第11話 憧れ

そして、樫山家での隔日のお稽古が始まりました。

大奥様の

ほっそりとした真っ白な手をとり、まず箏の部位の名前を覚えること、

扱い方、琴爪の付け方、すべて基本のきの字からです。


大奥様は楽器を触るのは初めてとのことで、初め

少し戸惑い気味な様子でした。

けれど、飲み込みがはやく

筋もとても良く根気もあるので

楽器の演奏にとても向いていると感じました。

大奥様も、初めての楽器演奏が楽しくて仕方ないようで、

あっという間に音階の練習に入るまでになりました。

こんなに覚えの速い方はなかなかおりませんよとお話しすると、お世辞でしょうと仰る大奥様。

素知らぬ顔をして

箏に向かいつつ、満更でも無い様子で、わたしも嬉しくなったものです。

大奥様の

お稽古の上達ぶりに伴い、わたしの緊張もほぐれてきました。

恥ずかしながら、わたしが中途半端に習い憶えた立ち居振る舞いには、まだまだ注意を受けましたが、

大奥様が日ごとにわたしに心を開いてきているような

気がして、まさかわたしなどとと打ち消す気持ちと

嬉しくて胸の震えるような気持ちが

わたしの中でせめぎあいました。

こんな

美しく聡明な大奥様が、箏曲のお稽古相手として、わたしに白羽の矢を立ててくれただけで十分なのに

それ以上を望むなど……

わたしは崇拝のようなあこがれを大奥様に抱くまでになっていたのです。



ある日

「おまえは演奏のときは人が変わったように情熱的だけれど、

普段は素直でおとなしい娘なのだね。

芸事を得意とする者は、

そういう性質の者が多いようね」

と大奥様がいいました。

「誰か親しい方ですか?」わたしが尋ねると、

「そう、私の従兄弟です。とても素晴らしい

書を書くの。

子どもの頃からおとなしくて、意地悪などしたことのない子。

いつも私たち女の子のあとについてくるばかりの

優しい男の子でした。

でも、いまはお弟子さんをたくさん持つ、立派な書家です。

普段が物腰柔らかなので、人柄に惹かれてきたお弟子さんたちは、

いざ教室の従兄弟を見ると仰天します。

ふふ、

とても厳しいらしいの。

おまえを見ていると、その従兄弟を思い出します」

大奥様は懐かしそうな、遠くを見る目になりました。


その日以来、

わたしたちはなんとなくうちとけ、

少しずつお互いの、いろいろな話をするようになりました。

わたしの生まれや

育ちからはじまって、箏曲のお稽古のこと

石橋先生のこと。


大奥様も、

珠里にばかり聞いたらいけないわね、と幼少の頃のお話、ごきょうだいのことを

少しずつ、お話をしてくれました。


真壁家で長女にうまれたこと。

弟と妹がいること、とてもきょうだい仲がよいこと。

「妹と私はよく似ているの。

だから子どもの頃、家にお客様がくるとよくイタズラをしていたわ。

たいてい私が赤い着物。妹が黄色い着物と決まっていたんだけれど、

着物をとりかえっこするの。

お客様をからかって遊んでいたのよ。

弟も

一緒になって、楽しんでいたわね。

妹とは今もよく会って、町でお茶を飲んだり買い物をしたりしているわ。

弟は都の方で

伯父の仕事を手伝って働いているの」


たいていは箏のお手入れ時に、ぽつりぽつりと大奥様は

問わず語りに話をしてくれました。


「母が身体を悪くしたのが、まだ弟が生まれて間もなくだった。

私はいつの間にか母代わりをしていた。

弟妹が望むから。

もちろん、ねえやもいたけれど、

私たちはあまりそのねえやが好きではなかったの。

父は仕事で忙しくてあまり家にいなかった。

だからたまに家にいるときと、

祖母が来てくれた時は、

存分に甘えさせてくれた。

寂しい子ども時代のように聞こえるかもしれないけれど、

私は弟妹が可愛かったから

それほど苦ではなかったのよ」


大奥様は、樫山の家に嫁ぐ前を懐かしんでいました。

わたしはこの家で大奥様がどんな思いを抱えて暮らしているのだろう、と

きめのこまかい肌のつるりと光る白い横顔を見つめました。


大奥様とこんなに

お話ができるようになるとは自分でも意外でした。

きっと

大奥様もそう思っていたでしょう。


お稽古の半ばにお茶を頂くとき、晩御飯をご相伴に

あずかるときも、大奥様はわたしをそばに置くようになりました。

このように

特別扱いを受けていても、わたしが樫山家の使用人とは別である

ことから、召使い頭のお容をはじめとする人々は、皆親切にしてくれました。


ただ、三月ほどたち、これほど通っているのにも

かかわらず、まだ樫山家の旦那様に会ったことはありませんでした。

私が樫山家で

働いていると知ると周りの人は皆、

「樫山の旦那様に会えるなんて羨ましい」

とか

「旦那様って本当に、そんなに役者みたいに美しいの?」などと聞いてきました。

でも

本当のところ、その噂の

「男性でありながら非常に美しい」と評判の旦那様は、

全くお屋敷のほうへ寄り付かないのでした。


奥様が三人もおられるのに。

どの方も皆美しいのに。

小娘のわたしには到底、このお屋敷に

どのようなことが起きているのか想像がつきませんでした。


いつものようにお稽古に伺ったその日。

とても

天気が良くお庭の花も赤、白、紫、黄色、と満開でした。

見晴らしの

よいところに敷物を引き、箏の練習をしていると、

淡い色の着物をふわりと羽織った背の高い男性の姿が

木陰の下に見えました。

わたしの方からは

それがよくみえましたが、大奥様はちょうど背を向けるかっこうで座っていたので

気づきませんでした。

男性は、

根気よく何度も繰り返し同じ曲の練習をされる大奥様の背を、じっと飽きることなく見つめていました。

わたしはふと、

もしかして、あの方が旦那様では?

と思いました。

そう考えると急に胸がドキドキしてきました。

とうとう、樫山家の旦那様に会える日が来た。

わたしも

まだ若い娘でしたので、そりゃあドキドキしたんですよ、旦那様に。


遠目に見ても、高い背にスラリとした体躯。

淡い色の

羽織っている淡い色の薄物が、風にヒラヒラはためいて

なんとも洒落ていて、遊び上手な様子がうかがえました。

顔まではさすがにわかりませんが、

あんなに

熱心に大奥様を見ているのです。

旦那様でしょう、きっと。


練習が終わったらこちらへ来て、

「上手だったよ」

とか「練習熱心だな」とか

大奥様に声をかけてくださるのかな。

そしてわたしにも、なにか言ってくださるかな。

わたしは小さな胸をときめかせながら、お稽古が

早く終わらないかしらと

珍しくそんな気持ちをいだいていました。







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