短編集

むし

夏と宇宙人

八月三十一日が怖かった。

ヒグラシが泣いて夏が閉じる。なのに炎天下が終わらない。蝉騒に惑って、落ちる先はここじゃない。

宿題ならやった。算数と、理科は嫌いで。結局プリントを失くして出来なかった。

オレが狂ってると思ってた。世界じゃない。オレと、夏が。狂わせたのはどいつだと、解答欄が空っぽのまま浮かんでいる。

帰ろう、と脳裏に響く声がある。陽炎が揺れて、アブラゼミの死骸が転がっているのをぼんやりと見ていた。手を差しのべて、笑う。わらう。嗤う、夏。

『お前が望んだんだろ』

ああ、あの日オレは、一体何を願ったのだったか。


ピンポーン、と、インターホンの音がした。気がつけば、俺は布団に転がったままぼんやりと天井を眺めていた。

ピンポーン。再度、催促するような音が響く。母よなぜ出ない、と考えすぐに、今日は午後出掛けると言っていたことを思い出した。

枕の横に放られたままのスマホを手にして、時間を確認する。十五時二十三分。なるほど、誰も出ないわけだ。今現在この家には俺一人しかいないのだから。

ピンポーン。鳴るのは三度目。こうもしつこく呼び鈴を鳴らすのは珍しい。セールス関連ではなさそうだ。なら、誰が。この八月半ばの真夏日に、わざわざアポなしで訪ねてくる人物に心当たりはない。

ピンポーン。

ああ、もう。うるせぇな。

舌打ち一つ。布団から起き上がり、部屋を出た。わざわざインターホンで確認するのも面倒で、そのまま玄関に向かい、扉を開けた。

炎天下、青空と入道雲。じりじりと焼けるアスファルト。扉を開けた先、門扉の向こう。小学校高学年くらいの女の子。長い髪に、何故か半袖短パンの、いわゆる体育着を着ている。足は裸足で、真っ白な上履きを履いている。美少女、でもないし、さりとて不細工とも言えない。実に平均的な顔立ちは俺の幼馴染の、かつてのそれと瓜二つで。

ただただ驚き、困惑する俺に、そいつは不気味に笑って言った。

「よぉ久しぶり。あの夏に会った、あの夢で会った、お前の宇宙人が、今度こそ、願いを叶えにきてやったぜ」

からりと響いたそれは、見た目通りの年相応に幼くませた声だった。


気がつくと、自分の部屋にいた。俺は敷きっぱなしの布団の上に座っていて、目の前には先程の体育着少女が、胡座をかいて座っている。上履きは、履いたまま。

「……は?」

いつの間に、と間抜け面を晒す俺に、眼前の奴は言う。

「シーンの割愛だ。だらだら描写しても仕方ねぇ。とは言えお前は混乱しているようだから、簡潔に説明してやってもいい。望むか?」

「え、何、はぁ?」

割愛。描写。混乱。説明。ああ、確かに俺は混乱している。だって意味が分からない。今の状況も、この子供も。何もかもが不明すぎる。

「……お前、誰?」

脈絡なく口をついて出た言葉に、しかし少女は平然と端的に答える。

「お前の宇宙人」

それは俺にとって、何一つ答えになっていなかった。しかしわざわざ突っ込むほどの気力もなく、仕方なく次の質問を投げる。

「どこから来た?」

「宇宙から。正確には、夜空に輝く星の一つから」

俺は、もうダメだと思った。これ以上子供の妄想に付き合ってはいられない。この場合、警察を呼べばいいのだろうか。しかし逆にこちらが悪者にされてしまいそうだ。もういっそ、外につまみ出すしかないか。

「信じたくないならそれでもいいぜ。その場合、お前はただの狂人で、俺は妄想癖持ちのクソガキだ。俺はそれでも構わねぇよ」

「おい待て、なんで俺が狂人なんだ」

聞き捨てならないと顔をしかめれば、奴は笑う。わらう。嗤、う。───夏?

