2話 少女と友達と大学生

 いつから見え始めたのか。


 きっかけはあやふやで、しかし始まった時期だけは分かっている。大抵は黒く不定形の靄形をしていて、触れようと思い手を伸ばすといつの間にか消えてしまう。感じるのは重苦しい雰囲気だけで、正体の見当すら付きません。最初は幽霊か何かかもと少しだけ思ってしまったけれど、生憎私は、オカルトをこれっぽっちだって信じていないのです。見えているくせに信じていないとは何事だと人は言うでしょうが、私はそれでも幽霊ではないのではないかと。


 そうつまりこれは、私の脳がおかしいんです。数年間あやふやに見えていた私が辿り着いた結論はこれでした。しかし病院に行こうとは考えていません。だって私はこんなにも正常な判断をしているというのに、『変なものが見えます』とお医者さんに言ったらたちまち、それこそ病院送りにされてしまいますからね──それにこの話は、それこそハルちゃんにだってしていません。


 だって私は普通に生きたい。


 普通の人間として、正常な活動をしていきたいのですから!!


 

「いやー、まさかギャルギャルの春ちゃんに、こんな清純派の友達がいたとはびっくりしたわ」


「それな! ねね、君は名前なんて言うんだっけ?」


「あ、青木ヶ原柚子、です……」


 だからこれもその一環。普通に生きていくという点では避けられない事だったのでしょうと、自分を納得させることで精一杯。


 見慣れた街並みはぐんぐん遠ざかって、薄暗い街灯が高速で過ぎ去って行きます。寒いので決して窓は開きませんが、近づいて来た山並みから、風を受ければそれはもう澄んだ空気が香ってくるだろうと思います。


 とそんな訳で、私はあれよあれよと言う間に、気が付くと名も知らぬ男性の車で揺られていました。


 車内で流れる、流行っていると思われる、うっせえうっせえ音楽を隣ではハルちゃんが意気揚々と口ずさんでいます。そしてそれに負けず劣らず大音量で会話する大学生のお二人。同じ車に乗って、同じ目的地を目指しているというのに、どうにも遥か彼方に置いて行かれているような、そんな状況。


 なので私は耐え切れず、縋るようにハルちゃんに小声で耳打ちします。


「は、ハルちゃん……」


「んー?」


「今からさ、その……どこ行くの?」


 まさかこれが噂の『お持ち帰り』ではないだろうなという、一縷の望みをかけた疑問。


「心スポ。なんか有名な廃病院に行くんだってさー」


 そうして返って来たのは、想定しうる中で最も最悪の言葉。


「リョータさん達なんかYOUTUBEやってるらしくて、動画撮影に付き合って欲しいって前から言われてたのよ。そんで画面に男ばっかだと映えないからって。晩飯も奢ってくれるって言うし」


 しかも全世界に届けられるという地獄。


「なんで私達にっ? 大学に女の人いないの?」


「いや知らんけど、ウチらがたまたま今日空いてたからっしょ」


「ハルちゃんはもうちょっと危機管理した方が良いっしょ」


 普段は頼りになるハルちゃんのコミュニケーション能力も、こんな時ばかりは少し頼りになり過ぎると、そう思ってしまうのは私が悪いのでしょうか。いや悪くない。


 重ねて言いますが、私はオカルトを信じていません。心霊写真も映像も、少しも信じていませんから。だけど信じていないからと言って──怖くないわけじゃない!! 行ったことはないけど、ああいう場所は暗いし、足の踏み場だって悪いし、ガラの悪い人が居るかもしれないし、普通に考えればすごく怖いと思ってしまうのはとても自然だと思います。それに何より知らない男の人と、そんな場所に行くのはもっと恐ろしい。何とかして上手く、帰る口実を考えなきゃ……このままだと何か大変なことになってしまう気がします!


 しかし、


「そろそろ着くよー」


 と、リョータさんと呼ばれている人が言いました。どうやらもう時既に遅しのようでした。


 視線を窓に向けるとそこにはもう山々以外見えなくて、舗装された道から外れた軽自動車は、え? こんなとこ本当に進めるの? と言わんばかりの木々の合間を突っ切り、舗装された道とは違う振動がタイヤを貫通してお尻に響き、全身に走ります。もう心霊スポットどうこうよりも警察に補導されるんじゃないかと心配してしまうような、土地の管理者に通報でもされるんじゃないかと言いたくなるような、そんな場所でした。


