第211話 教皇と考える者


「それではケルン枢機卿。何か用があれば姉妹をお呼びください。必要なものがあれば取り寄せましょう。異端審問が始まることを知った新聞を読み、市民の反応を知るなどはいかがです?」

「貴方の言葉以外は、何も必要はありませぬ。異端審問の場にては、全てを明らかにしてください。貴女が何を感じ、考え、このような行動に至ったのか全てを」

「もちろんですよ。それでは」


ケルン枢機卿を部屋に案内する。

ただの部屋であり、監視の目もなければ逃亡を邪魔する兵もない。

出ていこうと思えば、気の向くままに枢機卿は出ていくことができるが――あの方は異端審問の時が訪れるまで、部屋から出て行かないだろう。

部屋を速やかに退出し、何か色々な話をしたい気分を抑える。

仮にも敵同士が、和やかな話をするわけにもいかなかった。

全ては、異端審問における討論の場にて。


「……懐かしや。懐かしや」


独り言をつぶやく。

あの方に、ケルン枢機卿に初めて出会ったのは遥か昔であった。

枢機卿が私の顔を、すっかり忘れてしまうだけの時間。

私は単なる托鉢修道会の一員にすぎなかった。

枢機卿はまだ司教でさえなかった。

とても懐かしい頃の話だ。

私はあの少女時代と比べてねじ曲がってしまったのだろうかと、初心をふと考えてしまう。

やりたいことは――沢山ある。

私の出身である托鉢修道会は、荘園領主化した既存の修道会への腐敗に対する反省から生まれた。

簡潔であれ、清廉であれ、妥協の余地を許すなと。

ただで受け取ったものは、ただで与えなさい。

汝、生きるに過ぎたる物は売り、貧者に施したまえ。

金銀など帯に持つことなかれ、鞄も下着も靴も杖も二つは不要。

贖罪主に付いていくというなれば、己を捨て、十字架を背負え。

たったそれだけの会則から生まれたのだ。

――ケルン派。

托鉢修道会と近くて、少し違うもの。

彼女たちも、ただで受け取った物ならば、ただで与えなさいと常々において戒律を口にしている。

ファウスト・フォン・ポリドロ卿という超人騎士の信仰の在処、アガペーもそうだ。

沢山の古ぼけた農具を抱えて、沢山の使い古したオストラコン(陶片)を抱えて、沢山のボロボロの書物を抱えて、沢山の種苗を抱えて、延々と数世紀もの間を書物のページのように綴り綴りて、何もない開拓地をヤギ二匹に塩樽を抱えて遍歴するもの。

――ケルン派の宣教師。

彼女達が数世紀で変わったものと言えば、マスケット銃を抱えていることだ。

最初はメイスだったので、まあ変わってないと言えば全く変わってないのかもしれない。

今も何処かで、アンハルトやヴィレンドルフといった東方開拓地で、自ら鍬を持ち畑を耕しているのだろう。

何処かの開拓地が少しだけ豊かになれば、開拓地にただで与えたものを回収して、また何処かにただで与えにいくのだろう。

羨ましく思う。

少しだけ、この身がそうであれば、そのように自由に生きていければと思う。

托鉢修道会における一介の宣教師であればよかったと願うとき、夢に見ることは何度もあった。

だが、できぬ。

できぬのだ。

この身にはきっと他にやるべきことがあると、そう思って生きてきたのだ。

ケルン枢機卿と出会ったその時から。

革命的な宗教改革を成し遂げて見せると、そう誓って生きてきたのだ。


「懐かしや」


初心は変わっていなかった。

私が教皇になってまでやりたいこと。

贅沢をしたいなどという欲得や、絹の法衣を身に纏い、ミトラ (司教冠)を被ることでは断じてない。

腐りきった正統を正しき姿に戻す事であった。

嗚呼、托鉢修道会がそう望まれて世に生まれた以上は、正統信仰の何もかもが腐りきっているわけでもないのに。

元々は何処までも清廉であったのに。

貨幣を蓄積することを悪徳と呼んだり、人間の社会的上昇を悪徳であると見なしたり、社会的栄達のために書物を読み、時には聖書を持つことすら許されないと火にくべて灰にしてしまった聖人が作り上げし物が、我が托鉢修道会であるのだから。

