第22話 美香楼(びかろう)の主人

樫山家で、大奥様と旦那様の仲が突然非常に睦まじく

なったことは、召使いたちの間でも評判になりました。

さらには町中で、

あの女好きの

樫山家の旦那様が、今更に正妻を可愛がるとは意外だ。

や、他の夫人たちが懐妊しないので再び正妻に挑戦か。や、

いまに

正妻が子をなすだろう、そうしたら第二夫人たちは追い出されるだろうとまで

噂になっていきました。


わたしは周りから色々聞かれましたので、大奥様贔屓をうんと

発揮して言いました。

「そりゃあやはり

大奥様の女人としての魅力が、美しい箏曲とあいまって、

旦那様のお心をとらえたのですよ!」

もちろん

自分の手柄の部分も強調しておくことを忘れずに。

坂上先生がホクホク顔で、「町中で樫山家のことが噂になってるわ!

大奥様が

箏を嗜まれているが、

どこの師匠に習っているのかと。そして箏を習うと夫婦仲円満になると。

それで

樫山にならってうちもうちもと名家の奥様方が

ここへ先生を求めて駆け込んで来てるのよ」

「まったく

珠里様様だね。これからも頼んだわよ!

さあ、

大原家には篠田さんにいってもらうことにして、新井元子爵のところには上川さんでどうかしらね!」

なんだか、

坂上先生が楽器よりも算盤を弾く時間の方が長くなるのでは?

という

不安もありましたが、

我が楽団が忙しくなり、さらにあちこちのお宅で

楽器を教えることができるようになるのは、喜ばしいことでした。


とにかくこのように、人々は樫山家の様子に関心を寄せていました。

夫婦仲円満に

箏曲もしくは楽器を習う。

樫山家らしい上流階級趣味をもった噂に、町の皆が

飛びつくように真似をしたがりました。


この頃の樫山の家では、

旦那様がゆったりと椅子にくつろぎ、その傍で大奥様が

わたしと箏の練習をする。

これが毎回の決まりごとのように繰り返され、

終わるとおふたりで食事をされ、お部屋へ行かれる。

寂しいような気もしましたが、大奥様が幸せならば

それでいいと自分も満足していました。


そんなある日のことです。

突然、部屋の外で騒ぎ声が聞こえ、旦那様が立ち上がりました。

大奥様も手を止めて外を見ています。

「何事だ」

バタバタと

駈けてくる足音がして、お容が

「旦那様、あのう、美佳楼の淵が来たと伝えてくれと。

会える

まで帰らないと言っております」

「なに、美佳楼の淵だと」

と驚く

旦那様の声に被さるように、大きな下品なダミ声がして

「旦那様ぁー!樫山家の旦那様ぁー!美佳楼の淵です!

まさかお忘れじゃないですよね」

ドタドタと太った中年の男がやって来ました。


「あっちの部屋へいれておけ。すぐ行く」

旦那様は

薄い着物を来客用に着替えに奥へ行き、

大奥様は箏に絹織物のかけ布をして、お容とともに

出て行きました。

わたしは

とりあえずそのままそこへ留まりましたが、とにかく

騒ぎが大声なのでみんな筒抜けでした。


なので、少し見に行ってみることにしました。

他の召使いたちもわいわいと集まってきていました。

「淵、なにごとだ。ここまでやって来るとは」

身支度を整えた旦那様が叱り付けるようにいうと、

「旦那様、美香を水揚げして第四夫人に迎えるってえ約束は、

いったいどうなっちまったんです。

美香は

旦那様恋しさに毎日泣き暮らして、わしはその相手するのがもう大変なんでさ。

美香が

うちの一番人気の芸妓なのはわかってらっしゃるでしょう。

それが旦那様の水揚げが

決まって客がとれねえ。代わりの新しい芸妓を入れるにゃ金がいる。

わしは

全くクビが回らねえ。いったいどうしたってんです」

メソメソと

泣き言を並べながらも淵は、今日こそとるものは

とると意気込んできているのがわかりました。ずる賢い目で旦那様の様子を伺っていました。

そして、淵の太った身体の後ろから、いきなり

ふわっと小さなものが飛び出してきて旦那様に飛びつきました。


「旦那様あ!美香のことをどうして迎えにきてくれなかったのー」

「美香、、お前まで来たのか」


これが美佳楼の美香…

小さくて可愛らしい、まだ子どものような娘で、

甘い声を出しながらもどんどん旦那様を追い詰めていくのは

さすが一番芸妓。

大きく澄んだ目でじっと旦那様を捉えて離しません。

「だって、

美香心配だったんです…旦那様が美香のこときらいになったのかって。

とても

悲しくて、泣いてしまったのよ」

美香はそう言って旦那様にしがみつくと、クスンクスンと泣き出しました。


どうすれば自分が頼りなく可愛いく見えるかよくわかっている仕草でした。

「淵、わかった。とにかく、美香をあちらへ連れていけ」

数人の召使いたちが、美香を別室へと連れていこうとすると

「いやー、旦那様ぁー、美香を見捨てないでぇー」

収拾がつかず、

結局この三人に大奥様を加えて話を進めることになりました。

旦那様は、ちらと大奥様を見ると

「美香を水揚げする約束をしたのは、春になる前だった。

詳しいことはあとで話す」

少し気まずそうにそうつぶやきました。


「それでだ、淵。美香、」

美佳楼のふたりの方を向くと

「水揚げはする。徳井、来輔に金を用意するように伝えろ」

ええっ、

じゃあ第四夫人にするんですか?

大奥様はどうなるのです?

わたしは心配で心配で、大奥様の様子を見たかったの

ですが、人々が周りに集まって残念ながら顔を

みることすら出来ませんでした。

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