Delinquent-10



 急に辺りが暗くなり、悪魔の口調が変わった。

 まさか、さっきのは演技? 従順になったフリをして騙してたの?


『ジュリア、プスが』

「え、えっ!? ちょっとプス!」

「ひゃーん」

「ひゃーんじゃない! ひゃっでもない! 止まって!」


 辺りが落ち着いたせいか、プスがひゃんひゃんと鳴きながらこっちへと駆けてくる。

 しまった、プスがじっとしている約束なんて、聞けるはずないのに。

 プスが移動したせいでリードがたわみ、三角形を保てなくなっていたんだわ。


「待て、待って!」

『フハハハッ! 賢い猫だな』


 もう一歩だったのに! 悪魔が動いてしま……


『させるか!』


 ディヴィッドの声が響き、何かが地面に置かれた。重そうな金属音が鳴りやんだその瞬間、プスがしゃがんだ私の膝に乗り、悪魔の動きも止まった。


『おのれ、せっか……』

「ひゃんー」

「ひゃんじゃない、もうっ……! あ、悪魔!」

『俺の鎌の柄で代わりの直線を作った』

「凄い! サイコーよ! 結婚を申し込みたいくらい」

『申し込むのは俺だ、我慢してくれ。それとレーザーポインターの光に注意しつつ、メジャーを拾って伸ばしてくれ。そうすればジュリアが動いても大丈夫だ』

「わ、分かった!」


 ディヴィッドの機転でなんとか悪魔を留める事が出来た。私だけだったら「きゃーどうしよう!」って狼狽えて、そのまま逃げられてた。

 メジャーが戻らない様に、しっかりストッパーを効かせ、そっと地面に置く。


 雨が上がって草の匂いが漂ってくる。同時に汗が服の下を伝っていく。

 私はあまりの状況に、今まで自分が外の暑さも湿気も感じていなかったと気付いた。


「どこまで質問したっけ!」

『あー……どこまで話したかな』

『刈った魂を持ち主に返す方法を尋ねていた』

「あら、教えてくれて有難う。まああなたの今までの借りを返せる程に感謝してはいないけれど」


 悩む私達に対し、ご丁寧に教えてくれたのは悪魔だった。

 さっさと訊き出さないと、この不安定な三角形を長く維持できるか分からない。次は突風か、それとも地震? 私は基本的に運がないから安心できない。


「どうやって魂を返すの」

『持ち主の体内に』

『分かった、やってみる』


 ディヴィッドがローブの下から半透明の……ぶよぶよした何かを取り出した。それを私の体の中に?


「え、それが私の魂?」

『そうだ、何かあるのか』

「……いや、想像してるのと違って。こう、心臓みたいとか、ハート型とか、輝いているとか」

『残念ながら』

「あー……私だけじゃなくてみんなの魂もそんな感じならいいわ。それより待って。私が元に戻ったら、ディヴィッドと会話を続けられない」


 私には、まだ訊き出さなきゃいけない事がある。


「私もそれで元に戻れるのね」

『そうだ』

「ディヴィッドは死神だった時の記憶を残せるの?」

『体は眠っている。昏睡中に記憶できるものなどそもそも存在しない』


 間髪入れず答えが返って来た。ディヴィッドだけ記憶を持ったまま目覚めるなんて、都合のいい方法はなかったか。


 でもまだ他に確かめたい事がある。


「私の記憶はどうなるの」


 そう。私はこの数週間を無かった事にしたくない。この経験を忘れてしまうのが勿体ないってのもある。

 それ以上に自分だけ記憶喪失になって、意地の悪かった頃の私に戻るなんて絶対に嫌なの。


『起きている間の記憶を消し去る能力など、持ち合わせていない』

「つまり、私は記憶を失わないってこと?」

『その通りだ』

「良かった……」


 私は記憶を失わない。それが分かってホッとした。私の知らない私を、日記やローリの話で知るなんて嫌だったから。

 私が他人のために動いていた事、人助けをした事、そんなの以前の私が信じるはずないし、やろうとした私自身を馬鹿にしたと思うし。


「分かった。じゃあ、最後の質問を」


 それは、もしもディヴィッドを救えなかったとしても、絶対にしなくちゃいけないと思っていた事。


「あなたを消し去る方法を教えて。もう二度と死神ごっこなんてさせない。三つ編みお下げも悪魔退治も、二度と御免だわ」


 私達がこれで悪魔も死神も見えない生活に戻ったら、どうなる?

