第212話 皇帝位譲渡の企み


主教座聖堂(カテドラル)の一室にて。

まず、口火を切るようにセオラ殿が口を開いた。


「さて、話し合わなければならぬことは幾つもありますが」


部屋には二人しかおらぬ。

教皇たる私と、トクトア・カンの娘であるセオラだけがおり、この会話は誰にも聞こえぬ。

セオラが、少しだけ言いあぐねたようにして、私の目をじっと見つめている。


「何から話しましょう。文などは何十回も交わしました。お会いするのは初めてではありますが。それ以上の熱量を込めて、貴女とは話し続けてきたと考えています」

「……では、私から再確認を」


目を閉じて。

両の掌を合わせ、彼女の思考を伺うように呟く。


「貴女も異端審問に参加されると伺いましたが。本気ですか?」

「本気ですよ。こっそりとローブを纏った姿にて、末席を一つ用意して頂きます」


ぴん、と何かを弾くように指の一本を立てた。

神聖帝国に攻め込む予定の、最高指揮官たる彼女が親しみやすい文化人の表情で言ってのけた。


「……別に、何か騒ぎを起こそうという気はありません。教皇猊下の異端審問を邪魔するつもりもありません。当たり前ですが、ケルン派を批難する意思も、攻撃する意図も。それどころか、選帝侯達に指一本触れないことすら誓っても良い。殺しあう舞台はここではないでしょう」


興味本位ですよ。

これから殺し合いになる相手の顔を拝んでおきたい。

どんな顔をしているのか、どんな事を考えているのか、どんな意志で国を治めているのか。

なにせ、私には為政者の頂点としての経験はないものでしてね。

官僚を統括したことはあれど、国家運営の指導者にはなったことがないもので――まあ、選帝侯の方々は教皇猊下に異端審問の場で殺されてしまうかもしれませんが。

ああ、逆に教皇が殺されてしまうことは勘弁ですがね。

貴女の実力であれば、それはないでしょう。

超人を飽きるほど見てきた、このセオラが保証します。

そう朗らかに笑う。


「そうですね。ケルン派が何を考え、何を隠しているのか。このセオラめが一番興味を示しているのはそこですね」

「私もそうですよ」


そこには同意しておく。

結局、私にとっては皇帝の泣き言も、あの暴力的な選帝侯の群れがどれだけ誇り高かろうと。

どうせ、『本当の国家』の統治者には足らぬものばかりだ。

そう見限ってしまっているので、もはやどうでもいい。

やはりケルン派が焦点になる。

哀れな民衆を暴力や不安から救済するために、彼女たちはどのような手段を見出している?

それだけは気になるのだ。

異端審問などは正直言って、ただのケルン派に対する公開質問の場でしかない。

ケルン枢機卿にとっては死など恐怖でもなんでもなく、恐れるものは信仰を邪魔されることだけだ。

マインツ枢機卿を嗾けたような宗教上のパワーゲームを、何度もやるつもりはなかった。

雑多な思考。


「お前が望む理想の治世をやりたいのであれば、そこでやるがよい」


それを断ち切るように。

セオラが唐突にして、誰かの口ぶりを真似るように台詞を吐いた。


「そう母に言われましてね」

「トクトア・カンに?」

「そう、母上に」


くるり、と。

自分自身の頭に指で作ったピストルを突き付けて、それをねじる様な仕草を行う。

頭脳が回転している、という仕草を行う。

ジェスチャーを何度も行う背景に、セオラという人物が何十か国もの出自の超人を統括、また支配下においている状況が見えた。

コミュニケーションをとるために、自然とボディランゲージの仕草が増えたのだろう。

神聖帝国の公爵、テレメール猪突公などが聞けば歯噛みして悔しがるだろう。

彼女の理想とする超人部隊を率いているのが、眼前の彼女であった。

質も量も、間違いなくセオラが圧倒しているだろうが。


「理想国家をこの地に作りたい。それが私の本願であることは、今更ながらに教皇猊下もご存じですよね。そして、それは神聖帝国の皇帝としての立場であっても構わない。新しい国家を作り上げる形でも。どちらでも」


