それを聞いて私は、彼女もまた私の『呪われている』に引き寄せられてしまっていたんだと理解しました。今日一日で、どれだけ自分の存在を後悔したかは分かりませんが、その言葉だけで、自分が肯定された気がして。
「最後に、見たかったなあ……ねえ」
怪物だけではなく、大事なものも与えてくれていたのだと、知ったんです。
「うん、うん……」
「柚子、そこにいるの?」
「大丈夫。ここにいるよ。大丈夫、大丈夫だから」
「……そっか」
そう何度か呟いた頃、感じたのは強い光です。顔を上げると朝日が山の頂上から顔を出していました。私はそれを見ながらも何度も何度も、いつの日かお母さんがしてくれたように『大丈夫』と言い続けて、
ハルちゃんは『うん』と頷いていたけれど、
最後の数回は、もう届いていなかったのでしょうね。
私の腕の中で、もう呼吸の音は止まっていたんです。
「おやすみなさい」
日の光はとても眩しくて、私は目を細めました。それから違和感を覚えて拭ってみたら──あれだけ流したかったものが、手の甲に一筋。しかしそれは真っ赤に染まっていて、側から見れば、酷く不気味な姿だったでしょう。
「あーあ……ようやく流せたと思ったら、これじゃあね」
その正体を私が知る頃には、何もかもを失っていて、もう、全てが手遅れになっていました。
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