71 痛み


 お使いを頼まれたわけではないが、何となく寄りたくなった。


「今日はお使いじゃなくて、なんか菊乃さんに会いたくなっちゃって……ついでに何か買おうかなって」


 菊乃は大して面白くもなさそうに、


「なーにを、しち面倒臭いことを」


と呟くと、さっさとお茶を二つ入れて自分の分をすすり始めた。


「なーんかあったんけ?」


「え?」


「建坊のやつ、えらいしょげちょったけど」


――しょげてた?


 新藤がしょげる図は想像がつかないが、心当たりがないとは言えない身だ。弟子に声を荒らげられてそのまま黙り込んでしまった新藤とは、あの後、挨拶程度にしか言葉を交わしていない。


「それ、いつ頃ですか?」


一昨日おとといじゃったかな」


「何か言ってました?」


「そりゃあもう。何やかんやと遠回しにぐちぐちぐちぐち小一時間ばかりもな。ええ歳してあれもまだまだひよっこじゃの」


「もしかして、私の……話でした?」


「そうは言わんかったけんども」


 けんども、菊乃にはお見通しというわけか。


「実は、最近ちょっとうまくいかないことがあって、先生に八つ当たりというか……」


「八つ当たりっちゅうのはぶちまけるもんじゃろがい。ぶちまけてもらえりゃあ、あいつもなんぼか楽じゃあ。そーんなことでいちいちしょげるような育て方したおぼえはないぞう」


と、菊乃は見えぬ目を細める。


「その代わり、何が起きてんのかわからんとか、力になってやれんっちゅうのはたまらんけえ。痛あくて痛くてよう」


 一希は信じられない思いでそれを聞いていた。湯飲みをいたわるようにさするしわくちゃの手をじっと見つめる。


 新藤はここへ来て、一体何をどう愚痴ったのだろう。自分がまさかそこまで師匠を困らせているとは思ってもみなかった。


「あんたも難しい世界に好き好んで入ったんじゃったら、使えるもんは何でも使ってかしこく行かんでどうする」


 その言葉に、一希ははっとした。人の手を借りることを嫌うな。あの日、新藤にそう言われたのではなかったか。感情に任せるな、頭を使え、とも。


「黙って見とれっちゅうなら、安心して見てられるだけのもん見せてやりい」


 新藤の声が聞こえてくるような気がした。一度無理をすると決めたなら、必ず最後まで責任もって無理しおおせろ……。


――見ていられない? 今の私を……痛くて痛くて?




 帰宅すると、新藤は大机にいた。


「あ……ただいま戻りました」


「ちょっといいか」


「はい」


 何を言われるのかとひやひやする。


「埜岩で噂が立ってる」


「えっ?」


「お前があのときのあの子だと。藁志ヶ谷わらしがやの事故の話だ」


――ああ……。


 ついに、この時が来た。いつかは来ると覚悟していたが、思ったより早かった。


 今ここにある五感が薄まっていく。あまりに無力だったあの頃の自分が顔を出す。


 ひっきりなしに鳴り続けた電話。耐えかねて受話器を取ると、男か女かもわからない、絞り出すような押し殺した声が不気味に響いた。


 爆弾狂いの人殺し。あの子を返せ。お前こそ死んじまえ……。


 小学一年の一希は、何年ぶりかでお漏らしをした。受話器を握ったまま、居間で一人立ち尽くして。半狂乱と妙な冷静さが入り混じり、二階にいる父や、もうすぐ帰ってくる母に気付かれないよう、荒い息と震える手をなだめながら急いで片付け、洗濯機を回した。


 もう子供じゃない。もう負けない。そう決めてはいても、人々から「あのときのあの子」として見られることに平気な顔でいられるわけではなかった。


「どっかで話したか?」


「いえ」


「となると、怪しいのは中級んときの健康診断か」


「あ……」


 視力、聴力、血液検査に尿検査。そして聴診器診察と心電図検査では、胸と背中をさらした。


「そういえば、やけにじろじろ見られた気はしたんですけど、普段男性ばかりてるから珍しいのかと」


 正直、こいつもか、と思った。女と見るや、さげすむか性対象にするしか能がないのか、と。たとえ悪意があっても相手は医者だから、黙って見られておくよりほかなかったが。実は傷の方に目をらしていた可能性は確かにある。


「軍医なら爆創ばくそうは古くてもわかるからな」


「そう、ですよね」


 いや、医者でなくともわかるに違いない。破片を大量に浴びる以外にあり得ないような、世にもみにくいぶち模様。一目見ただけで誰もが爆弾を連想するだろう。


 一希はふと考えた。新藤がもし、この傷を目にしたら?


 新藤は父隆之介の指示で事故調査を手伝ったと言っていた。一希の体に今も傷が残っていることぐらい想像がつくのは当然だ。


 だが、どんな傷かまではわかっているだろうか。ある程度正確にイメージできていたとしても、それは実際に目にすることとは決定的に違う。


 もし見たら、一体どんな印象を抱くだろう。どんな反応を見せるだろう。


 そんな場面が訪れるとは思えないが、思い浮かべると恐ろしいような申し訳ないような、いたたまれない気持ちになる。でも……。


 この人にはいつかきちんと見てほしい。そう願う自分にも、一希は気付いてしまった。


「いずれにしても、医者が漏洩ろうえいしたとは限らん。カルテを正規のルートで記録保管に回した結果かもしれんし、診断結果はもちろん協会に報告するわけだからな。まあ、あそこは情報の取り扱いにはうるさいからそう簡単に漏らさんとは思うが」


「あの、噂ってどれぐらいの……」


「どこまで広まってるかはわからん。これ以上広めるなとは言っといたが……すでに一部の補助士にはバレてる」


「そう、ですか」


「協会に補助士六人の連名で抗議文が届いたそうでな」


――抗議⁉


 その不穏な言葉に、動悸どうきを覚えた。



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