第217話 デコイ
「教皇は偏見をもって誤解しておられますな。ケルン派でも『聖書』はしかと『聖書』として取り扱っております。ケルン派にとっての聖書と呼ばれている『新世紀贖罪主伝説』はいわば副読本――聖書をより深く楽しむためのサイドブックです。ケルン派の聖職者はそこのところを誰も勘違いしておりませんよ」
ケルン枢機卿は本当に不思議そうに、そう言い放った。
おや意外、と。
私は少し眉を顰めた。
てっきり「うるせえ、あれがケルン派では聖書なんだよ」ぐらいに言い張ると思っていたが。
逃げに走ったか、と一瞬だけ考えたが。
一瞬だけだった。
あれは本気の目である。
ケルン枢機卿である老婆の眼光はむちゃくちゃキラキラしている。
おまえ、いくら何でもその言い訳は無理があるだろうとは誰にも言わせない目である。
「え、いや・・・・・・ええ・・・・・・」
教皇も眉を顰めた。
おそらくは彼女も「うるせえ、あれがケルン派では聖書なんだよ!」ぐらいに言い張られると思っていたに違いないだろう。
だってケルン派の日曜礼拝(ミサ)で真面目に聖書の話をしていることなんか、誰も聞いたことない。
いつもなんだか、「あれ、聖書そんなんだったかな。違うな。違うでしょ。その時代にマスケット銃なかったでしょう」みたいな話をしている。
というか、聖書を売ってくれと言ったら最新刊がこちらですと『新世紀贖罪主伝説』って表紙に書かれた本を平気で出してくるそうではないかオマエラ。
旧版は取り寄せになりますとか言われても困るんだよ、こちらは。
なんというか――私が居合わせた日曜礼拝ではだ。
私の記憶が確かならばだが。
最後の晩餐にてだ。
「この中に裏切り者がいる! お前だ! お前のやった事は、全てまるっとお見通しだ!!」
と、いきなり晩餐の最中に立ち上がって、裏切り者を明確に指さしたりしないはずなのだ。
それだと全然違う話になってしまうじゃないか。
もっと、なんというか遠回しに口にして欲しいところだ。
一つまみのパンを掴み取ると、まるで憐れな小鳥に餌をやるように裏切り者の口元に近づけて。
裏切り者は、その人は不幸せで、生まれて来なかったほうが良かったと口にするぐらいにしておけよ。
誰もがコイツが裏切り者か! と悟るけれど、なんかそうハッキリとは口にしない慈悲深い感を出すといいと思うよと。
あれだ、そうだ、思い出した。
私がそうツッコンだところ、あろうことかケルン派の神母は「貴方才能ありますね」と褒めてくれた。
別にそういう意図でツッコンだわけではない。
ちょっと嬉しかった自分の過去も忘れたい。
記憶の彼方に消し去ってしまいたい。
ああ、そうだ。
それにだ、あの弟子が裏切りを決意した理由も全然違う。
なんというか、人によって解釈は違うが、弟子が裏切りを決意したのは、貧しい庶民の賃金にも値する高価な香油を贖罪主が足に塗ったことを「強欲」と見なしたことが原因とも一説では言われているが。
ケルン派の主張する『副読本』とやらの一部ではだ。
「銀貨30枚! ビタ一文まからねえぞ!!」
と自分の命を狙った帝国の宗教指導者たる祭司長を自ら捕まえて、身代金を請求したことが原因である。
それはお前を売ったときの値段ではなかったのか。
裏切りの弟子は贖罪主のその行為を「強欲」と見なし、裏切りを決意したとある。
似ているようで全然違う話である。
それだと裏切られても全く仕方ないんじゃないかと個人的には思う。
いや、その『副読本』の話が面白いか面白くなかったかは別としてだ。
副読本になっていないじゃないかと。
そう素直に思ってしまうのだ。
「あれのどこが副読本なのですか?」
本当に不思議そうに教皇は尋ねた。
私も同じ思いである。
なぜ敵である教皇と思いを一つにしなければならないのか。
「聖書により親しめ、平易でわかりやすく、かつ理解しやすくするための最適な副読本です。と言ってもまあご理解いただけないでしょうが」
出来る訳がないだろ馬鹿者。
喉までこみ上げた言葉を、歯で噛み殺す。
「最初に言ったとおり、聖書は聖書で、『新世紀贖罪主伝説』はあくまでただの副読本なのですが・・・・・・まあ、日常の日曜礼拝や説教などで神母が口にする物が、どうも副読本の最新刊あたりを引用した物になってしまうのも人情でありましょう。同時に、教皇に良くないことですよと指摘されましたら、まあ確かにそうでしょう。今後は少し改めるべきかもしれませんね。ケルンは少し誤解を招く、良くないことをしています」
ケルン枢機卿、良くないことだって認めちゃったよ。
改めるべきかもしれないと口にしてしまった。
え、これで終わりか?