そして、一流の文化人でもあるのが彼女であった。

私は、セオラという人物にマキシーン皇帝以上の資質を見出している。


「……何度もお聞きしました。何度も。貴女の本願を」


この遊牧騎馬民族国家の王家血族にして、トクトア・カンの娘であるセオラという者が、確かに侵略を目的としていながら、その後には理想国家の実現を目指していると。

なんとも馬鹿げたことを本気で考えていることに、当初私は困惑した。

貴様らが侵略してこないことが、それこそ私の理想だと口汚く罵り、セオラからの使者を追い返したことさえある。

当初は。

当初は、私もそうであったのだ。

教皇として、神聖帝国の信徒を、心安んじるべき人々を守るのが正しいと考えていたし。

それこそが本当の救済だと考えてすらいた。

それが叶わぬならば、外国になど逃げずに神聖帝国と心中しようとさえ考えていた。

だが。

いみじくも、私が見放したマキシーン皇帝に言わせるとだ。


騎士も聖職者も市民も、誰もが自分の利益のため互いに闘争する『万人の万人に対する闘争』が神聖グステン帝国の現実であり、フェーデ(自力救済)が国家の法を上回るのが現実である。

哀れな民衆を暴力や不安から救済するための集合体たる『国家(コモンウェルス)』と呼べるものは、おそらく未だこの世には登場していないのだと思う。

このマキシーンが握り拳を作り、選帝侯や封建領主、商人や市民に対して騎士としての義務を呼びかけたところで、集まる力など知れている。

神聖グステン帝国がおかれた状況において、あと二年の期限付きではどう努力したところで、仮に異教徒への聖戦を起こしたとしてもモンゴルに対抗することは不可能だ。


なんて酷いことを言うのだ。

彼女が、あの痩せっぽちの皇帝が全て、一番言ってはいけぬ者が全てを口にしてしまった。

いまだに私への泣き言をやめぬ、あの皇帝が口にしたのだ。

皇帝などと名乗っているが、私が統治しているのは多分国家ではないと。

そうだ。

何もかもがその通りなのだ。

どう考えても、モンゴル相手に勝機があるとは私の知能では考え付かぬし。

そして、同時に気づいてしまっている。

この神聖帝国は本当に理想的か?

神聖であるのか?

本当に帝国なのだろうか?

そもそも国家であるのだろうか?

我々の歴史何もかもが暗黒であったなどとは、誰にも言わせぬ。

誰もが豊かになるために努力してきたし、少しずつ、少しずつでも文化を積み上げてきた。

パン(小麦)とハンマー(槌)を増やす努力をずっと続けてきたのだ。

だが、本当に私たちは今豊かであるのか。

ひょっとして、とても貧しい時代を生きているのではなかろうか。

物質的にはおろか、心でさえも。

後世の明るい時代から見れば、なんと虚しい時代を生きているのではないかと。

昔から常々考えていたのだ。

何故、人々はここまでお互いの私財を奪い合うのだろうか?

何故、互いの命を平気で軽んじて殺めることができるのだろうか?

他人が大切にしているものを、まるで石ころを大事にしている阿呆を嘲笑うかのように蹴とばして、侮辱して殴りつける。

それでも人間か?

人間と名乗ってよいのだろうか?

宗教家であるならば、誰しもが一度は考えることを、今更ながらに考えるのだ。

何故こんなにも我らは貧しい。

殺しあわなければ、憎みあわなければ、万人に対する闘争を繰り広げなければ。

食料も命も、それどころか自分の人としての権利も守ることすらできぬ。

皇帝の一人娘でさえも、勝利できねば自分にパンを与えるために、父が餓死する姿を見つめねばならぬ。

だからだ。

糖蜜のような声をする、眼前のセオラという人物の囁きに自分を誤魔化せなかった。


「私と一緒に理想国家を作りませんか? そう、聞いたところによれば国家(コモンウェルス)というそうですが。共通善とも呼ぶべき、今よりも遥かによくできた国家を。聞くところによれば、教皇はご自身の宗教が腐敗していることにお悩みだそうではないですか。いっそ、国家とともに希望通りの姿に建て直してみませんか?」


何の冗談かと最初は思ったのだ。

敵国である宗教家の最上位を誘いて、一緒に理想国家を作ろう?

宗教を建て直そう?