 それからエンジンの小刻みな振動と共に暖房が切られると、皆、手慣れた様子でたちまち外に出てしまいます。


 途端に心細くなって車から急いで飛び出すと、辺りはもう真っ暗で何も見えず、まるで自分一人だけが、世界から取り残されてしまったようでした。それから春の遠い、2月の気温が鼻先を掠めたかと思うと、今度は温まっていた筈の体を芯から凍らせるようで。


 思わず寒気から逃げるようにハルちゃんの元へ駆け寄ると、彼女もまた『うぅさぶっ』と、でもそんな感想を言ったのに、スマートフォンのライトで照らしてくれたのは、私の足元でした。それはまるで、ごろごろ転がる石や小枝の中に自分の足が浮き出て、暗闇にぽっかりと道が現れたみたいに。それからリョータさんともう一人の大学生であるマコトさんもまた、ライトを私の方へ向けてくれています。そうして自分達の周囲だけが異常に明るくなって、互いの顔が見えると、どうしてか皆さん私に微笑みかけていました。

 

 彼らは正面から。ハルちゃんは隣で私に肩を寄せるように。


「柚子、大丈夫?」


 最初は理由が分からなかったけど、ハルちゃんの一言で、どうやら私は怯えや警戒が顔に出過ぎているらしいと気が付きました。恐らく彼らは、そんな私を安心させようと笑っていたのだとも。


 寒さと不安で、顔面はきっとびっくりするくらい、蒼白になっていたんでしょうね。


「……うん。大丈夫だよ」


 この時、私はハルちゃんにも彼らにも申し訳ない、こうした気遣いがすぐにでも出来る人達だから優しいだろうと、単純過ぎて純粋過ぎるかもしれませんがそう思いました。後ろめたさと反省で、少しだけ肩の力も、抜けたように感じられました。


 しかしやっぱり、それとこれとは話が別ですけどね!! 


 心霊スポット怖い!!


 暗い森の、更に底の見えぬ先に目をやると、一層身が震えました。が、ハルちゃんの、何も言わずに差し出された手を握ると体温を感じて、私はもう何も言うことが出来なくなってしまいます。


 リョータさんとマコトさんが先導して、私とハルちゃんは後ろを。


 時折聞こえる動物の鳴き声や、冷たい風で木々が擦れ、揺れる風景。


 自然が生きている音で、体が無意識に強張ってしまうけど、ハルちゃんの手は、強めに握ると同じ力で返してくれて、私達はお互いの顔を見合わせては、訳もなく笑っていました。そうして歩いていると、いつの間にか私が感じていたものは消えていって、皆も環境に慣れてきたのでしょう。身の上話や、好きなお笑い芸人さん、音楽、映画の話で盛り上がっていて、そのうち楽しいとすら思っている自分がいたんです。


 まるでこれから楽しいキャンプ、バーベキューでもするみたいに会話する中、


「……う、わー」


 と、誰が呟いたのかそれを皮切りに、次第に皆、口を閉ざします。私も足を止めました。前方を照らしていたリョータさんのライトが目的の建物、その一部を捉えて、続いてマコトさんも。


 それはまるで、枯れ果てた木々の合間に、突然出現したようでした。想像していたよりもずっと小さく、思っていたよりもすぐ目の前に。2階建ての、真っ黒い箱にも見える建物。等間隔に設置された窓にライトが反射して、こちらが照らされているようでした。聞けば昔は病院だったと、しかしサイズ的には診療所みたい。


 植物は間引かれたみたいにそこだけ妙に土地が空いていて、しかし辺りには多種多様なゴミが散乱しています。


「雰囲気えぐッ!」


 マコトさんは沈んだ空気を嫌ったのでしょうか、調子の良い声を上げます。


「それな!!」


 リョータさんも、私に気を遣ってか同じように。


「……」


 しかしハルちゃんは何も言いません。


「ハルちゃん?」


「っ、なに? どーしたん?」


 私が呼ぶと、彼女は少し握る力を強めました。


「……ううん。何でもないよ。怖いから絶対手を離さないでって、言おうとしたんだ」


「もち。柚子こそどーしても無理ってなったら言いなよ?」


 どーやらハルちゃんも、私と気持ちは同じようです。少しだけ湿った掌も、冷えた体温も。先導する二人の異常に上げているテンションにも苦笑いしながら、私達は歩き出しました。


 



 絶対に離さないで。


 この言葉を私は何度か達成する事が出来ませんでしたが、それでも最後の時には、私はこの言葉を守り続けて、文字通り絶対に離していません──彼女が切り離されてしまっても、私はずっと、離さなかったんだ。

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