第210話 斧と薔薇
アンハルトの紋章は『斧と薔薇』で形作られている。
私はその紋章が好きで、いつでもどこでも旗章を持ち運ぶように部下に指示していた。
まるで戦場における本陣のようにして旗章が掲げられた私室にて、私は考え事を続けていたところである。
ファウスト・フォン・ポリドロの忠誠の在り処を。
彼の忠誠は私に委ねられているのか、求めれば答えてくれるのか。
どうしても考えざるをえなかった。
だが――容易きを求めるならば、思考の渦に嵌まる必要はない。
眼前にいる者に尋ねればよいだけだ。
「私は貴卿の忠誠を疑っている。ただし、それは私の器量不足がゆえに。そのことに気づいているか、ファウスト」
「知っておりますとも。アナスタシア殿下」
それはいつ、どのようにして気づいた?
アスターテに説明されたからか、それとも従士のマルティナに囁かれたからか。
それを尋ねる意味などは、あまり無かった。
必要なのは、どうして私がファウストの信頼を疑い、その疑念に対してファウストがどう返事をしてくれるかである。
私室に訪ねてきたファウストに、悩みを打ち明けようとする。
……誠意を見せる必要があるのは、疑念を抱かざるをえない状況に彼を置いた此方。
なれば、先に口を開くのはこちらからであるべきだ。
「そもそも、私は一度たりとてファウストを自分の手中に収めたなどと思ったことはない。私の配下として、思う存分に働かせることが出来るなどと思ったことは一度もない」
「……それは?」
ファウストが、怪訝な顔をした。
彼の中では、そのような身勝手な女になっていたかもしれないが。
なかなかどうして、私はちゃんと自分の立場を弁えているのだ。
そのような勝手な勘違いをしたことはない。
何故ならば。
「あの子が。私の妹であるヴァリエールが初めて自分から能動的に掴んで得た配下であり、相談役であり、自分の騎士として初めて選んだ者であるからだ。騎士ならば第二王女親衛隊もいるが、明確に違う点がある。自分から得んと手を差し伸べたか、勝手に付いてきたかの違いだ」
ひょっとしたら、あのチンパンジーのザビーネは違うかもしれないがね。
そう言葉尻に付ける。
彼女だけは、望んでヴァリエールの下に付けるよう誘導したのかもしれないが。
その疑いはあるが、あのチンパンジーの忠誠など私は欲しくもないので、どうでもよい。
一生ヴァリエールに引っ付いていろ。
大事なのはファウストだけであった。
「私は一度、ヴァリエールに尋ねたことがあるよ。ファウスト・フォン・ポリドロ卿を私にくれと。ヴァリエールは答えた。あの小さくて、オドオドとした子が、精いっぱいに背伸びをして答えたのだ」
今でもあの子のセリフは覚えていて、口にも出せる。
「ポリドロ卿は我が相談役にして、私の大事な配下です。姉さまを主君として讃えるのは、姉さまがアンハルト女王に成りて、私が僧院に籠もった後になりましょう。順番を飛ばして要求を突きつけるのは、筋違いかと、と。そう答えたよ」
あれはよかったな。
そうだ、よかった。
騎士を従える主君としての、誠に立派な返答であったのだ。
私などは思わず姉として喜んで、それを許してしまった。
「だからまあ。私は流れに任せてお前を騎士として迎えるなら良いが。わざと妹に失敗をさせたり、強引な手段をとってお前を配下にしようとはしなかったよ。ヴァリエールの、あの子の大事な騎士だったからな」
私は今、本音を口にしている。
ヴァリエールも、あの子も立派になったものだ。
初陣前からは考えられないほどに、帝都に出向いてくるまでの旅路にて。
アンハルト選帝侯家一族の一人として間違いなく血のつながりがあると、私が胸を張って誇れるほどに立派になったのだ。
「……そして、お前も間違いなくヴァリエールの相談役であり、あの子を主君として支え続けてくれた。そうだな、姉として心から礼を言っておきたい。あの子に忠誠を誓ってくれて、有り難うと」
その気持ちは間違いなくある。
それとは表裏した思いとして。
「そして、同時に思うのだ。あの子よりも、お前に早く会えればよかったのになと。お前ほどの騎士であるならば、私は両手を開いて称賛の限りを尽くし、山のような褒美を積んでお前を出迎えたであろう。それで、お前は私の騎士になってくれたかどうかわからぬが」
ヴァリエールの先に未来などないぞと声をかけたこともあるが。
私にも情があるのだから忠誠の矛先を変えるのも無理だと、けんもほろろに断られてしまったこともあるしな。
懐かしいな。
ヴィレンドルフ戦役から何年も経たぬのだが。
遥か昔の事のようにも思えてしまうのだ。