 悪魔はまた生き返るためと嘘をついて誰かに魂を刈らせて、そして絶望させる。その繰り返しはここで断ち切らないといけないの。


 もうルーカスのように悲しむ子が出ないように。

 愛する人を宥める事も触れる事も、声を届ける事さえできない人が出ないように。


 自分だけ助かればいい、他人の幸せなんてどうでもいい、そう思っていた頃の私を断ち切るために。


『愛する者に口づけを』

『……なぜそれでお前が消える。俺が首を落とせば片が付くんじゃないのか』

『雷に耐え、衝動的な愛に走らず、我の嘘を見破った者に我は敗れる』


 その3つは、悪魔フルフルが引き起こす災厄。私は……その全てに打ち勝った?


「私がディヴィッドへの愛を貫いたら終わりって事ね」


 事故も、ディヴィッドの母親の暴言も、雷に撃たれた事も、そしてこいつと今対峙している事も。フルフルが正体を明かすなと言い、ディヴィッドが別人のブラックとして振舞った事も。

 全てはディヴィッドから私の心を引き離すため、私に課された悪魔のいたずらだった。それらは終わって元の日常に戻れる。


「ディヴィッド、他に置けるものはない? 死神の持ち物なら、雨風にも他の誰かにも動かされないわ」

『こいつが動かしてしまわないか』

「そうね……あなた、ここから抜け出せるの? 自力で三角形を崩せる?」

『我は触れる事もかなわない。不可能だ』

「だって。ほら、そのボロボロのローブの裾、引きちぎって。それで地面に三角形を作るから」


 ディヴィッドがローブを引きちぎり、それをメジャーやシールテープの代わりに置いた。本当は地面に杭でも打ち付けて三角形を作るべきなんだろうけど。


「……本当に、大丈夫なのかな」

『俺がここで見張っていよう。ジュリア、君にこれを』


 そう言ってディヴィッドは私に魂を持たせた。これを体の中に入れるまで、ディヴィッドはまだ死神のまま。まだ私と会話する事も出来る。


『そもそも意識のない俺は、この7週間弱に何も記憶していない。覚えていられない自分の目覚めを確かめに行くより、こいつを見張っているさ』

「……じゃあ、いったんお別れね。死神だったあなたを、私は忘れない。ディヴィッドは死神ブラックとして、優しくない私を刈り取ってくれた」

『元から優しかったんだよ。その優しさを照れや嘆きで覆っていただけさ』

「そうかな、そう言ってくれるあなたが好きよ。ディヴィッド、私のキスを待っていて」

『ああ。さあ、行ってくれ。目覚めて最初に見るのは、白い天井より君がいい』


 事故も、雷も、恋人の危篤も。

 無職になった事も、悪魔と戦う羽目になった事も。

 どれか1つだって不幸そのもの。だけど私にとっては価値のある経験だった。


 私は自分が変わらないといけない状況に追い込まれ、ようやく必死になった。恋人は本当に心優しくて、私の事を想ってくれる人だった。

 その対価にしては支払いが大き過ぎたけれど、優しい私だから、文句は言わない。


 鞄を肩に掛け、プスをしっかりと抱き上げた後、傘を畳んで遊歩道を元来た通りに歩く。

 足取りは軽い。院長の娘なんかにディヴィッドを取られるもんですか。


「フフッ、死神のご加護、ね。いいんじゃない? 私、見えるものしか信じないの」


 いや、ちょっと違うか。


「……見えるものだけが真実じゃない事は、嘘つき悪魔が教えてくれた」


 うーん、何か違う気がする。


「そうね……見えた上で、信じるかどうかを考えるわ。信じられたいなら、信じさせる努力をするべきだもの」

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