第213話 三年殺しを知ってるかい
ある一つの集会にて。
大モンゴルの皇族、有力諸部族の首長・重臣が集まる中にて。
たった一人だけいる元フェイロン人がトクトアの前に歩いていく。
そして、口を開いた。
「何やら企んでいるようだが、よいのか?」
髪の長い女であった。
やや年増である。
祝宴混じりの無礼講――とは遠いが緩やかな集まりの中で、ただ一人だけしかめ面をしている。
フェイロン王朝の宰相であった頃を何一つ忘れておらぬと、身に纏う装束などフェイロン王朝の宰相衣から一切変わっていない
こうして、宰相として眼前のトクトア・カンに仕えているなど全くもって不快なのだと。
とにかく不快で仕方ないと言いたげな顔で、それを誰にも咎められても構わぬと。
そういった堂々とした態度であって、彼女の態度を叱責するには、こちらとて覚悟を決めねばならぬ。
そうした雰囲気を漂わせている女である。
「宰相よ。わが師よ。それだけでは何を言いたいのかわからぬ」
事実、その通りであるのだ。
トクトアへの態度を叱責などすれば、逆にトクトアから『我が宰相に何か不満でもあるのか? 私が自ら招いた師なのだぞ』とその者へ譴責が強いられるだろう。
眼前のフェイロン人は全くもって、トクトアの事が大嫌いという態度を隠そうとしなかったが。
トクトアは、逆に彼女のその気骨を好んだ。
「何の話だ?」
「お前の娘、セオラのことだ」
この者は死など怖くないのであろうなと、トクトアは今更ながらに考えた。
死を全く恐れない人物だけは、苦手とした。
彼女の経歴を考える。
フェイロン王朝の官僚登用試験たる科挙を首席で通過し、ありとあらゆる学問に通じ、天文に長じていた。
トクトアは、遊牧民として広大な地平線を見て、幼心にずっと疑問に思っていたことがある。
空に見える星が時に変わり、変化していることを不思議に思ったことから推測を抱いた。
ひょっとして大地は丸いのではないか、私が馬を駆りて走っている地面は、あの空に浮かぶ星々と同じものではないかという疑問だ。
トクトアの疑問に部下の誰もが何を言っているのだと不思議そうな顔をしたが、ある日、一人だけ不機嫌混じりに答えた捕虜がいる。
トクトアの眼前にいる彼女であった。
縄を打たれ、首を斬られる寸前でありながらも、堂々とした態度で命乞い一つすることはなく。
そんなことも貴様ら蛮人は知らぬのかと、嘲り混じりに事細かに。
どうせ死ぬのだから砂粒一つ残さず語ってやると、トクトアが抱いていた世の中の不思議や謎についての質問に、一呼吸置くまでもなく詳細に答えた。
トクトアは彼女に心からの敬意を抱いた。
彼女に師としての、格別な好意を抱いたのだ。
彼女はトクトアを弟子として認めてくれなかったが、宰相として招くことだけは嫌がらなかった。
いわく、フェイロン王朝が滅びても、民はまだ残っている。
その民を守るためなら、貴様の宰相になることも拒みはしないと。
一切の虚偽混じりのない罵倒とともに受けた。
事実、彼女の行動には嘘などない。
フェイロン王朝の北方における大平原を無人にすれば、遊牧に適した土地に生まれ変わるだろうと。
だから、そこに住んでいるフェイロン人を皆殺しにしてしまおう。
そういった非道な企みには歯をむき出しにして怒鳴りつけ、それ以上の利益をもたらすから止めろと。
農民・職人など職業によって大別した戸籍を作り上げ、定住させて都市を作り上げ、実際に莫大な税収をモンゴルにもたらして見せた。
そこまでやり遂げられては、彼女を侮るものなど何処にもいなかった。
トクトアも、まあ師ならできるだろうなと、ただ笑うだけだった。
「何を笑っている」
「師を笑っている。我が宰相を笑っている」
嘲笑っているのではない。
フェイロン王朝最高の知能がどれだけ化け物なのかを笑っているのだ。
師を格別の存在と認めるがゆえに笑うのだと。
だが、彼女はそれを喜びとして受け止めなかった。
