8話 少女と桜
「どうやらお前のお友達は、屋上にいるらしい」
収まった振動。しかし鼓膜に響く絶叫は未だ鳴り続けていました。それは何かが締め殺されているような、苦痛から溢れるか細く鋭い叫びで、しかも熊飼さんは──それが彼女のものだと言います。
こんなものを発しているのが、私の友達であると。
「ハルちゃん……ハルちゃんが、そこに……」
耳を澄ませて、じっと、黒い靄の蠢く天井を眺めました。それは今にも建物全体を覆い隠そうと広がっていて、壁を伝い、気が付くと床までをも侵食しています。もしかしたらこれらも、全てハルちゃんから生まれているのかも。
「さて、お前はどうする? 行くのか?」
そう思って辺りを見回している時、熊飼さんは言いましたが、私は何を問われているのか理解出来ずに首を傾げます。
「今からお前の友達を殺しに行く、って言ってるんだぜ俺は。ガハラちゃんにその覚悟があるのか、いざという時、邪魔をしないと言い切れるのか。それを聞かない内にゃー連れて行けないね」
ああ、そういう。
「行きます。私の、たった一人の友達ですから」
私が答えると、熊飼さんは軽く鼻を鳴らしました。
「即答なら結構。可愛げねえが、とりあえずその言葉は信じてやるよ」
それから斧を肩に担いで歩き出した熊飼さんに、私は後ろからではなく、隣を付いて行きました。決して──彼に先を越されないようにする為には、怖がっている暇も黙って見ていることもしてはいけないと思ったからです。他の誰でもない、私がハルちゃんを終わらせないと。
2階の通路、その奥はもう、空間が歪んで見える程に靄に包まれていました。建物全体がまるで生き物のように、呼吸をしているみたいにさえ感じられます。そしてそんな、息が詰まりそうな光景の中でさえ、熊飼さんは昼間に散歩に出掛けている様子で、鼻歌なんかも口ずさみながら進んでいたでしょうか。
彼の体には無数の靄が巻き付いているのに、ものともせず。
「……平気なんですか、それ」
だから私は思わず聞いてしまいました。
「は? 何がだよ」
「その、靄みたいなやつ、みんな──あんな事になったのに。熊飼さんはどうして平気なんですか?」
「靄? んなもんどこに……」
熊飼さんは少し唸った後『ははーなるほど』と。
「お前見えてるんだな」
意味も理解出来ず、私はそれらの態度に困惑するばかりです。
「てっきり骨折り損のくたびれ儲けだと思ってたが、とんだ掘り出しもんに出会えたな。わざわざこんな山奥まで来た甲斐があったよ。こりゃ明日も確変間違いなしだ全く」
「あ、あの……何を」
何か嬉しそうということは理解出来ましたが、しかしそれだけの私に構うことなく彼は続けます。
「正直言うと、俺はガハラちゃんを餌に怪物共をぶち殺そうと思ってた。だけども──気が変わったぜ」
そうして屋上へと続く階段に差し掛かって、熊飼さんは改めてこちらに視線を送りました。
「この先に進む前に一つだけ約束。絶対に死ぬな」
「は、はい?」
「良いから約束しろ。何があっても俺が守ってやるし、目的達成における障害は全部排除してやる。だから絶対に死ぬな。自ら死を選ぶな。それが連れて行く条件。承諾出来ないのなら、俺はお前を気絶する程タコ殴りにしてここに置いて行く。どうだ?」
「どうだと言われましても、それは受け入れるより他がありません」
「ならOK、約束だぜガハラちゃん?」
彼がどうしてそんなことを言ったのか、私は分からないままで頷きました。
それから熊飼さんは、私の従順な態度に満足したのかようやく階段を上り始めました。下らない問答に時間を取られた気がして、そしてこの先にハルちゃんが居ると思うと、私は自然に足早になります。もう靄の事など目に入らず、気にも留まらない。早く彼女に会いたいと、それだけに支配されていました。錆びたドアノブの冷たい感触にも構わず回し、だけど当然鍵は掛かっていて奥歯を噛み締めます。
私がもたついていると熊飼さんが『退け』と短く。
言われた私が引いた直後、扉に思い切り蹴りを入れました。相変わらず頭のおかしな人だとも思いましたが、もうどうでもいい。
