4話 少女と薬指

 私はオカルトなんて信じない。幽霊や超常現象は、人類が未だに到達出来ていない未知の領域の何かで、例えば未来からタイムスリップしてきた悪戯好きの人が悪さしているんだ、そう思って来ました。そして今でもそれは変わっていません。実際に直面している今でさえ、私はこれが何者かによる仕業だと確信しています。原理も方法も分からないけれど、きっかけは分かっている。


 きっと、それは私のせい。


 私が気が付いてしまったから──見つけてしまったからなのです。


「どうなってんだよ、一体……」


 リョータさんからはふざけた態度が綺麗さっぱり無くなっていて、しかしそれは私達も同じこと。みんな口を閉ざして、出てくるのは現状への不安や困惑、あとは当てる場所のない怒りだけでした。


 この廃病院を外から見た時、窓は幾つもありました。今はありません。傷だらけの壁はどうやったってそれ以上の傷が付きません。出口は見つかりません。入り口も見つかりません。暗闇の中、私達がお互いの存在を確認出来ているのはスマートフォンの明かりだけ。しかしそんな頼みの綱も電波は圏外、充電は残りわずかです。


 私達は未だに診察室へと続く廊下を、受付へと戻り続けて、しかし、未だにどこへだって辿り着いてはいません。無限に続く暗闇を、ただただ奥へ奥へと進み続けていたんです。暗すぎて、どこかどこだかも分からず、今見えている全てがあの黒い靄なのではないかとさえ思うように、


「ハルちゃん。今私達、暗い通路を歩いているよね?」


 みんなには、私と違う光景が見えているのではないかと不安になって、聞きます。


「……そうだけど、何それどーいう意味?」


 しかし、返って来たのは少し棘のある口調でした。もしかしたら、逆におどかせて、不安にさせてしまっただけだったのかもしれません。


「ち、違うっ、別に意味なんてなくて……ごめん」


 ハルちゃんのこんな雰囲気を初めて目の当たりにした私は慌てて訂正しようとするも、だけど何を訂正すれば良いのか分からなくなって、結局は言い淀んでしまうだけでした。そうして私達の間で、私達を包んでいる暗闇にも負けない程の、重苦しい沈黙が流れてしまいます。リョータさんとマコトさんも、もうどれほど声を聞いていないか。


「……ウチこそごめん。ちょっと、おかしくなってんのかも」


 と言ってハルちゃんは足を止めてしまいます。謝らなければいけないのは、私だというのに。


「ううん。おかしいのは私だよ。急にあんなこと言って、変に決まってる……よね」


 そうしてまた、沈黙と暗闇だけが私達の間に残りました。ついに歩くことも止めてしまって、場所も考えず、ただ壁にもたれると座り込みました。身体的にそれほど疲れてはいないけれど、これ以上動くにはきっかけが──希望が、必要だったんだと思います。


「来なけりゃ良かった」


 そんな時、ポツッとリョータさんが呟きました。


「そういえば……動画撮ろうって言い出したのはお前だったな」


 とマコトさんが返します。


「俺のせいか? ゼミのやつから金借りてる分際で、こんな時ばっか人のせいにすんの?」


「は? それ今関係ねえだろ。お前アホか?」


「二人とも……喧嘩してる場合じゃないでしょ? 大学生にもなって、んなこともわかんないの?」


 リョータさんとマコトさんの言い合いに、ハルちゃんが口を挟んだことで次第に声は大きく、荒く変わっていきました。お互いの嫌いな部分、気に入らなかったことまでに発展して繰り返される、聞いていられない内容の罵倒。


 私は耳を塞いでしまいたかった。


 そうして実際に耳を掌で塞いだけれど、音はどうしたって入ってくる。目を閉じても、何も変わりはしない。そうして塞いで瞑って、上げた腕で私はまた──ハルちゃんの手を離していることに気が付きました。


 だから塞いで、叫びたかった。


 あなたたちのせいじゃない。悪いのは全部私なんだ、だから、


「もうやめてっ!!」


 と。


 そんな慟哭と祈りが通じたのか、キーンと張り詰めたように耳の奥が鳴って、言い争う声も止まりました。聞こえるのは精々耳を塞いでいる、自分の掌を流れる血が巡る音だけ──私はそうして、瞑っていた瞼を開きました。


 開いて、しかしみんなが見ているのは私ではありませんでした。


 光です。


 みんなが見えていたのはお互いの姿で、見ていたのは廊下の先。スマートフォンのライト程度ではない光量が私達を包んでいたのです。辿り見上げると、あれだけ暗かった廊下の、その先に電気が一つ点いていました。まるで今から営業を始めますといった具合の明かり。それを目にしたリョータさんが立ち上がり、マコトさん、最後にハルちゃんも立ち上がった。立ち上がって、導かれるように明かりへと、それこそ取り憑かれたみたいに、歩き出したのです。