「セオラをどうするつもりなのだ」
ただ、彼女は一つだけ案じていた。
このトクトアが認められぬ彼女の弟子の立場にあるもの。
娘セオラの事だ。
彼女が遠征して、何やら奇妙な事を企んでいることを懸念しているらしい。
トクトアがセオラを殺すと勘違いしているのだ。
「どうするもこうするも、ないだろう。まさか娘を殺すとでも思っているのか?」
「必要とあれば、お前は殺すだろう。私の弟子を。セオラを」
「必要とあればな」
どうでもいいといえば、どうでもよいことなのだ。
死んだ後の事であれば、どうでも良いと言えた。
「だが、必要のない事だから、何もするつもりはない」
セオラは、子供のころから変わった子であったなと今にして思う。
何もかもにうんざりとした顔をする娘だった。
何が嫌なのかを聞けば、人から何か物を奪うのが嫌だと言うのだ。
愚かな子だった。
誰もが何かを奪うのは、いつの時代も変わらぬというのに。
きっと、彼女が言うもっと明るい時代。
数百年後の世の中でも本当に公正な取引など、どこにもないと思う。
人を騙して奪う。
人を殴って奪う。
人を殺して奪う。
人が必死に蓄えたものを、ただただ奪えば良いのだ。
悪行が最も効率がよいのは何も変わらぬだろうに。
そして、このトクトアはそれが悪行だとは思わぬ。
戦士として戦って勝ち取ったものを、悪行などと呼ばれたくはなかった。
負けたものとて善良ではないのに、ぐだぐだと被害者の振りをして憐れんでくれ憐れんでくれと、ただただ泣き喚くのは情けないとさえ思えた。
弱ければ、強くなればよいだけではないか。
もしくは、トクトアと同じくして他から奪えばよい。
だが、セオラが違う道を歩きたいというなら、別にそうしてもよい。
セオラの考える立派な統治が、為政者として何か人から物を奪う行為が。
ただ少しばかり統治者の負担を増やして、庶民への分配が多いというだけの自己満足が、どれだけ立派な事だと言うつもりだろうか?
このトクトアに言わせれば欺瞞であると言わざるを得ないのだが。
本当に立派な者がいるなれば、本当に何も持たない哀れな者たちを導いて、新たな土地でも一から開拓してみせよ。
うらぶれ、あきらめた者たちの前に姿を現して。
自らに羊を飼い、馬を飼い、血肉まみれの姿で動物を解体してやり方を教えよ。
フェイロン人のやる土地の開拓でも良い。
自らに鍬を持ち、手を血豆だらけにして畑の作り方を教えて見せよ。
そうして、何もかも諦めた者たちに自ら首を垂れさせて見せよ。
彼女らだけの為政者になってみせよ。
そんな馬鹿みたいな女がこの世に存在するのかどうか、怪しいものだがな。
「……セオラの征西において、神聖帝国の相続などを認めると?」
「セオラが最も効率が良いと判断したのなら、そうしても構わぬ。当然だが、征西に費やした財貨はセオラに支払ってもらうが。そして、血を見ることなく皇帝位の譲渡など有り得ぬ。どうしても戦場で殺しあう必要があるのは、セオラとて理解していよう。奴にはお前が望む理想の治世をやりたいのであれば、やればよいといった。ゆえに、どうでもよい」
どうでもよいのだ、どうでも。
このトクトアの目的は、この大陸の征服であった。
だが、所詮は人の身、いくら超人とて枝葉末節にまで自分の命令を、血肉を巡らせることなどできぬ。
セオラがどのような国を作りたかろうが、好きにすればよい。
それに――トクトアという存在はもうすぐ死ぬのだ。
かつてあったというシルクロード、今は寂れた数百名の旅人や商人だけが行きかう道。
その交易路を再度造り上げ、征服し、我が人生の完了とする。
そこまでが我が人生の限界だろう。
「セオラの目指した国が、失敗しないことを精々祈ってやれ」
そう吐き捨てて、終わらせた。
だが、せっかく師が話しかけてきたのだ。
少しは世間話に付き合わせてやろう。
「……しかし、こうなると少し、惜しかったな」