「なんでもなにも。お前はそうやって、囚われている。夏が怖かったんだろう? だから俺を呼んで、だからお前は狂人なんだ」

「意味分かんねぇよ」

「だろうな。分かってたら、お前に俺は必要ない」

終始意味不明だ。奴はただ座って問答を繰り返すことに飽きたのか、四つん這いに室内を物色し始めた。俺はそれをぼんやりと眺めて観察する。やがてそいつは机の下から、何週間前のものか分からない漫画雑誌を引っ張り出してくる。表紙を開いて、一ページ目。奴はカラー印刷されたそのページの、背表紙に接着した面を指で真っ直ぐなぞった。するとどういうわけか、ページは雑誌から切り離されて、パラリと落ちる。

何をしたのだろう。宇宙人的魔法だろうか。

「タネはあるからトリックの類いだ」

「思考を読んだのか」

「地の文を読んだんだ。………いや、それは思考と大差ねぇのか」

おりおりと、切り取ったページを折って何かを作りながらそいつは言う。いや、何か、ではない。それは紛れもなく、紙飛行機だ。

「思考があちこち飛んでんな。不可解で、落ち着きがない。だがまぁしかしお前が、警察を呼ぶ、或いは俺をつまみ出す、といった行為をする気が失せたのなら、さて」

完成した紙飛行機を俺に向けて放って、奴はまた笑う。

「質疑応答といこうぜ。何が聞きたい、何が知りたい。もしくは何を聞きたくなくて、何を知りたくないのか、か?」

そうして奴はまた、ページを切り取り紙飛行機を作る。あの漫画雑誌のページ数は確か四百六十から七十ほどだが、まさか全ページ、紙飛行機にするつもりだろうか。

そのまさかな気がした。

「……お前の、名前は」

「お前のために名乗れる名前はねぇよ」

「………。俺とお前は、昔会ったことが?」

「あの夏だ。しかし、お前はよくない人間だから、きっと覚えてないんだろ」

幼い黒い瞳が俺を見る。何故か、曖昧な恐怖を感じる。

「お前はよくない人間だから、楽しい嬉しいことはすぐ忘れ、苦しい嫌なことばかり覚えている。お前はよくない人間だから」

「よくない……良くない、な。それは、うん」

確かにその節はある。良くないことだ。それも分かっている。

「ああ。でも、よくないけれど、悪ではないから別にそれは、」

蝉が鳴いている。エアコンの音が微かに響いて煩わしい。途中で言葉を切って黙り込んだそいつの顔に、影が落ちているように見える。

「……いつの、夏だ」

「十年前。お前は小学五年生だった。お前が望んだから、俺は叶えてやろうとした。けれどお前は、やっぱいいやと断った」

「なんで、あいつの姿をしているんだ? 他人の空似か?」

「俺がそれを模したからだ。このほうがお前は俺に関心を持つと思った。そして実際持った。当時お前は幼馴染と疎遠になっていて、お前自身、それに不満を持っていた」

かさり、と紙飛行機がエアコンの風で僅かに揺れる。俺は良くない人間らしいので、未だ奴の言う夏を思い出すことが出来ないでいる。

「俺は、お前に何を望んだ?」

「終わらない夏。だけど八月三十日に、お前はやっぱいいやと言った。学校は嫌いじゃないし、夏が好きなわけでもないからと」

そんなこと言ったのだろうか。まぁ、言ったのだろう。覚えてはいないが、その言葉に、何処か懐かしさを感じるから。

「だから八月三十一日が怖いんだろ。やっぱなし、が通じたのか、お前には分からなかったから」

「でもお前は、やっぱなし、を了解してくれたんじゃないのか」

「したさ。けれど分からないだろ。口先だけの了解かもしれない。俺が勝手に俺の望みで、夏を終わらせないかもしれない。あの夏のお前は、確かにそんなことを考えて、八月三十一日に怯えていたんだぜ」