「……ファウストに尋ねる。お前の一番はヴァリエールでも良い。なれど、アナスタシアとリーゼンロッテならばだ。どちらに忠誠の矛先を向ける? 母と私、どちらを優先する?」
「それは意味のある質問でしょうか? どのみち、最終的にアナスタシア殿下のみに私の忠誠は移動します」
ファウストが怪訝な顔をした。
なるほど、権力の移譲までもう時間はない。
私が選帝侯継承式を済ませれば母リーゼンロッテは隠棲し、ヴァリエールはポリドロ家の当主となるだろう。
アンハルト王家は、選帝侯家は全て私の物となる。
当然、ファウスト・フォン・ポリドロという忠誠の矛先も私へと向かうであろう。
だが。
「……答えてくれぬか?」
本音を言えば、せめて母よりは私を選んで欲しいのだ。
将来ではなく、今ここでだ。
どうも、我が人生の流れは良くない方向に向かっているようで、悪寒さえもする。
私の人生は選帝侯継承式に辿り着くこともなく、それどころか異端審問の場で終えるような気さえもするのだ。
教皇は手強い。
何もかもを読んだうえで、手招きするように待ちかまえているのだと。
そう認識を改めざるを得ないことはファウストの報告ですでに知っており、彼自身も悪寒のようなものを感じていると発言している。
十分に恐れを知り、警戒すべき状況だった。
だがしかし、だ。
「もしお前が私を選んでくれるというならば、千剣の敵兵が今ここに現れたとて恐れはせぬだろう。万の槍が降り注いだところで笑いすらするだろう。神が怒り狂いて、破滅のラッパを吹いたところで気づきすらせずに、檄を飛ばすだけであろう。私の騎士に敵うものはこの世の何処にもいまいぞと。答えてくれ」
改めて告白をしようと思うのだ。
情欲にかぶれた物ではなく、主君と騎士としての告白である。
私は一人の王として、ファウストという騎士が欲しかった。
たとえ聖ゲオルギウスが眼前に現れたとて、私の騎士の方が上だと言ってやるのだ。
そこまで彼に惚れこんでいるのだ。
私の初陣の時から、レッケンベル卿を見事撃ち破り、私の破滅を救った時から。
「……ならば答えます。何度も繰り返すと、言葉も薄くなりましょう。ゆえに一度だけ」
ファウストは、微笑んで膝を折った。
主君と騎士の叙任式 のような姿で。
「私が貴女に、アナスタシア殿下に発言する言葉などは一つしかありません。貴女の母君リーゼンロッテと、どちらが私の中で優先すべきかなどは論ずるべき価値もありません。私が命を捧げるという誓いの前には、順序など些末なことにすぎぬでしょう」
ただただ滔々と、これのみが本音であると疑いの余地などない。
銅鑼を力いっぱい叩いたような声で、何もかもを笑い飛ばすように誓うのだ。
「恩寵のため、主君の力のため。私のポリドロ領の安泰と、それを守護してくださるアンハルト王家のため。ケルン派への信仰と、我が騎士道のために。たとえ何が起ころうと、天地が裂け、海が怒り狂おうと、全く怯むことなどせず。アナスタシア・フォン・アンハルトという一個の存在のため勇敢に命を捧げると、今この場で誓いましょう」
私が求めている答えを示してくれた。
私のためなら死んでもいいと誓ってくれた。
それだけで。
「……」
顔を両手で覆う。
長い髪を掴み、まるでカーテンのようにして、頬すら見せぬように。
私の顔は赤く染まり、瞳などは潤んでしまっているだろう。
「そうだ。私はそれだけが聞きたかったんだ」
涙声が混じりそうになりながらも、決してバレぬように声を張り上げて。
「よろしい! いつか、いつかヴァリエールがお前の妻となり、そして私に忠誠の矛先が向くまでは、この眼前の誓いにて、全て満足とすることにしよう!!」
ファウストの忠誠を疑う必要はなく、たとえマスケット銃の集中砲火を受けたところで。
彼は銅鑼のような声で笑って、全ての銃弾を受け切って弾き返してしまうだろう。
私の。
私の騎士は、私にとってそれだけの存在なのだから。
夢物語に出てくるような、誰もが我が配下にと望む騎士なのだ。
「もはや恐れるものなど、何もない。異端審問の場で何があろうと、しのぎ切って見せようじゃないか。教皇が何を企もうが、このアナスタシアが負けることなどはあり得ぬと」
髪から手を放し、顔を赤らめたまま精いっぱい声を張り上げて。
「最も騎士にふさわしいお前が、いつか仕えることになる女が。主君としてどれだけの者か、教皇の前にて見せてやるとしよう。ファウスト・フォン・ポリドロ」
心臓音がドクドクと鳴りやまぬのを必死で誤魔化して。
私は、もう恐れるものなど何もないと思った。
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