「何が?」
「パルーサの暗殺集団だ。宵の明星と名乗っていたな。せめて、彼女たちの秘術を知るまでは土地を安堵してもよかった」
『山の老人』の秘術は、書物として残されていなかった。
あの知識は少しだけ欲しかった。
暗殺術などくだらぬが、少しだけ気になるところを残したまま、彼女たちはいなくなった。
「あのナヒドという頭目が、私は何百年も生きているとほざいていたことだ」
少しだけ、興味があった。
まあ、本当に少しだけだが。
彼女は腕組みをして、呆れたように吐き捨てる。
「不老不死などはないぞ。あれは、あのナヒドという少女は哀れな傀儡だ」
「いや、さすがに本物と思うてはおらぬ。あの少女が、数百年生きた存在とはとても思えぬ。超人とはいえ寿命はある。フェイロン王朝の愚かな王のように、世界中から不老不死の秘術を集めようなどと思わぬ。そんなものはないからだ」
そういう秘術なのだろうなと思う。
手段は謎だが、どうにかして経験や体験や知識を一族血縁の少女に叩きこんで。
本人さえも、自身が『山の老人』だと思い込むまでに至らせる。
暗殺教団が作り上げた、一種の洗脳術であろうな。
『山の老人』その人が何百年も生き残っているわけではない。
「もし、不老不死なんてものがあろうならば、この超人の超人たるトクトアが病で死ぬわけもない」
病が体を蝕んでいる。
それはこのトクトアが誰よりも理解している。
もって、あと三年だろう。
「できれば、私はお前には死なないでもらいたいのだが」
「おや、師よ。今更私への愛情に目覚めたのかね」
「くだらぬ」
彼女は鼻で笑った。
「お前が死んでも、国は混乱もせぬ。モンゴルに抗う力がフェイロンには残されていないゆえに。私が心配するのは次代を継ぐお前の娘が、私をどれだけ重用するかわからぬことだ。処刑され死ぬのは怖くないが、我がフェイロンの民が後世も大切に扱われるかどうか。それだけが心配だ」
「だろうさ」
国は混乱しない。
あまりにも巨大な国家であるフェイロン王朝以外の、他国家との連携は薄れるかもしれない。
だが、だからといってモンゴルの国家統治が揺るぐことはない。
それだけの武力的優位を保っているのだ。
「殺した、殺した。沢山殺した。もう誰も逆らわない。少なくとも孫の代さえも」
もし、我が帝国が滅びるとすれば。
それはきっと、トクトアが示した恐怖の総てが薄れ去ってしまってからであろうとも。
遊牧民たる我らが遊牧民である誇りを忘れ、石造りの都に住むようになり。
セオラのように泣き言を言いだすようになってからであろう。
「……お前に一つ聞きたいことがある」
「なんでもどうぞ。我が師よ」
彼女は少しためらった後に。
フェイロン人特有の薄い唇と、その銀髪をたなびかせながらに口にした。
「セオラを愛しているか?」
「愛しているとも。娘として。だから、そう心配するな。何もせぬよ」
理想国家を建造したいというならば、そうすればよい。
何もトクトアは邪魔をせぬ。
愛する娘の事だ、止めはせぬ。
応援さえしよう。
「だが、予告するがね。セオラは派手に転ぶよ。転んで泣く。一度必ず失敗をする。それというのもなんだ。あまりにもセオラは奪うという行為を嫌い、舐めすぎているゆえに」
国家簒奪に失敗するのさ。
そんな予感がするよ。
トクトアはそう笑って捨てて。
セオラの師である彼女は、ただ押し黙った。
フェイロン王朝最高の賢人である彼女にとって、それは否定できる現実ではなかったのだ。
第十章 完
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章終わりのため、作者が3巻書籍化作業を終えるまで更新が停滞します。
ご了承ください
また、近況ノートでコミカライズ開始報告がありますので
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