閑話休題。作られた紙飛行機の数は、とうに十は越えているだろう。漫画雑誌の紙とは思えないほど、ピシッと羽を伸ばしたそれらは、雑然と床を埋めている。

「どうしてか、夏は特別視されているように感じるよ。夏なのに、春と一緒に語られたりな」

おりおり、おりおり。出来たら放って、またおりおり、おりおり。

「だがそれらは、一過のものでしかないんだよな。青春は一過性の病で、夏はただ巡る季節の一つで。だから、それに囚われているお前が、馬鹿らしく見えてさ」

ふと、奴は手を止めた。そうして俺を見る瞳の黒さが、宇宙を連想させて背筋が粟立つのだ。

「よくないお前は覚えてないか。昨日の十九時三分、浴室でお前はシャワーを浴びながら」

おりおりと、また手元に視線を戻して、紙飛行機。

「『連れ去ってくれ宇宙人、この星は僕には少し狭すぎるんだ』」

それは、俺が適当な旋律で呟いた言葉。鼻歌みたいな、戯れの。

「なん…何、え?」

「ただの暇潰しだったろうが、しかしお前は本気でそう思ったんだ。だから、俺は来てやった。今度こそ、その願いを叶えてやりに」

「………願い、って、じゃあなんだ。お前は、俺を宇宙に連れ去ってくれるのか?」

「お前が望むなら」

なんだそれ。本当に宇宙人なのか。

「………どこに、連れてってくれるんだよ」

「どこだっていいよ。お前が行きたいところに行こうぜ。そこに青空なんてねぇけどよ、夜に溺れるような宇宙船暮らしも、悪くねぇ」

そこまで聞いて、俺は少し納得した。なるほど、確かに俺は狂人らしい。いつの間にやら俺は、この得体の知れない小学生の話を、すっかり信じきっているのだから。彼女が話したいつかの八月なことなんて、欠片も思い出していないのに。

俺はふと弛緩して、ぼす、と布団の上に仰向けに倒れた。天井が見える。見慣れた天井。それよりずっと上の、ずっと遠くにある宇宙。そこからやってきた、俺の宇宙人。

「……俺が断ったら、お前は宇宙に帰るのか」

「ああ」

「そんでいつかまた、俺が宇宙人に願ったら、その時お前は現れるのか」

「………いや」

少し声を低くして、草臥れたように奴は言う。

「俺もお前も正直者じゃないし、仏なんざ拝んじゃいねぇ。だから、三度目は訪れない。二回で終わり。これが最後だ」

天井しか見えていない俺には、奴がどんな表情を浮かべているのか分からない。が、何となく憂いを帯びた顔をしている気がした。

「断ったら、お前は目を覚ます。これはただの夢で、でも夢だから、またすぐに忘れる」

「……その、件の八月も、もしかして、」

「それは夢にしてねぇよ。お前が忘れただけだ」

即座に返され、少し落ち込んだ。

「………」

「………」

沈黙が部屋を満たす。おそらく奴は、俺の返答を待っている。俺がどうするのか、どうしたいのか。その答えを。

ろくに考えもせず、俺は口を開いた。

「……八月三十一日」

「うん?」

「八月三十一日に、迎えに来てくれ」

それが、いい気がした。奴が本当に宇宙人なら、俺のための宇宙人なら、そうしてもらうのが一番な気がした。

「いいよ」

あっさりと返された了承に起き上がれば、奴はいつの間にか立ち上がって、俺を見下ろしていた。床はすっかり紙飛行機で埋め尽くされていて、足の踏み場に困るほどだ。

「今日はもう帰るよ。これからお前は一度気を失って、目が覚めたら雨が降ってる。雨はすぐに止んで、空に虹が架かる。それが、俺が帰った合図だよ」

言って、奴は俺のほうへと手を伸ばす。直感で、意識を奪われるのだと分かった。制止しようとしたが時すでに遅く、ぐらりと視界が暗く眩む。

「お前にとってはそうじゃないんだろうがな、俺にはお前しかいないんだ。だから、なぁ、トモダチよ。仲良くしようぜ、この次も」

プツン。


目が覚めた。天井を眺めながら、雨音を聴いていた。

起き上がり、床を埋め尽くす紙飛行機を足で退かしつつ、窓のほうへ。カーテンを開け、窓も開けれぱ、雨はすでに小降りになっていた。

ああ止む、と思った瞬間最後の一滴が空から落ちて、雲が裂け、日が射し込む。

雲の隙間から覗いた青空には、今まで見たどれよりも綺麗な、虹が架かっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集 むし @moth_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る