9話 少女とただの怪物
私は瞼を閉じ、大きく息を吸い込みました。手の中にある彼女の一部を鼓動に近付けて、指の隙間から滴り落ちる冷たくなってしまった血を、これ以上溢さぬように強く握り締めました。
「……ハルちゃん」
呟き、閉じていた瞼を開きます。
すると目の前では、熊飼さんが斧で根を切り落としていた瞬間で、私は思わず一歩引きました。引いて、奥歯を噛み締めて、退いた足をまた前に出します。
「あれをぶった切るには、もうちょい接近しなきゃならん。お前に出来んのか?」
彼はそんな様子を見て人を小馬鹿にしたみたいに、軽く鼻を鳴らしていました。
「出来ます。お願いします」
私は彼の横に立つと、少し強めに言い放ってやりました。
「オッケー」
今この時にも、怪物は産まれ落ち続けています。桜を取り囲むように立つ彼らは、今日初めて怪物を目にした私でも、素人目から見ても、アレを守っているんだと理解する事が出来ました。人を食らう為、その為だけに彷徨う筈だった怪物。私達が一歩、また一歩と近付いてから繰り出された咆哮は──こちらを敵だと認識しての行動だと、確信出来ました。
「今、送ってあげますから」
先頭の一体に視線を絞ると、今まで室内で、朧げだったその姿が、月の青白い光で鮮明に映し出されて見えます。関節も骨も無い、身体のどこもかしこも滑らかな表面は、生まれたばかり。ただ人を捕食する為に備えられた牙、口が──私にはとっても哀れにも思えてしまいました。だけど、命を奪うのは心苦しいけれど。
私が狙った怪物は、体を小刻みに震わせながら血液を撒き散らし、あちこちから靄を噴出させています。
「っ……ごめんなさい」
痛みを堪えながら、終わるまでじっと見つめると──それはやがて、大きく悲鳴を上げて力なく倒れて行きます。後ろから続いていた他の怪物は、倒れた一体を踏み締め、こちらへと向かって来ていました。それからも続々と産まれ落ちた怪物は、倒れた仲間を、まるでそこに居ないみたいに、器用に踏み台にしていました。
「哀れで醜いだろ? あー言うの見てるとホントに、人間って素晴らしいと思うよなー」
熊飼さんは言います。
彼はどこまでも意地悪な微笑みを浮かべて、斧を振り回して、根や飛び掛かってきた怪物などを両断します。人間は素晴らしいと。賛美を送る熊飼さんですが、戦闘に於いてはとても──人間と呼べるものではありませんでした。上下左右全部が視界みたいに、自分にも私にも、襲い掛かって来る何もかもが掠りもしていないのです。そもそも木の根っこを、あんなホームセンターで買って来たような何の変哲もない斧で、両断出来るものでしょうか。
普通は出来ません。
それはいくら私でも分かります。だとすればきっと、あの斧は何か特殊な鉱物で出来ているのでしょうか。
いえ、だとしても関係なく、彼の動きは人間離れしていると言わざるを得ませんでした。まるで手足のように武器を扱い、またその手足も尋常ではありません。飛び跳ね、回転し、躱せないと思った瞬間でさえも、熊飼さんは根でも怪物でも──掴んで千切って、蹴り付けて振り回して、私はまるでカンフーアクション映画でも見ている気分になっていました。
いやいや、そんな気分に浸っている場合ではありませんでしたね。
「私は、私に出来ることをやらないと」
とはいえそもそも熊飼さん一人でどうにか出来てしまうのではと、そう思えなくもなかったけれど、しかしそれは駄目なのです。それではここまで連れて来てもらって、今守ってもらっている意味がない。
私は改めて、哀れな怪物達に視線を戻します。
そうして私達は役割を分担しながら(殆ど熊飼さんだけど)、桜の木に歩み寄ります。近付くにつれて苛烈を極める根の抵抗や、怪物の産出は速度を増していきました。
しかし、花弁もまた数を減らしている事に気が付きます。恐らくですが、きっと終わりが近いのでしょう。
「もうちょっと、あと少しで……」
だから私は、少し歩みを早めました。
そうして出足が、熊飼さんを超えてしまった。
「ガハラちゃんッ!」
「え」
動きを止めた瞬間にはもう、私の右足には根が絡まっていたのです。床から静かに伸びていた根はまるで触手のように、茶色い腕みたいに絡み付いて、引き抜こうともびくともしませんでした。
「焦ったなバカたれ……」
呆れた声と迅速な振り下ろしで、何とか私の足は自由を取り戻しましたが、
「熊飼さんっ!」
それがまさに一瞬の隙となったのでしょう。今度は熊飼さんに根が絡み付いていて、瞬く間に右腕を締め上げると辺りに鈍い音が響いていました。即座に左手へと斧を持ち替えるとすぐさま切り落としますが──力無く垂れた腕からは大量に出血していて、手首から肘にかけて、折れ曲がってしまっていました。
「わ、私のせいで……」
呆然とする私を前に熊飼さんは左手一本で、再度襲い掛かった根を切り払います。
「あー大丈夫大丈夫。俺、痛みとか感じないタイプだから」
その表情には変わらぬ微笑みを浮かべて。しかしやっぱり左手しか使っていないのだから、私が与えた被害は、私が気負っているよりもずっと甚大なのでしょう。彼の余裕綽々な表情は、私が無理をさせてしまった証拠なのです。
