第215話 始まりは穏やかに
このアナスタシアは、場の空気を掴みかねている。
異端審問の始まりは厳かな雰囲気というわけではなく、その場はあまりにも簡素で。
長大な木の机が二つに、一人用の木の椅子が沢山並べられ、教皇や枢機卿、選帝侯ですらも同じ扱いで。
親しい友人同士が集まるのだから、まあ作法など気にせずに好きな席に座ってくれと言わんばかりの扱いを受けた。
太った正統の聖職者などはあからさまに小さな椅子に、不満顔を浮かべている。
教皇がちらりと視線をくれると、怯えた顔ですぐ椅子に座ったが。
我々選帝侯三人はできるだけファウストが警護する入口近くのドア、ちょうど聖職者側と相対する形となる椅子に並んで座る。
テメレール公は空気を読まず、教皇と枢機卿に一番近い位置にどかりと座り込んだ。
法衣に身を包んだ聖職者のうち二人ほどは顔の見えないローブを身に着けており、その内一人はザビーネだろうが。
……もう一人、は誰だかわからん。
こちらが準備した覚えはないのだが。
全員が座り終え、さて、どうなるものかと考えている最中。
まず教皇が、ふと、世間話のように語り始めた。
「ある日、托鉢修道会の伝道師がある開拓村を訪ねた。ケルン派への信仰深い村であった。村長が言った。我々の聖職者様は、ケルン派の神母様であります。宗派を変えるつもりはありませぬ。よそへ行きなさい、と。伝道師はひるむことなく、こう口にした。私は危険を冒して山野を渡り歩き、貴女たちに伝道するため今ここにいる。私は神の裁きの前に出るとき、自分の首に肉のたるみがあれば怠惰と暴食を裁かれると考えているが。さあ、お前の聖職者様よりも、過酷な旅を続けてきた私の首が太っているかね? と」
ケルン枢機卿が、同じく世間話のように話の続きを強請った。
「それで? どうなりましたかね?」
「もう一度、村長は口を開いた」
教皇が両手を、何かを諦めたかのように。
まるで降参とも言いたげな顔で、臨場感のある様子で叫んだ。
「開拓村の農民は答えた。太っている。過酷な旅を続ける伝道師様の方が、ウチの聖職者様より太っていらっしゃる。我々の聖職者様は我々開拓村の農民と同じようなものしか食べてくれず、我々と同じように瘦せ細っておられるのに、一緒に畑を耕してくださるのだ。清貧の実践を信仰の問題とするなら、いいから余所へ行け! 我々はケルン派への信仰を捨てるつもりはない!」
叫び終えた後、教皇は楽しそうな口ぶりで続けた。
「まあ、私が幼い時に聞いた話だ。托鉢修道会の伝道師であった、私の師匠――母にも等しい人。旅すがらに孤児であった私を拾ってくれた師匠が、ケルン派と布教がかち合った際の実体験を聞かせてくれた話でな。別にこれは師匠だけの経験というわけではなく、托鉢修道会の『真面目な』伝道師ならば一度は経験しているのだ」
それは緩やかな説教のようであった。
決して激怒しているわけではないが、怠惰と暴食は自分の首の、肉のたるみに表れると。
食べすぎには注意しなさい、また運動を心掛けるようにとでも言いたげな。
優しい神母が、生活習慣を改めろと太りすぎの信徒に言い聞かせるような説教であった。
「この話、ケルン枢機卿はどう思うかね?」
「托鉢修道会にとって、ケルン派にとって、ともに清貧を実践し、布教に熱心な同志ともいえる存在が運悪くかち合ってしまいました。それは残念ながらも誠に素晴らしい話である――とは言えませんな。少なくともケルン派にとっては」
「ふむ。それは何故かね?」
教皇が、少しだけ首を捻った。
「怠惰は罪。暴食は罪。それは教皇の仰るとおりであります。しかし、まあ聖職者が痩せているというのはよろしい。托鉢修道会の伝道師も、ケルン派の聖職者も、好きでやっているのだから清貧を実践していればよろしい。だが――その農民が痩せて餓えていること。それを軸に信仰を決めていることは良いとは言えませんな」
ケルン枢機卿は、悲しそうに言ってのけた。
「別に悪いとまでは言いませんが――環境を楯に信仰を施す事。それを私は良しとしないのです。一方的な語り掛けで強制するのではなく、少なくとも選択の余地がある状況において、私は信仰を促したい。神の愛を語りかけるのは聖職者の務めでありますが、せめて相手の腹を満たすのが先です」
「私も同意見だよ、枢機卿」
教皇が嬉しそうに答えた。
ふと、私は聖ゲオルギウスの話を思い出した。
聖ゲオルギオスが『皆、信徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう』と、皆の前に家畜のように竜の首に紐をつけて、引きずってきたシーンである。
あれは両者的には駄目なのだろうか。
このアナスタシアという個人的には「おめえ、竜を何とかしてやったんだから、信徒になるぐらいしろよ」は個人的に超絶わかりやすいギブ&テイクなのだが。
まさに騎士の鑑の行動であり、誉れであり、誰もが模範として目指す聖人である。
そもそもが騎士の世界というのは「守ってやるんだから、てめえら私の食い扶持をなんとかしろよ」という世界で民衆を守るためにできている。
主従関係もそうだ。
お互いに御恩と奉公で関係が出来ており、どちらかが用意できないなら、もう速やかに死んでもらうしかない。
もはや自分の不利益になった以上は殺したり、逆に殺されたりするのは仕方ないことなのだ。
そういうものではなかろうかと考えるのだが、教皇とケルン枢機卿にとっては違うようである。
何か言おうと考えるが、そういう場でもなかろう。
私は口を閉じ続ける。