早くハルちゃんに、会いたいと。開いた扉の先へ私は飛び出して、つぶやきました。
「……ああ、やっぱり」
ここにいたんだね。
勢い良く開いた扉から、外気と月明かりが一気に入り込んで──彼女の匂いが鼻を撫でます。花のように暖かいあの、もう随分離れてしまった、懐かしい感覚が込み上げて来ます。目を閉じれば笑顔も思い出も、全部を振り返れる気がしました。
ですが、私が知っている姿はもうそこにはありません。
屋上に広がっていたのは先程のような黒く、重い雰囲気とは真逆。青白い明かりに照らされた白い床、開けた景色。夜風が通り過ぎる音、私が好きな冷えた夜の空気。
そしてそんな屋上の、冷たいコンクリートを貫いて、根ざしていたのは──桜の木。季節外れにも満開に咲き誇って、風に揺られる度に桃色の花弁が舞って、ライトアップでもされているみたいに、鮮やかな一本でした。
「迎えに来たよハルちゃん。遅れてごめんね。今……送ってあげるから」
そんな桜を私は『一緒に、隣で見たかったなあ』と、思いながら──視線を向けます。リョータさんやマコトさん、怪物を送った時と同じように。決して逸らさず、これで終わってしまうのに、私はじっと見つめていました。
すると桜は大きく揺れながら、あの叫びを上げて花弁を散らし始めます。
私は感じる痛みなど構わずに見つめ続けて、
「避けろ」
しかし突然熊飼さんの声が聞こえて、気が付いた時にはもう、私は突き飛ばされて、床に倒れ込んでいました。
「ど、どうして……」
先程まで私が立ち尽くしていた場所には、斧を振り下ろした状態の熊飼さん。見ると彼の足元には一本の根が切り落とされていました。床には穴が空いていて、どうやら地面を伝って伸びてきたものから助けてくれたようです。
だけどどうして、ハルちゃんが私を?
「なんで、どうして」
「さあ。効き目はあるようだが、どうやら殺すには足りんらしい」
駄目だ。それじゃ私がここにいる意味がない。私じゃ、ハルちゃんを送れないの?
「それにしても厄介極まりない。足手纏いを連れてるこっちとしちゃ、一番嫌なやり方をしてきやがる」
せめてここから逃げることで負担を減らせたらと思い、入ってきた扉に目をやるとそこには既に、幾重にも根が張っていました。通る隙間なんてありません、破壊している暇もあるとは考え辛い。また仮にこの場から逃げても、建物のどこにいたって襲われることは想像が付きました。
「ごめん、なさいっ……」
それらを確認して、私は現状の全てが、私へ役立たずの烙印を突き付けていると実感し、ただ謝ることしか出来ませんでした。
「ならどうする、諦めるか? お前の友達なんだろ?」
しかしそんな私に掛けられたのは、突き放すような優しい言葉。この状況で怒ってもいいだろうに、怒って当然の権利を持つ熊飼さんが、微笑んで言ったのです。
「でも」
「お前はまだガキンチョでクソガキだ。親だの先生だの周りの大人に縋って、どーせ生きてるだけで大迷惑だろが。だったら子供は子供らしく、ただやりてえようにやりゃ良い」
そうして熊飼さんは私の前に立って、斧を振り下ろし根を切り落とします。
「大人になんのは、大人になってからで良いんだよバカたれ」
桜の木がまた叫び、揺れています。満開の隙間からは何かが垂れ落ちて来ていて、見れば根に吊るされた怪物が、一つ二つと。徐々に数を増やした怪物は、やがて床に着地するとぎこちない動きでこちらへと歩いて、向かって来ます。
「それにほれ見てみろ、お前がやれそうな奴が出てきたぜ」
熊飼さんの言葉で、いつしか竦み上がっていた私の足が動いていました。それから差し出された手を受け取ると、自分でもびっくりするくらいすんなり立ち上がれてしまって、
思わずちょっと笑ってしまいます。
「熊飼さん……私のわがまま、もうちょっとだけ付き合ってください」
彼もまた斧を肩に担ぐと何か言うでもなく、私の隣に立ってただ静かに、微笑みを浮かべていました。
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