最初は、狂っているのかとさえ思った。

セオラという人物の事はよく知らなかったので、調べた。

我ら托鉢修道会の手は長く、それこそモンゴルが支配下に置いた国々にさえ修道士はいる。

何処も彼処も酷い噂しか聞かぬが。

坊主は『あまり』殺されぬということで、辛うじて生き残った人物が言うにはだ。

セオラは唯一といっていいぐらいに『正気』の人物だというのだ。

良い意味でも、悪い意味でも『正気』だと言う。


「うんざりとしているのです。赤子だけでも庇おうと必死に身を挺する母親を、親子もろとも槍で突き殺す姿を見るのも。死体が置き去りにされ、鳥や虫が死体を食い荒らす姿を見るのも」


呆れかえるほどに見たと聞く。

戦場で、街道で、街角で、王城で。

ずっとずっと、セオラという人物は何処に行っても、ありとあらゆる場所で死体を目にしたし。

その地獄を作り出したのは自分の母親で、またその命令に従った自分でもあると言う。


「法治がまとまらず。警邏に裏で賄賂を渡すことで罪の是非が決まることも。その警邏ですら、そもそも裏で賄賂を貰わねば家族すら養えぬことを。法治機能自体が正常ではないことも」


法の不備を訴えた。

誰もが努力しているのは知っている。

知っているが、ちゃんと出来ていないではないか。

そうセオラは語る。


「約束通りに契約を果たして、ちゃんと敗北を認めたものを。相手は弱いのだから何をしてもよいのだと威勢に乗って打ちのめすのを。勝ったのだから何もかも奪って良いのだと。有り得ぬだろう。私はかつて、私に従うのならばお前の権利を守ってやると約束した超人相手に対してです。母上の気分次第でそれを捻じ曲げて、何もかもを奪った挙句に超人部隊から逃げられてしまったこともあります」


その時は、思わず嘔吐しましたよ。

私は約束を守ることすらできない人間なのだと突き付けられた。

母上に何もかも支配されている限り、ずっとその連続だ。


「足らぬ足らぬ足らぬ。何もない何もない何もない。だから奪おう。奪えば自分の物になる。その繰り返し、その繰り返し。何もかもがずっと続いている。母上から産み落とされた時から、ずっとだ。もう嫌だ。人から奪うのは嫌だ。金も物も尊厳も、奪うのは何もかも嫌だ。もっと、何かを。何か尊きものを産み出すものに私はなりたい」


愚痴であった。

セオラという人物が、「正気」だというのは愚痴から分かった。

彼女は悪い意味でも、良い意味でも「正気」であるのだ。

ただ、マキシーン皇帝と違うのは泣き言や愚痴でも、お前らが助けてくれないせいで父親が餓死したなどとほざく。

『何処にでもありふれた』絶望とは違って。

明らかにプラスの方向に向かっていることだけは違った。


「国を作りたいのです。あの母上から逃げ出した先で。ちゃんとした国を作ろうと私は考えました」


理想国家を作ろう。

赤子だけでも庇おうと必死に身を挺する母親を刺し殺すなど、どうあがいても罪となる国だ。

法治が整理され、警邏が賄賂を受け取らず、警邏が賄賂を受け取らずとも家族が養える国だ。

契約が順守され、約束と道徳が守られる文化の国だ。

新しい物を産み出す国だと。

パンとハンマーが溢れた国だと。


「生まれの階級がどうであれ。肌の色がどうであれ。目玉の色がどうであれ。誰もが能力さえあれば成り上がれ、そして能力が足りずとも最低限の文化的な尊厳が許される――そんなものを夢見ているわけではないのです。今はまだ、できないことは理解しております。そんなもの」


そうだ。

そこまでは、パンとハンマーが足りていない。

それは理解できる。


「だが、もう少しだ。もう少しだけ、正気な国は作れないかと考えております。国家が暴力を取り締まり、そうですね、貴国ではマインツ枢機卿とやらが唱えているラント平和令と言いましたか。強盗騎士が無茶苦茶な因縁をつけて、人から略奪を図るような。半傭半賊の傭兵団が国中をうろついており、町や村がそれに怯えて誰もが家族を守るために武器を持っているような。そんな異常な状況下ではない国を作りたい。もっと、国民が国家を信じることができ、その構成員の一人としてあれるような国を」


