70 詰問


「何をされた?」


「いえ、何も……」


 数秒の沈黙は何の解決にもならなかった。


「俺に言いたくないなら警察に言え」


 一希は耳を疑ったが、新藤は冗談を言っている顔ではない。


「いえ、そんな深刻な話じゃ……ただ、一緒に見学してたときにちょっとお尻をはたかれたっていうか……でも別に撫で回すとかじゃなくて、自分たちの間でもはたき合ってて、いつものことだ、みたいな……」


 思い切り苦虫を噛みつぶした新藤は、やがて仕事の顔を取り戻した。


「微妙だな」


と言ったきり、しばらく何やら思案する。


「明らかに悪意によるものだが、その程度でいちいち騒ぐなとでも言われたら、上官に抗議するのは却って逆効果かもしれん」


 一希が恐れているのがまさにその状況だ。


「お前、同じ連中と何度か会ってないか?」


 今のところ三回遭遇そうぐうしているが、新藤はどこまで把握しているのだろう。


「他にも何かあるのか? それ次第じゃ十分抗議に値するかもしれんぞ」


 他にもいろいろある。漏れ聞こえてくる罵詈雑言ばりぞうごんや無意味に連呼される卑猥ひわいな単語は挙げればきりがない。いやがらせだって次から次によく思い付く一団だった。


 せめて雑用でもと思って立ち入り禁止のロープを撤去した際、一希がくいに付いた泥を拭えばそれに合わせて妙なあえぎ声を上げ、風で飛んできたビニール袋を拾おうと一希が四つん這いになろうものなら、わざわざそばに来ていやらしい動作をしてみせる。子供みた悪ふざけとして一笑に付せばよさそうなものだが、思い出しただけで顔が引きつるのがわかった。


 一希が全部話すまで何時間でも待つと言いたげな新藤の視線が食い付いてくる。


「ないです。それだけです」


「俺に隠し事をしようとは、いい度胸どきょうだな」


「別にいいんです、無視してますから!」


 恥ずかしいやら忌々いまいましいやらで早口に言うと、思いがけず声音こわねとげが立ってしまった。眉を寄せる新藤を直視するのが怖い。一希はうつむいたまま、


「すみません、失礼します」


と小さく告げ、足早に自分の部屋へと逃げ帰った。


 気にするまいと努めていたが、知らず知らずのうちにストレスがたまっているのがようやく自覚され始めた。新藤にはこんなことで心配をかけたくないし、相談しようにも何と説明してよいのかわからない。


 次の現場にまた彼らが来るのではと憂鬱ゆううつでならず、積極的に仕事を得ようという意欲もそがれてしまう。


 仕事に関する一希の最大の悩みは、仕事には関係のない事象に発し、仕事の障害となっていた。



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