第9話 大奥様の独白



勢いにまかせて、あの娘をうちへ連れてきてしまった。

永井珠里。

おもったよりもずっと、作法のなっていない娘だった。

本当にあの永井家の者だろうかと聞いてみたら、やはり養女とのこと。

器楽の才を見込んで、

あの有名な石橋先生について修行をしたのはいいけれど、

おそらく礼儀作法などは疎かにしてしまっていたのだろう。

部屋での挨拶以外は、上流階級では通用しない。

それにしても、あああからさまにキョロキョロされては、

怒るより笑ってしまいそうになる。

まだ18になったばかりといっていた…

ただ、呼んだ責任もあるし、あの娘の性根は素直で良いようだから、

うちでしっかり見てやっても良いとおもっている。

早くあの娘の、箏曲が聴きたい。


宴の日。初めてあの娘の演奏を聴いた日。

私は青木知事のところになど行きたくもなかった。

旦那様と一緒に

地位のある方の宴会や会合に出かけるのは、樫山家の正妻

としての務めだけれど、

第二夫人照美も第三夫人安恵も

そもそも今の珠里

と同じくらい、きちんとした場に出すことの出来ない、出来損ないだ。

旦那様だってそれは分かっているはず。


照美。

あの肌の荒れたがさつな女。あれは一度結婚して夫が早くに亡くなった。

少し財産があったものだから、遊んでいたところを旦那様に気に入られた。

旦那様はご自分では、

遊び上手なおつもりかもしれないが

こちらからすればお笑い草だ。照美のことも初めはさばけた女と

おもわれたのだろう、後腐れなく遊ぶ女を見つけたと。

樫山家の旦那様の遊び相手で満足するような女がこの街にいるなどとは

旦那様は甘すぎる。

おもったとおり、第二夫人の座を要求してきた。腸が煮えくり返るのを我慢して、離れを用意した。

私たちが結婚して1年半後のことだ。


それからたった半年で、芸妓の安恵を連れてきた。

水揚げしたのだ。

頭の中身は空っぽで、男を悦ばせることだけが能のあの女。

旦那様は夏花楼で一番の名妓と喜んでいた。どれだけの男の相手をしたかわからない者が喜ばしいとは。

私に言わせれば、汚らわしいの一言に尽きる。

いつ見ても無駄に色気を発散させている、夜のためにだけ生きているような女。

化粧が濃く

似合ってもいない飾りをごてごてと身につけて、樫山家の名前に泥をぬりたくる恥ずかしい女。

到底樫山の人間として認められぬ者たちに囲まれ、旦那様とは上手く話せず、

町の噂や召使いたちの白い目に

日々苛立ち、

苦しみに喘いでいた私を、

あの日のあの無名の音楽家の娘が、箏ひとつで魔法のように

消し去ってしまったのは、今でも不思議でたまらない。

理屈ではない、言葉でも説明できない。

ただ、

あの娘の見た目と全く違う荒々しい演奏と、醸し出すなにか独特な雰囲気、

空気のようなものに、私は浄化されたような気持ちになった。

自分でも信じられないことに人前もはばからず、泣いてしまった。

普段なら恥ずかしくて立ち去るところを、それができなかった。

これが芸の力?

まだあの若い娘の技量では、その域に達しているとは言い難いのに。


旦那様も驚いていた。

私があのように、感情を顕にしたのをみたのは…おそらく初めてだろうから。

私の肩を抱いたり、落ち着きなさい、と言ったりしていたのを憶えている。

旦那様の着物から、柔らかい甘い香りがしたのも憶えている。


そうして、言ったのだ。

まるで他の妻に

欲しいものを買ってあげよう。と言うように

優しく、

「そんなに感動したのなら、あの娘をうちに連れてきて、

箏曲を習うのはどうだろう」と。


私は旦那様を見て、旦那様は

少し困ったような顔をして、私を見返した。

どうしていいかわからないながら、私を泣き止ませようとしてくれたのだ。

あの時、

私たちは結婚して以来初めて

夫婦らしい会話をしたのではないかと思う。

お互いに戸惑いあっていたことは置いておいても。



あの一言で、私のなかに居座っていた大きな硬くて黒くて、

醜くておぞましいものが、

ふわりと風に吹き流されるように

消えていくのを感じた。



珠里、私はおまえに期待しすぎているかもしれません。

けれどおまえにはなにかがあるのです。

おまえの箏には。

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