妥協の余地など何処にも最初は存在しなかったはずなのに。

なれど、刃毀れした。

信仰をこのような呼び方をするのは間違っているのかもしれないが、いつからか托鉢修道会は刃毀れしてしまった。

誰かが貨幣を蓄積すれば、誰かが貧しくあらねばならないと。ならば、私が貧しくあろうと。

自分の財貨を他人に譲り渡すことを功徳とする教えなど、いつしか消えてしまった。

教会の大切な銀の燭台を金に換えて貧民にやる心などは、どうにも愚かで哀れなものであると見下されるようになった。

そのような事で、人の欲望は救えぬと見限られてしまった。

皆が貧しくて、足りなくて、そのようなものを捧げたところで誰も救われぬと。

教会から銀の燭台が消えただけで誰も救われず、ただただ虚しいだけだと、誰もが諦めてしまった。

人は信仰を拒んで、正統では何も為せぬと諦めて、宗教など誰もが道具のように思ってしまうようになった。

悲しいな、悲しいなあ。

何もかもが刃毀れしている。

托鉢修道会を起こした聖人が目指したものは、穢れてしまった。

本来ならば、本当に今の正統が正しい姿であるならば、私のような化け物が教皇に成れるはずがないのだ。

金の塊で出来た弾丸も、銀食器が反応するヒ素入り毒スープも、裏切り者まで使い尽くして。

そのような薄汚れた手段で教皇に成れるなど、どこまでも正統は劣化しているのだ。

一人でも教皇選出者に信仰正しきものがおれば、私は喜んで座を譲り渡したのに。

一人もおらなんだから、私は誰も彼もを殺しつくして教皇になる羽目になった。

嗚呼、せめてケルン派から誰か選出されればと思う。

だが、駄目だな。

その時はケルン派が腐り落ちていただろう。

托鉢修道会のように。


「悲しい、な」


声に出して、独り言をつぶやく。

全てが正統の信仰を忘れてしまったわけではない。

だが、何度も言うが刃毀れしてしまった。

ケルン派でさえ、成り上がりを果たしたいつかは刃毀れしてしまうように思えた。

妥協をいつしか覚え、組織が拡大するにつれて妥協に妥協を重ね、誰にでも信仰できるように。

複雑に組織的で、堕落して、聖職者の、聖職者への妥協を許してしまうものになり果ててしまうのだ。

簡潔であれ、清廉であれ、妥協の余地を許さぬものとは程遠い.


「悲しいなあ」


何度も何度も呟く。

何もかもか悲しかった。

悲しい事しかないと呟いた。

『ブクブク肥えた醜い体で祈る暇があったら鍬で畑を作りやがれ豚ども。それすらできない豚は屠殺場へ行け』

ある日、一人の神母がそう声高に罵った。

ケルン派にそう言われてしまうほどに、正統は腐りきっていた。

もう、自分から立ち直ることなどできないのだと思う。

托鉢修道会が生まれても。

ケルン派が生まれても。

どうあがいても、正統を立て直すことなどできないというのが私の悲しい結論だった。

もし立て直すとするならば、外的要因が必要である。

托鉢修道会のように、ちっぽけな内からの変化ではない。

ケルン派のような小派閥が、お前らは醜いと突き付けることではない。

もっともっと大きな外圧による革命的な宗教改革(リフォーメーション)を!

一心不乱の大闘争を!

血を流し、互いを傷つけあい、信仰のために命を捧げる光景が。

正統ではなく相対するものが、新教などと呼ばれるものが存在するようになり果てなければ。

そうでなければ、もう正統がまっとうな道に戻れることなどないと私は気づいてしまった。

その望みが私の本願である。

正統には改革が必要なのだ!

どうしても、どうしても必要なのだ!

だが、それだけではない。

もっと多くの事を望む欲張りなのだ、私は。

他人の本願も知りたい。

ケルン派の本願が知りたいのだ。

おおよその予想は付いているが、枢機卿の口から真実を聞かぬことには見極めたとは言えぬ。

『物質を超えたパン』というケルン派が目指す物。

おそらくは善悪区別付かぬ者、全ての腹を満たすための方法をケルン派は探し求めている。

寒くて、腹が減り、惨めで満たされぬゆえに人が悪行に走るというならば。

温かく、腹が満たされ、人として存在を認められれば、罪悪を誰も働かぬ。

一部の狂人めいた少数を除いて。

そうではないかと思うが、どうなのだろうか。

そのような方法が果たしてあるのだろうか。

本当にあると仮定するならば。

ひょっとして――私の方が何もかも間違えているかもしれぬ。

私の選択した全てが間違えているのかもしれぬし、そうであった方が良いかもしれぬ。

間違っていたならば、それはそれで正さねばならぬ。

私はケルン派に、ファウスト・フォン・ポリドロ卿に殺されなければならぬ。

そんなことばかりを考えている。


「嗚呼」


溜め息をついた。

この懊悩も、もう少しだけの間であろう。

客人の部屋へとたどり着く。

もっともっと考えることはある。

だが、今ではない。

脳内の総ての知略を、超人としての知恵を絞りつくさねばならぬ今現在のことではない。

これから私は、神聖帝国を売るのだ。

売るも同然にして、『譲り渡す』ことにしたのだ。

王権神授説を否定するマキシーンと名乗る小娘ではなく。

いつまでもグチグチと、父親が餓死して死んだなどと「小さなこと」で喚いている小娘ではなく。

もっと大きな視点で、大きな国からやってきて、大きな才能を秘めている。


「入りますよ。よろしいか?」


ノックの音。

客室の前に佇む、警護の兵が私の代わりにノックをした。

変わった装束をした、『異国の者たち』であった。

パールサの者がおり、フェイロンの者がおり、この神聖帝国では名を聞かぬキュレゲンという国の者たちがいた。

誰一人として、超人でないものなどいなかった。


「構いませんよ、教皇猊下」


部屋から声が響いた。

失礼をしたとばかりに会釈をして、異国の者たちがドアの前から退く。

私はドアのノブをゆっくりと回した。

私が口を開く前に。


「……状況はどうですか」


彼女の口が開いた。

静かに、何か英知を秘めたような声色だった。

文弱な娘ではなく、戦場においては1万の騎兵を率いる万人隊長と聞くが、武人とは思えない声色で。

優しく彼女は囁いた。


「貴方の、神聖グステン帝国を私に譲り渡したいという計画は順調に進んでいますか。教皇猊下」

「もちろんですよ」


ああ、真実彼女は優しいのだろう。

それでいて計画達成のためならば、母親の命令とあらば何もかもを残酷に切り捨てることが出来るだろう。

私は彼女を知っているし、それだけは疑うことはないけれど。

同時に、私との契約を裏切らぬことも知っているのだ。

こちらを裏切らぬだけの担保を確保しているのだ。

だから、私は。


「全ては貴女との契約通りに、物事は進んでいますよ。セオラ殿」


親しい友人のように、彼女に計画の進捗を告げることにした。

神聖帝国の帝都にまで堂々と乗り込んできたトクトア・カンの娘、セオラにだ。

現在の状況全てを教えてやることにしたのだ。


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