魅力的な話だった。

だが、同時に理解もしていた。

できるものか、そんなものと。

私はハッキリと文に書いて、セオラに送ったことがある。

別に、出来るのにやらないために国家(コモンウェルス)が成立しないのではない。

誰もが、何もかもが「足らぬ足らぬ」と口走るほどに、何もかも足りないから国家の成立など考えないのだ。

何処か、もっと、後世でその夢混じりの言葉はほざかれるべきであろうな。

そう罵った。

セオラの返事はこうだった。


「東方交易路が成立すれば、世の中はどうなるでしょうね」


と。


「モンゴルという国家が、この大陸を支配することで。流通と国際通商を国家主導によって創出することによって、パンとハンマーがどれだけ産み出されるか考えたことは?」


聞きたくもない言葉だった。

理解はできる。

銀貨を通した現金経済の代わりに、塩(ソケット)紙幣などを国家が発行することもあるやもしれぬ。

その交換保証をすることにより、経済はより活発になるかもしれぬ。

交易路の数キロごとに、馬車の休憩所や宿場、駅と呼ばれるものを設けて、交易の安全を保障することにより。

誰にとっても幸せな、巨大な商業圏が発生するかもしれぬ。

ちょうど――ヴァリエールが。

ヴァリエール・フォン・アンハルトがやっていた。

神聖帝国を揺るがす強烈な商業パレードをやり遂げていた。

彼女が望んでの事ではなかっただろうが、大量の物資を、大量の財貨を、大量の交易品を以て諸国を練り歩くのだ。

そこらじゅうの荘園領主が蓄財した資金を掻き払って、その上で土地で景気よく使い果たして、また旅立っていくのだ。

あれが足りない。

これが足りない。

商業の基本とは、足りないところに足りているところから、物資を運ぶことであるが。

彼女の行軍は確かに帝都までの軍事パレードではあったが、一種の流通網を荘園領主内で作り上げることでもあった。

一過性の物ではないのだ。

彼女と騎士受任式(オマージュ)を行い、晴れてヴァリエールの騎士になった荘園領主はお互いに手を組んで、今後の流通を厳密にすることを誓っている。

――思考がずれてきた。

セオラの目を見ることで、思考をゆっくりと戻す。

彼女の文を思い出す。


「モンゴルは神聖帝国に大きな破壊を産み出すだろう。鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲う。造り上げた農園も灌漑も破壊される。それを育てる領民も全ては軍馬に踏み殺され、血と肉の塊となっていずれ大地に消えるでしょう」


セオラが手紙に送ってきた内容。

それは避けられない運命だ。

抵抗しようとしても、勝ち目はないと私は踏んだ。

だが。


「だが、正直言えば私はそんなものを望んでおりません。そもそも戦自体を望んでいないのです」


モンゴルが望んでいることを、セオラが望んでいるとは一言も言っていない。

それは追記の文から理解も出来た。


「だからだ。教皇。神聖帝国を譲り渡してほしい。このセオラを皇帝として」


鼻で笑いそうな内容を。

最初はそう思ったが、よくよく考えた。

宗教の事。

国家の事。

よくよく考えて、数十回も血が滲みそうな怒りと悲しみを吐き出して、セオラとやり取りを続けて。

一つの言葉を引きずり出した。

私がマキシーン皇帝を見限って、この神聖帝国をセオラに譲り渡そうと決意した言葉を。


「喜んでください教皇猊下。トクトア・カンは、私の母上はあと三年もせぬ内に死ぬ。毒も刃も通じねど、病ばかりは超人の中の超人である私の母上ですら蝕むのですよ。そうすれば私は自由だ。少なくとも、この神聖帝国に、このセオラが統治者として新たな法治を与えることについて。もう、あの女は何の邪魔をすることもできぬのだ」


理想国家の実現を望む、私とセオラにとって。

あの大破壊者トクトア・カンに対して、少なくとも名目上はセオラが神聖帝国の統治者であれば、あとはモンゴル帝国から交易路の利益だけを食んで、国家運営に関しては知らぬ存ぜぬが貫き通せるということ。

それはまさしく慶事以外の何物でもなかった。

その慶事が嘘でない事も、完璧な調査で知っている。

虚偽ではない。

だから。

だからこそ、この私は、セオラに神聖帝国における皇帝の座を譲り渡すことにしたのだ。

どれだけの悲劇や悲惨が起ころうとも。

どうしても避けきれぬモンゴル征西という悲劇を受ける前に、その悲惨を民に出来る限り及ばさぬよう防いだ上で、全うな宗教と理想国家の建設を信じるためには、もうセオラに皇帝位を与えることを教皇自らが是認する以外に他は無い。

まだ。

まだ、語ることは大いにあるが。

少なくとも、トクトア・カンが征西を果たした後にはすぐ死ぬという担保と、そしてセオラという今の皇帝よりも理想的な統治者が現れた以上は。

もはや、私が今の皇帝や、穢れきった正統宗教や、全くもって理想的ではない神聖帝国を守ろうという気など。

砂の一粒さえも消え失せてしまったのだ。

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