開業準備期間
1話 少女と友達
私は、彼女の指先を掴んだまま、その鮮やかな切り口を眺めたまま、ずっとその先を探していました。そうして探して、目の前にアレが現れて、ようやく彼女がいなくなったことに気が付いたのです。
アレが、彼女を奪ったのだとも。
そうして私は、最後に彼女と過ごした穏やかな時間を思い返しながら、ゆっくりと歩いて来る怪物を、見ていました。
そう、店内に流れていたのは、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな音色です。会話を邪魔しない音量に設定された、これはジャズ、でしょうか? 私には良くわかりませんが、多分そんな感じの音楽だったと思います。暖色の電球に照らされた、高級感のある白のソファー、木目調のテーブル、絵、雰囲気、空気。どれを取っても私には場違いだと思えてしまうような、そんな喫茶店に、
私──
一杯470円の苦いコーヒーに砂糖をどばどば入れながら、ふわふわのクリームと刻んだイチゴ、散りばめられたブルーベリーが乗っていてとても美味しかったけれど、しかし1600円もするパンケーキを丁度食べ終えたところで……いや別にこれは文句とかじゃなくこんがり焼き上がった生地の上の粉砂糖とクリームの甘さそして果物の酸味が絶妙にマッチしていてとても良かったというわけで、でも値段はちょっと、と思っただけなんです。
凄い美味しかったのは本当なんですよ、ええそうですとも!!
それに、
「ねー、ねえってば柚子ー、聞いてるぅ?」
と、脳内で一人言い訳をしていると、どうやら彼女はSNSに上げる用の写真加工を終えていたようで、私はずっと話しかけられていたみたい。また、やってしまいました。
「あ、ご、ごめん。ちょっと考え事してて……」
「んー? もしかしてなんか悩みでもあるん? ウチが全部聞いたげるよ、話してみ?」
そう言って微笑みかけてくれてスマートフォンをテーブルに置く姿は、こんなにもおしゃれな喫茶店で、まるで雑誌の1ページから3次元に飛び出してきたみたい。
私のたった一人の友達でありクラスメイトの、
梳いた前髪はパッツリ横一列に綺麗で、まんまるの大きな瞳はキラキラ輝いています。太眉と赤い唇は今年の流行だそうで、首元まで伸びた毛先がくるっと。でも、『カラーコンタクトは怖いから』と付けられないと言っていました。いつも近くにいるだけで良い匂いと温かみを与えてくれて、色々な事を教えてくれて、私の背中を押してくれる。そんなハルちゃんは、私にとって唯一であり、自慢の友達なんです。
でも、そんなハルちゃんとの楽しい高校生活も、もうすぐ終わってしまうんです。
「ううん。悩みなんてないよ」
終わってしまうのはとても残念で、だけど少しだけホッとしていました。ハルちゃんにも誰にも言えないんですけどね。
「ホントに? 柚子ってばすぐ一人で抱え込むからなー」
「ホントに!」
私の懸命な弁明に『心配なんだよウチは』と、薄く息を吐いたハルちゃんはどうやら、幸か不幸か彼女もまた、嬉しいやら悲しいやら、私と同じ杞憂を抱えているようでした。それから今までは何となく避けていた話題を切り出すように、ハルちゃんは浮かない顔で続けます。そして、そんな顔をちゃんとしてくれるからこそ、私はハルちゃんが大好きでした。
「来月からもうウチらは別々の大学なんだよ。柚子」
こういう、真剣な表情が出来るところも全部。
「うん……分かってる」
そう、今この時間は二度と取り戻すことの出来ない、高校最後の時間なのです。
ハルちゃんは県外の看護系へ、私は県内の大学へ進学する。どうにかこうにかして同じ学校か近場に行けないかと何度も考えたけど、学力的にも金銭的にも、他にも様々なしがらみが生きているだけで私達を縛り、決して同じ道を進ませてもらうことは叶いません。進級してクラスが分かれた時、委員会が分かれた時、選択授業が分かれた時、進路が分かれた時。幾つもの分岐を経ましたが、今回の別れを、私は耐えられるでしょうか。
笑って、卒業出来るでしょうか。
そんな私のうじうじを吹き飛ばすように、ハルちゃんは声を大にして、
「いーや、アンタは分かってない!!」
と。
「ええー!?」
「というわけで今からウチの知り合い呼んでも良いよね?」
「ええー!?」
「バイト先で知り合った現役の大学生のイケメン2人組なんだけど、優しいし面白いからー、柚子に紹介しようと思ってストックしといたんだよねー」
ハルちゃんは畳みかけるように、寝耳に水な発言を続けています。
「しょ、紹介って……そういう?」
「だってアンタ彼氏の一人も出来たことないっしょ? 可愛い顔してんだから絶対いけるって!」
「無理だよ……何が無理って、年上とかちょっと怖いし」
「いけるいける!! 何がいけるってほら柚子意外とスタイル良いし、ちょっと距離詰めれば余裕っしょ!」
そんな彼女のどこから溢れる自信満々な表情に、僅かな翳りを発見。
ちょっと探ります。
「ハルちゃん、もしかして、言い寄られて困ってるから面倒を分割しようとしてない?」
私が言うと明らかに見て取れる動揺。今ハルちゃんの脈に触れたなら、きっと心拍数がぐんぐん急上昇してると思います。
「柚子って経験ゼロのくせにどーしてこんな時だけ鋭いんでしょ?」
それでも誤魔化すように『あははー』と、軽く微笑むから私は結局いつも許してしまうんですから、ずるいよな。
しかし、それとこれとは話が別です!!
「とにかく、ごめん。私には……やっぱり無理だよ」
「そっか」
自然と途切れた会話。夕闇が濃くなって、混雑を始めた店内。そんな雰囲気を感じてそろそろ出よう、と思ったのでしょう。私達は何か言葉を交わすでもなく席を立ち上がると、丁寧に金額を半分こにして店を後にしました。
私にしてみれば、これはとてもありがたい事でした。
割り勘の話、ではありません。
店内に漂う夥しい量の、黒く、ぼやっとした何かのせい。視界の端から始まってやがて私の世界を覆い尽くした、見えてはいけないもの。いつからか見え始めたそれらが、店内に蔓延っていたからです。
気が付かないふりをするのは凄く大変な、それでいて何がどうということはない、何か。
店を出れば外に広がっていたのは、何もないただの現実。振り返ってもそこには何もありません。居なくなったのか、はたまた見えなくなっただけなのか。それはいつだって分かりませんが、こうして私はいつも見えなくなって、酷く安心し──そしてちょっとだけ、寂しく思うのです。
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