「え、いや、うん。まあ反省してくれるならば――嗚呼。どうしてあなた方はそんなに無茶苦茶なのです」
教皇は首を傾げながら、少し混乱している。
あっけにとられたという顔である。
いや、うん、そうなるよな。
気持ちはわかる。
教皇は敵なので殺すが。
さて、まだ話は続くようだ。
「・・・・・・さて、大まかな理由は今説明したところですが。教皇はそれ以上の解説をお望みでしょう。そもそもの始まりは、ケルン派の創始者が開拓地にて礼拝を試みたことが切っ掛けなのですが。さて、疲れ切ってみんなボロボロの様子で。ようやく確保できた休み時間に堅苦しい説教など聞きたくもないだろうなと創始者は考えました」
「ふむ? ということは」
教皇が、ようやく意を得たように続きを促した。
「先にも話しましたな。せめて皆に笑顔をと。何か面白い説教を必死に考えて、それを開拓民に語り掛けることでしか慰めを与えてやれなかったと。ですから――切っ掛けはほんの些細なものなのですよ」
「・・・・・・吟遊詩人の代わりを、か」
「確か、マインツ枢機卿も若い頃は市井で詩など唄って暮らせぬものかと夢見たことがあるとか――そんな話も聞いたことがありますな。同じなのですよ。きっかけは」
説教や聖歌などは聖職者として当然にやることだから、基礎力はあった。
あとは頭を少し捻るだけ。
枢機卿は語る。
「吟遊詩人すら訪れぬ貧しい寒村に、ささやかなる笑いを。またあの老婆が若い頃のホラ話を、などと言ったぐらいの。本当に些細なものを目指したのです。それが我々が作り出した『新世紀贖罪主伝説』の始まりです。我々は本当に小派閥の頃から、この小さな冊子の制作を続けておりまして・・・・・・」
ケルン枢機卿は静かに語っている。
最初からそう理解しやすい方向で喋ってくれたら有り難かったのだが。
本当に初期の、大昔から細々とやってきたことなのでケルン派にとっては本来悪意ある行動ではなかったのだろう。
あれだ。
マインツ大司教領で保護されている『印刷術』の影響がでかすぎた。
活版印刷の発明により、ケルン派が副読本と主張する例の冊子は爆発的に広まり、誰もが存在を知るようになった。
本来は、開拓を手助けするだけの善行を行うに過ぎぬケルン派という小派閥などが問題視されるようになったのも、『火薬』の開発に成功してから。
本来はこうまで問題視されるほどの事態にもならなかったはずだろう。
結局、正統の存続に唾を吐き、逆らうようなことには至っていないケルン派は『異端』と主張されるほどの敵意を向けるには値しないし、危機感を抱く必要もなかったのだ。
ケルン派が「真の宗教」の名の下で、自らこそが「真の宗教」として正統を弾圧する、そういった事態に及んだことなど一度としていないのだから。
本来は。
だが。
「・・・・・・」
教皇は沈黙している。
正直、どうとでもなることなのだ。
ケルン派の行為を異端である! と呼ぶにはよいが、そこまでしなくても別に良い。
改めるならば『寛容』すると一言口にすればよい。
それで話は終わりだ。
だが、この異端審問は総てが何もかも虚構に過ぎぬ。
「まだ聞いていないことがある。話をけむに巻くのはもうよろしい。なるほど、『新世紀贖罪主伝説』の起こりは理解したし、その経緯もちゃんと承知した」
