第14話 旦那様帰る

木のそばに立っていた人は、やはり樫山家の旦那様でした。

わたしは

少しどきどきして大奥様の様子を伺いました。

けれど大奥様の座る位置は、旦那様に完全に背を向けていますので、

何も気づくことなくお稽古に没頭しているのです。

そもそも大奥様の練習をそっと物陰から聴くような

失礼をはたらく者は、旦那様以外この屋敷にはおりますまい。


離れた場所からでも、旦那様の美男子であることは

わかりました。が、のちに近くでお顔を見て、

その肌のきめのこまかさ、色気のある眼差し、よく手入れされた綺麗な手などの

女性のような美しさと、りりしい眉やがっしり

した顎などの男らしい部分が、見事に調和して、旦那様の魅力を強めているのがわかったのでした。

ただただ

なよなよとした、女人のような美しさではないのです。

男性的な色気も強く発散しているのです。

器量良しの

召使いたちが、あわよくば旦那様のお手つきになりたいと思っているのも納得でした。


旦那様は木にもたれかかり、目を瞑り口元に笑みを

浮かべながら大奥様の箏を聴いていました。

時々

頭をあげて、いたずらっぽい目をこちらに向けてニヤニヤしたり。

どうやら

わたしが、誰かいると気づいているのは承知のようでした。

「珠里、この譜面が風でめくれないように押さえておくれ」

大奥様は、風が出てきてハタハタとひらめく譜面に

少しイライラしていました。

わたしは

すぐに譜面に手を添えて、旦那様を無視することに決めました。


ずっと大奥様をほったからしにしていた旦那様。

あんな嫌な感じの第二、第三夫人を連れてきて、

さらに大奥様を辛くさせている旦那様。いまも隠れてこっそり

練習を見ている嫌な旦那様。一言こちらに声を

掛けてもいいではないですか。

大奥様びいきのわたしは、生意気にもそんなことを考えていました。

全く、知らないということはある意味無敵ですよ。


「珠里、気が散っているなら、もうこれから外でのお稽古は止めましょう」

譜面を

追うのに夢中のはずと思っていた大奥様が、

ソワソワ

しているわたしに釘を刺してきました。

慌てて

「申し訳ありません」と、お稽古に気を戻しました。

それからしばらくすると、もう旦那様はさっきの

場所からいなくなっていました。

「良い

お天気で庭の花も色とりどりに咲いている中のお稽古、気は散るでしょうが、

しっかり身を入れなさい」

お稽古の最後にも注意されました。

旦那様のせいです。


お稽古を終わるまで待っていた召使いのおせいが、「大奥様、旦那様がおかえりです」と伝えました。

やはり、きっとあの方が旦那様なのでしょう。

そして絶対に喜んでいるはずと見た大奥様は、

急に能面のような硬いお顔になっていました。

ふだんからの冷たい美しさが増して人形のようで、

怖いとおもいました。

どうしたのだろう、大奥様。


「大広間に照美さんと安恵さんを」

おせいも気のせいか、いつもより大奥様にオドオドしているようでした。

大奥様に?

旦那様にではないのでしょうか?

きっとそうです。


「珠里、お前も来なさい。

旦那様にご挨拶をするのです」


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