第2話 あと3日
「ねえ、貴方はだあれ? どこから来たの?」
少女は、次の日の朝、ふと思い出したかのように尋ねました。
「ふむ、そうだね……」
怪盗は暫くの間、顎に白い手を当てて考えます。
「君が月の王女様なら、私は星の王子様といったところかな。実は私もね、皆に内緒でここにやって来たんだよ。特に私はね、大人達に見つかってはいけないんだ。王女様、私のことは君だけの秘密にして欲しい」
「私だけの秘密……。うん、良いよ」
「それじゃあ、もし大人の人が来ても私のことは話していけないし、私が隠れていても、知らんぷりしていなきゃいけない。約束できるかな?」
「うん、約束する」
怪盗は手袋をつけたまま、細い小指を差し出しました。
「約束するときは、こうやって指切りをするんだ」
少女は小さな小さな小指を絡めました。2人の間で、秘密の約束が交わされたのです。
* * *
それから3日経ちました。少女と怪盗は、人目を忍んで、観測所へ向かいます。少女がまた月を見たいと言い出したのです。
もう少しで満月になろうとしていました。好奇心旺盛な少女は、空を見上げながら、こう聞きました。
「ねえ、王子様はどの星から来たの? そろそろおしえてよ」
実は、少女がこの質問をしたのは5回目でした。怪盗は聞かれる度に、ごまかしてきたのです。けれど、今回は違いました。怪盗は、下を、天文台の下に広がる夜の街を指さしました。暗闇に浮かび上がる無数の灯り。まるで夜空の様に。
「天にあるのが星なら、あれはさしずめ地上の星だ。実はね、私は地上から来たんだよ」
少女は、目をまん丸にしました。まさか、空の上から落ちてきた人が、星の王子様が、眼前に広がる街から来ているとは思いもよらなかったのです。
「ねえ王女様。君は街に出たことがあるかい?」
少女は首を振りました。せんせえが何度も街のことを話してくれるのを聞いたことならありますが、天文台を出たことは一度も無いのです。少なくとも、全く覚えていないのです。
せんせえは、街について沢山教えてくれました。街には沢山の人が住んでいて、お店が並んでいて、たまにお祭りという楽しいことが行われていて、街の外では麦畑や、工場や、牧場が広がっていること、そして、それら全てを、星の力が支えているということも。
「ねえ、私と共に、ここを出て、街に行ってみないかい。月を見るのも良いだろう。星に願うのも良いだろう。でも、地上にも星が広がっている――ここから見えるほど、綺麗な物ではないがね。きっと、王女様が帰りたがっている月も、街で見つかるよ」
「行く。行きたい」
少女は、興奮して飛んだり跳ねたり。彼女の意識は真っ先に街へと移ってゆきました。お祭りの時に飛び交う風船、熊の着ぐるみ、踊る人々、天文台から眺めるだけだった物に、手が届くのです。
少女は、王女様から一転、町娘になりました。町娘は車に乗って学校へ行き、学校が終わるとお店へ行って綺麗な服を着たり、美味しいワッフルを食べたりします。友達と歩いていると、素敵な男の子を見つけて、一緒に演劇を見に行くのです。
「ねえ、今すぐ行こうよ。ねえ、行こう」
少女は早く行きたくてたまりません。今は無理だよというレヴィアンの制止も聞かず、柵をよじ登って天文台から飛び降りようとしました。
危ない、とレヴィアンが飛び出したその時、
少女は、見えない壁にはじかれました。怪盗が驚いて動けずにいる間に、もう一度柵を蹴って飛び降りようとしましたが、駄目でした。
透明な壁に阻まれて、外に出られないのです。
少女は、泣き出しました。我に返ったレヴィアンは、泣き声が響き渡らないうちに少女を抱えて部屋に戻りました。
* * *
その頃、ウィストン警部が天文台に到着しました。長年、怪盗レヴィアンの引き起こす事件を担当してきた人です。警察官の中では一番の有名人。多くの人が、近くを歩いている人でさえ、一目見ようと周りに集まっていました。研究室長――天文台で一番偉い人のことです――が恭しく頭を下げます。
「本日はわざわざご足労いただきありがとうございます。あなた様がいらっしゃればきっと、きっと憎き怪盗を捉えることができますでしょう。失敗は許されません。なにとぞ、なにとぞよろしくお願い申し上げます……」
その丁寧な言葉遣いからは、どこか、これまで捕まえることができなかった警部に対する皮肉が籠められているような気がしました。ですが、そんなことを気にする警部ではありません。怪盗がどれだけ手強い相手か、よく知っているからです。
「今度こそ、共に奴を捕まえましょう。早急に建物を案内していただきたい。私の推測が正しければ、怪盗は既に建物の中です」
「な、なんと……」
周囲にどよめきが走ります。
「一昨日位から警備員が増えたのってそういうことか。盗むのがあの日ってだけだもんなあ」
「良く分からんが中にいるならさっさとつまみ出しとくれ。助手がどれか全く見分けがつかんのじゃ。ずっとこれじゃあ実験が進まんではないか」
驚くのも無理はありません。予告の日は3日後。皆はてっきり当日忍び込んでくるものと思っていたのです。警部の考えが当たっていたら大変です。
本当は会議室で当日の作戦を練る予定でしたが、急遽天文台中を探して回ることになりました。机の下から薬品棚の中まで探し、中にいる人全員の本人確認を行います。日がとっぷり暮れて、帰宅時間ぎりぎりまで作業が続きましたが、怪しいものは見つかりませんでした。
最後に、最上階を研究室長と警部の2人で見に行きます。ここだけは何故か、研究室長直々に許可を貰った人しか入れないのです。室長が、足早にある扉の前を通り過ぎて行きます。まるで部屋などないかのように。
「すみません。この部屋をまだ確認していないのですが」
警部はすかさず尋ねました。怪盗はどこに忍び込んでいるか分かりません。他の階にいなかった以上、最上階にいる可能性はとても高いのです。
「ああ、そこは、とても危険な部屋ですので。流石の怪盗でも近づかないでしょう」
「危険って、一体何があるのですか」
「機密事項です。お答えすることはできません」
「奴は爆薬の入った倉庫に隠れていたことがあるんだ。多少の危険ならもろともしない」
「それでも、中に入れる訳にはいきません。もう遅いですし。戻りましょう」
そう言って室長は階段を降りていきます。警部が渋々ついていこうとしたとき、微かな足音が聞こえました。振り返ると、女の人が、1人、部屋から出て行くところでした。警部が彼女に聞いてみようと一歩踏み出した時、
「警部。貴方は部外者だ。それを忘れないでいただきたいものですな」
階段の下から鋭い声が聞こえてきました。階下から、非難の眼差しが注がれていました。警部は腕を組み、なにか考え込みながら階段を降りてゆきました。そして、これは国にかけあわなければならない、と考えていました。
「益々怪しいな」
警部は周囲に聞こえないよう気を付けながら呟きました。
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