教皇は、少しだけ息を吸う音を出して。
「では、問うぞ。ケルン派の創始者とはつまりなんだったのだ?」
ゆっくりと、その息音が聞こえるくらいに吐き出して。
教皇は、何かよくわからぬことを口にしだした。
「例えば、超人であることは理解しているし、それに間違いはないだろう。様々な学術にも精通しており、それは神学も同様だったであろう。さて――何を隠しているか、私は聞かねばならない」
「それは何を?」
「例えば、こんなソドムとゴモラみてえな町から出て行ってやる、私が塩柱になることは一生無いと捨て台詞を吐いて。と先ほど口にしたな」
教皇は何を口にしているのか。
このアナスタシアは一度悩んだが、まあ確かに気になる言葉であった。
塩柱になることは一生無いと捨て台詞を吐いたことはわかる。
後ろを顧みて塩の柱になった、「ただの人」の夫のことであろう。
さて。
ソドムとゴモラとはなんぞや。
おそらく焼き滅ぼされた町の名前だとはわかるが。
『正統の聖書ではそんな町の名前ではない』。
「私はそんな奇妙な町の名前を目にしたことはないし、聞いたこともないがね」
教皇は静かに、何か詰問でもするかのようにして、椅子から立ち上がって。
「『新世紀贖罪主伝説』とは本当にただの副読本なのかね? 何もかもが真実を覆い隠すためのデコイではないかね? 例えば、創始者が生前に書き上げて死ぬまで手放さなかったという一冊の本があるときいたな。本当はそれこそがケルン派の経典で、我らの聖書とは全く違うものじゃないかね?」
教皇の様子がおかしい。
何を言っているのか――訝しげになるが、一つだけわかる。
いよいよ、この茶番の終わりは近い。
「何か、もっと、何か。奇妙なことを口にしていると自分でも思うのだが――」
カタリナが、横で欠伸するのをついに止めた。
一緒に、入ってきたドアの向こうに視線をやる。
そこにはファウストがいる。
叫べば、ドアを一撃で蹴り破りて入ってくるだろう。
「君らの創始者が書き上げたのはもっと奇妙な。何らかの技術体系を有していた本ではないのかね。そうとしか私には思えないのだ。何かを誰か優れた者が――誰にとっても大切な何かを見つけたとしか思えないのだ。例えば――そうだ。この際、ハッキリと言ってやろうか。もう、くだらぬ茶番もやめにしようじゃないか」
教皇も気持ちは同じである。
だが。
彼女が、何をケルン派に聞きたいのかだけは気になった。
それだけが気がかりで。
教皇が問うた。
「ケルン派が目指す物の過程で生まれる物、『物質を超えたパン』とはつまり何かね?」
枢機卿は答えた。
「つまるところ、ただの肥料ですよ。総ての人を飢えから救う程度の力しかない」
私には、教皇と枢機卿が何を喋っているのか詳細は理解できないが。
顔をローブで包んだ聖職者の内の一人が、激しく身じろいだのを見た。
あれは――おそらくザビーネではなくて教皇側の人間で。
なら、誰だ?
私は困惑しながら、まだファウストの名を叫ぶときではないと。
なんとか自分を押さえつけて、教皇と枢機卿の会話に、再び耳を傾けた。
殺し合いはもうすぐだ。
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