 しかし私の足は竦んだままでした。


 が見えていたから、立ち上がることも歩き出すことも出来なかったのです。


「だ、だめ……いっちゃ、だめっ……」


 辛うじて絞り出した声は、あまりに小さくか細く、震えていて誰一人の足も止められません──晴れた視界の中、がどこからか現れて電球の下に集まっているのに、突然明かりが点くなんて絶対おかしいと言いたいのに、そこへ向かってしまうみんなを、止めることが出来なかったのです。


「ハルちゃんっ……ハルちゃん、ハルちゃんっ」


 何度も何度も喉を枯らすような声が、しかしそれでも足は動きませんでした。


 私は竦んだ足を引き摺って床を這うように、縋る思いでハルちゃんの空いた腕へ、手を伸ばしました。空振りして、体が倒れて、顔を打ちました。そうしてまた、手を伸ばしました。


 手を伸ばして、ようやく触れた指先。掴んだ薬指はとても冷たかった。


「……柚子?」


 何をしているのとハルちゃんは首を傾げて、その瞳は何も映らない程に深く、沈んでいました。


「そっちはだめ……行かないでっ」


「どうして? 柚子もいこーよ。あっちは明るいよ?」


 虚な目をしたハルちゃんに、私は答える余裕もなく、ただ掴んだ指先を離すまいと、例えハルちゃんの指が折れたって構わず離さないように、強く握りました。


 視界の端では光へと向かうリョータさんの、その上半身が黒い靄に包まれていました。包まれた半分は、まるで雑巾でも絞るみたいに捻れて、次の瞬間にはもう、上と下とが完全に離れて、地面に転がっていました。マコトさんはそれらの一連を目にして絶叫し、すぐにでもこちらへ引き返そうとしていました。しかし、リョータさんだった上半身から離れた靄は、次に、マコトさんの足を捉えます。そうして上下が反転して、持ち上げられて、天井から宙吊りとなったマコトさんは、そのまま凄まじい速度で床へと叩き付けられていました。そうしてぐしゃり、水の入ったバケツをひっくり返したような音がした時、マコトさんの頭部は既に形を失ってしまっていました。


 こんなことが目の前で、一瞬で行われていて、私はより一層、ハルちゃんの指を離せなくなっていました。彼女を失いたくないという考えもあったんでしょうが、そもそも同じくらいの恐怖で動かすことなんて出来なかったんだと思います。


「ハルちゃん、お願いっ……早く逃げ」


 そして、再び視界が暗闇に包まれました。


 真っ暗で、本当に何も見えません。


 あー、次は私だったんだと。そう思いました。


「柚子? そこにいる?」


 そんな中聞こえたのは、今まで一番穏やかで、優しいハルちゃんの、ハルちゃんが私を呼ぶ声でした。声が聞こえてきていて、私はまだ指先を掴んでいましたから、どうやら死んではいないようです。


「うん。ここにいるよ」


 だから私も、同じように自分がいることを知らせました。


「柚子。大丈夫だよ……大丈夫だから」


 いつか、こんなことがあった気がする。ふと、そんなことを思いながら私は開いているかも分からない瞼を閉じました。さっきまであれだけ怖かったのに、あんなものを見てしまったのに、ハルちゃんが呼ぶ私の名前で、そんなものは吹き飛んでしまったようです。


「うん」


 最後に一緒だったのがハルちゃんで良かった。最後に聞こえた声がハルちゃんの声で良かった。最後に触れていたものが、ハルちゃんで良かった。最後にハルちゃんが友達で、私はこれで良かった。


 でも最後に、少しだけでも顔を見たいなあ。


 そう思って目を開きました。


「……あ、れ?」


 しかし目の前には誰もいませんでした。それどころか、視界には入ってきた時と変わらない様子の廃病院が映っていたのです。落書きまみれの壁も、割れたガラスも、散乱したゴミも──僅かに差し込む月明かりで全部が、見えていた。


 なんで、どうして、ハルちゃんは?


「だ、だって……私」


 こうして今も、薬指を掴んでいる筈なのに、なんでハルちゃんがそこに、目の前にいないのでしょうか。


 どうして、どうして、と。


 そうして私は、指先だけになったハルちゃんの姿を、どうしてどうしてと言いながら、ずっと探していました。ハルちゃんはどうしてか、指先だけを残して消えてしまいました。どうしてどこかに行ってしまったのでしょうか。そもそもどこに行ってしまったのでしょうか。私は確かにハルちゃんの指を絶対に離していません。それでも彼女は私の目の前にはいません。


 どうしていないのでしょう? 


「どうして……どうして……どうして?」

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