第10話 涙


今日からはわたしが、一人でやっていくのです。

そう思うと、心が引き締まります。

お容に樫山家の広い屋敷を案内してもらい、

細かな決まりごとを

教えてもらうために

昨日に引き続き今日も、屋敷に訪問することになったのでした。

はっ!と自分に気合いをいれて、寝台から起き、

ぱっぱっと身支度を整え、

鏡に向かい髪を結いました。

そこにはやや睡眠不足の青い顔が映っていました。

緊張で頬が強ばるのを指で丁寧にほぐし、

にこっと笑ってみました。

残念ながら、わたしの顔には

殿方を惹き付けるような眩しい美貌も

可愛らしい愛嬌もありません。

でも、丸い柔らかい優しい顔だね、

とよく言われるところは

気に入っていました。

「頑張ろう」

わたしはつぶやき、

養父母の待つ食卓へ向かいました。


約束の時間まで何となく箏を爪弾き、

くるくると部屋の中を

歩き回り、

お手洗いに何度も行き、

落ち着かない気持ちが最高潮に達したとき、

やっとお迎えがきました。


わたしは自分の箏を持っていきたかったのですが、

なにしろ大きくてかさばります。

丁寧に扱うのに人手もいります。

それで箏を運ぶことは次回となり、

わたしだけがクルマに乗りました。


「行ってらっしゃい」

と見送る養父母に、

わたしは笑って手を振りましたが、

きっとその顔は引きつっていたことでしょう。

心臓がドキドキして口から飛び出しそうでした。

大奥様ときちんとお話できるだろうか。

ちゃんと教えることはできるだろうか、

「私のメガネ違いだったわ。

もう来なくていいわよ」

と言われたらどうしよう。

そんな情景や言葉が頭に渦巻くのを、

無理やり止めたところで

樫山家の大きな門が見えてきました。


お容が出てきて、

「珠里、毎日のように大変だけど

先に覚えた方が楽だからね」

と笑顔で迎えてくれました。


そして、昨日の夕方、楽器店から立派な箏が届いて

大奥様の居間へ運ばれたと聞きました。

新しい立派な箏が見られるのはいつだって嬉しいことです。

楽器店にある

美しい装飾の施された箏を見ていると、これで様々な曲を

弾くところを想像してついうっとりしてしまいます。

わたしはできるだけ緊張しがちな自分を楽しいことで励ましていました。


わたしはお容の後ろにつき、

案内を聞きながら樫山家の屋敷の大きさに

驚きを隠せませんでした。


「これからは、屋敷に来たらこの入り口から入って。

裏門だよ。

そして、ずっと右手を見ながら進む。

ここが大広間。

ここから真っ直ぐ奥へ。

そしてずっとずっと歩く。すると、花瓶にいつも赤い花があるこの廊下へでる。

ここの部屋が

大奥様が箏のお稽古をする、大奥様専用の居間だよ。

赤い花があるのは大奥様の好みで、

ここが大奥様の

お部屋の前という目印なんだよ」

なるほど、とわたしはおもいました。

こんなに広くて

あちこちに部屋があるから

どこがどこやら、です。

でも赤い花が廊下にあるお部屋。

これで覚えられそうです。

お容は歩きながら、

様々なことを

わたしに説明していきました。


一息ついたところで、

「じゃあ、お手洗いを案内するよ」

とまたぐるぐる歩き回りました。

「回廊の外に

庭が見えるから、今は

その景色を覚えるのもいいかもね」

とお容がいうので、

外を見てみるとまた広い立派な庭園が広がっていました。

「ほらここを見て。この木には小鳥が巣を作っているだろう、

これがお手洗いの目印になるね」

こうしてとても分かりやすく

わたしに屋敷の中を説明してくれました。


と、突然しんみりした調子で

「珠里、大奥様はね、

難しい方だよ。

でもね、優しさがないわけじゃない。

それを表にだすのがとてもとても苦手なんだよ

それで苦しんでいるんだ。

あんたが来て、

大奥様の苦しんいるのが少しでも

楽になるといいんだけどね」

お容突然がそういって、ふっとため息をついたときはビックリしました。

「ああ、なんでもないよ。

気にしないで」

苦笑いをしてわたしを見ました。

そう、まるで、

こんな小娘に話しても

きっとどうしようもないのに

ついぽろりと

誰かに聞いてほしいことが口から出てしまった感じでした。


いろいろあるのだろうな。

小さい時にすごした、尼寺のことが頭を過ぎりました。

人がたくさんいればいろいろある。

お金がたくさんあればいろいろある。

庵主様がいっていたことです。


一通り、裏門から大奥様の部屋、お手洗い、庭園と案内され、また大奥様の居間へと戻りました。

お容が、

「大奥様、珠里です」

と告げてわたしたちはなかに入りました。


「こんにちは、珠里」

趣味のいい小物がいくつか飾られた、広々と解放的なお部屋に、

大奥様は静かに座っていました。

これが大奥様のお好みなのだ、と居心地のよい空間に好もしさを感じました。

そして、

新しい箏が絹の覆いをかけられて、部屋の真ん中に主を待っていました。


「よく来てくれました」

白地に

臙脂色の花を散らした着物の大奥様が、

わたしに柔らかな目線を投げかけました。

今日も

黒い長い髪をまとめて金の飾りを付けた、抑え目なお化粧と装い

でしたが、その目の強い力が大奥様をより美しくみせるのです。

わたしが

ご挨拶をすると、大奥様は、私の着物を見て、

「今日の装い、おまえによく似合っています

ね」

といってくれたのでほっとしました。

「お容からいろいろ、

この樫山の家のことを仕込まれるのは大変と思うけれど、

ここでは沢山の者たちが働いていて、外からも沢山の人が来ます。

できるだけ面倒ごとを起こさないために、今日教えられたことは、覚えて欲しいと思います」

「はい。わかりました、大奥様」

わたしが返事すると

「それから、珠里…」と口篭る大奥様。

どうしたのだろう?と思っていると、

「せっかく来てくれたのだから、

よかったら一曲、

私のために弾いてもらえるかしら?」

と大奥様が

控えめに切り出すのを聞いて

仰天する気持ちでした。

「お、大奥様、わたしなどで良ければ、何曲でも。とても光栄です!」

わたしは震えるような喜びに

また胸をドキドキさせて、

召使いたちが運んできてくれた

箏に向かいました。

「ああ、どうかよろしくお願いします」

小声で初めての箏に囁くと、

琴柱の調整をし、

それから琴爪をはめて、

深呼吸しました。


「宴で披露した曲ではありませんが、わたしの好きな曲です」

そう言って、わたしは

箏を奏で始めました。

勇壮な曲。今日はこういう調べが

大奥様に似合う。

わたしの箏の音が、居間中に、屋敷中に、そして大奥様の中に

深く深く広がっていきました。

この小さな身体のどこに、

そんな力が

隠されているのかと言われた

わたしの琴爪さばきに

うっとりと見とれているお容を横目に、

一転して

安らかで、穏やかな戦士の休息を想起させる曲調へ。

わたしの胸のなかの思いをすべて

この箏にたたきつけていきました。

大奥様は目を閉じて、じっと

聴き入っていました。

そして、

その目のふちから

ポロポロと涙の光のたまがこぼれるのを

見ながらわたしは

決して手を止めることなく

決して手をゆるめることなく、

最後まで全力で曲を弾ききったのでした。




















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