教皇と枢機卿は穏やかに話し続けているが、枢機卿は突然首を振った。
「ともあれ、開拓地の貧しさは許せませんな」
枢機卿が、老いぼれたボロボロの手を開いた。
手には鍬を握った跡にできる生涯消えないタコが残っており、彼女が畑を耕した経験があることを物語っている。
「貧しきものに協力して畑を耕してやること。それ自体は良い。だが、私たちケルン派は財をかき集めても、何もかも出来ぬ出来ぬと嘆くばかりで足りなかった。農具が必要であった。連絡や命令を与える陶片が足りなかった。教養や娯楽を求める者には書物を開き、読んでやる聖職者が必要であった。種苗なども、どこの開拓地に行っても足りなかった」
ケルン派の開拓地への参加。
東方植民者たち。
ポリドロ家の来歴についてろくに知らず、アスターテと一緒に反省したことが記憶に新しい。
先に知っていれば不用意な移民や援助も計画しなかったというのに、全てを知っていた母リーゼンロッテは何一つ教えてくれなかった。
あのクソババアは言うのがいつも遅いのだ。
失敗のギリギリまで忠告せず、何もかも知っていてコケる寸前まで見守っていた。
おまけに未だにファウストを狙っている。
いつか必ず殺してやる。
「まずは腹を膨らませてからであるというのに。開拓地への援助は困難を極めました。何もかもが足らなかった。今でもそうですが、あの頃は本当に小派閥で一緒に畑を耕してやることぐらいしか。せめて笑顔をと。何か面白い説教を皆で必死に考えて、それを開拓民に語り掛けることでしか慰めを与えてやれなかった。何か、爆発的に問題を解決するものが欲しかった。何か――」
手を震えさせながら、ケルン枢機卿が呻く。
開拓が困難を極めたことは知っている。
だからこそ、ケルン派の支援は開拓者たちにとっては有難いものであったろう。
開拓地には熱烈なケルン派の信徒が沢山いることも当然である。
ポリドロ領のように、村民全員がケルン派というところも珍しくない。
「それが火薬だと?」
「火薬! あれは確かにケルン派に富を与えましたな。財政面での問題解決を産み出しました。何も戦争の大砲や銃、山賊からの自衛などに火薬を使うだけではない。昨今では、固い岩盤を砕くなどにも使われるようになりましたのはせめてもの慰めですな。もっとも、あの成果は先人が数代かけてのものでありますし、実は『我々が本当に欲しいもの』でさえもないのですが」
ケルン枢機卿が重要なことを口にした。
ファウストとマルティナの報告から理解はしていたが、やはりケルン派は火薬の原料を鉱山などで掘り当てたのではなく、明確に「製造」している。
教皇は、それについて察しつつも、その火薬生産技術の発明を褒め称えた。
「だが、マインツの『印刷術』と同じような大発明ですな。それには違いない」
「確かにそうですな。はて、教皇猊下」
こてん、とケルン枢機卿が首を傾げるようにして、不思議そうに尋ねた。
「火薬の話がしたいのでしょうか?」
「してもよいし。しなくてもよい。そもそも火薬を使っているから、産み出したから異端であるなどと問題にするつもりはない。確かに火薬は銃を産み出し、沢山の人を殺した。クロスボウ以上に、地獄から生まれてきたような兵器であると私などは思っている。だがしかし、だ」
ユリア教皇は、眉すら顰める様子もなく。
「印刷術でさえ、やりようによっては人を殺せるだろう。ありもせぬ犯罪を犯したとデマをばらまき、人の名誉を棄損し侮辱して、何の関わりもないのに正義の暴力に酔いしれたい。ただ人を殴りたいだけの民衆に誰かを攻撃するよう操ることはできるだろうな。だから、私は火薬を産み出したことだけを、学術の結実を異端などと呼ぶことはせぬ。未だに本気で地動説を否定しているかもしれない、偏屈で偏狭であることが信仰深いなどと錯誤している辺境の聖職者ではあるまいし。それこそ使い方を間違えなければ、火薬はまたいつか銃といった形ではなく文明を進歩させる何かになり得るであろう」
ちらと、朝読んだ新聞のことが脳裏にチラつく。
妹ヴァリエールに対する身勝手な名誉棄損。
気に食わぬとはいえヴァリエールも騎士である。
悪名もまた名であると思い見過ごすつもりであったが。
――情報が悪い方向に進めば、ヴァリエールの身に危険が及ぶだろう。
なるほど、確かに人を殺せる。
情報を操ることは、場合によっては火薬などよりも危険であろう。
使い方を間違えなければ、国だって亡ぼすことが出来るはずだ。
「――異端審問であったな。そうだな」
ぽつりと、ユリア教皇は何かが虚しいように呟いた。
彼女は異端審問を訴えた立場である。
「お嫌なれば、今すぐ止めてもよろしいのですよ?」
ケルン枢機卿が、教皇を気遣いするように呟いた。
彼女は異端か否かを問われている側である。
少なくとも、この時ばかりは立場が逆転しているように見えた。
あくまで、一瞬にすぎないが。
「今更だな。もっとやるべきことはあったような気もしているが――そうだな、今更だ」
教皇は、自分の言葉に頷くようにして、僅かに首肯した。
「異端審問を始めよう。まずケルン派の起こりについて聞きたい。私はある程度知っているが、知らぬ者も沢山ここにはいるだろう。静かに、穏やかに」
ぱん、と小さく教皇が手を叩いた。
「殺しあう一歩手前になるまでは、お互い冷静に話そうじゃないか」
小さな破裂音は、かえって聖堂の静寂を実感させてくれた。
異端審問の始まりは、奇妙なくらいに静かで穏やかであった。
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