だから、私はすっかり足を止めてしまいました。
「な、に……あれ」
そうしていると、桜の木が花弁を散らして揺れ始めます。呼応するように怪物が月を見上げながら絶叫していて、やがて──木から放たれた根は、そんな怪物達を突き刺していきました。腹から、脳天から、次々と無抵抗の彼らを串刺しに。そして根は、絶命した怪物達を引き摺って、満開の中へと取り込まれていました。あれだけ数を減らしていた花弁がみるみるうちに元通りに戻って、そうして徐々に花の先端から──黒く染まっていきます。
どこからともなく現れた黒い靄が、私達を通り過ぎて桜に集まって、鮮やかな桃色が、頭から爪先まで黒く。
「熊飼さん……ごめんなさい」
何が起きているのかは分かりませんでしたが、桜の木の異変は、熊飼さんの負傷を受けての事だと、事態が悪化していることだけは理解出来ます。それも私のせいで。
「なーに謝ってんだよガハラちゃんや。こっからが正念場、ようやく──面白くなってきたとこだ」
熊飼さんは相変わらず、『胸を張れよ』とそう言って笑っていたと思います。
ですが何を言われたって私は笑うことも、彼の顔を見る事も出来ませんでした。桜の木、漆黒になってしまった満開の隙間からじっと──こちらを見つめる瞳が、ぎょろぎょろ動いていたからです。やがて瞳だけでなく手が、足が真っ黒から顔を出して、花弁からぼろぼろと、枝まで崩れ落ちる頃には、
桜の木が跡形も無く消え失せた時にはもう、その姿を現していました。
「ほら、出て来たぜ?」
熊飼さんはアレを見て『お前のお友達だった奴が』と。色白の肌も、髪の色も、体格も同じな彼女を。呆気に取られた表情で、『柚子』と私の名前を呼んだ彼女を、穏やかで優しい声も、顔も、居なってしまった最後に目に焼き付けた殆ど同じ──ハルちゃんを見て、熊飼さんは言ったんです。
「……は、ハル……ちゃん?」
彼女は自分が置かれている状況を、不思議に思っているようでした。辺りをゆっくり見回して、それから自分の手をじっくり眺めています。裏に表に返しながら──欠損している薬指を。
「柚子。一人にしてごめんね」
そうして彼女は、どこまでも私が知っている顔で微笑みました。
「ウチの指、返して?」
徐に左手を差し出して、微笑んで、私にそう言ったんです。
「うん」
だから私は、友達が呼んでいるんだと反射的に頷いて、歩き出しました。だけどどうしても前に進むことが出来ません。早くハルちゃんのところへ行きたいのに何故でしょうか。何が私を止めているのでしょう。
「おいおい、そりゃーお前が持ってろって言ったろ、ガハラちゃん」
背後から声が聞こえて、その時初めて私は熊飼さんに肩を掴まれているのだと理解しました。命を救ってもらったし、色んなことも教えてくれた熊飼さん、彼の判断や言うことはいつだって正しかったけれど、今この瞬間だけはとても邪魔です。
「離して」
「アレは確かに、お前のお友達だった」
「離して下さい」
下らないやり取りをしている間にも、ハルちゃんは『柚子、柚子』と頻りに私の名前を呼んでいます。『返して返して』と何度も言っています。だから私は行かなかればならないのに。
「なんで止めるんですか」
「今お前が行けば確実に食われるからだ。絶対に死ぬなってのはついさっきの話、ガハラちゃんは忘れる程の馬鹿野郎か?」
「だって今あそこにいるのはハルちゃんなんですよ。友達が返して欲しいって言ってるんだから、持って行かないといけないじゃないですか」
痛い、
「分かってます」
痛い、
「全部分かってる。あそこにいるのはハルちゃんじゃないって」
痛いよ、
「分かってるんです。でも……行きたい……行きたいよ」
心とかじゃなくて体でもなくて、もっと、別の場所が凄く痛いのです。
「お前が終わらせるんだろ」
「……はい」
そうして、私の足は止まってしまいました。
ハルちゃんだったものは『そう』と残念そうに顔を俯けて、ゆっくり上げていた手を下ろします。
その瞬間、彼女の体からは靄が噴き出して、月明かりを隠す程に周囲を覆います。肌はみるみる青白く染まっていき、髪が、骨が、肉が、色と形を変えて、眠りついたみたいに安らかに閉じられた瞼にはもう、私は映っていないでしょう。
私の視界にはもう、ハルちゃんの姿はありません。
そこに居たのは、怪物です。
力なく垂れてしまった、私を包んでくれていた、薬指の無い左腕はまるで枯れ木のようにか細く。しかし右腕は肥大化して、肩の辺りから血を噴き出し二つに裂けると、その部分には怪物と同じ不揃いな牙が生えていて、まるで大きな獣の口みたい。あんなに気を遣ってお手入れしていた、私が好きだった髪も床へ辿り着くまでに伸びきってしまって、今にも消えそうに儚い、肌と同じような真っ白に変わっていました。
「今、送ってあげるね……ハルちゃん」
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