第207話 ザビーネが欲しかったもの


 雨の音が聞こえている。

 突然のざあざあ降りで、窓の鎧戸などが慌てて閉じられる音が聞こえている中で。

 私といえば、むしろ雨音が心地よいとばかりにベッドに腰かけて考えるのだ。

 不調である。

 何か産みの苦しみのように、経産婦どころか処女でしかない私にはわからぬ感覚ではあるものの。

 自分を包む薄皮一枚の何かがめくられるような気分になっているのだ。

 今までの人生でずっと、不気味な子として母や親族に扱われて生きてきた。

 あの子には人の心がないのだと。

 私はそれに対し、嘲け笑って返すのだ。

 産んで育てたのはあんたと、その一族だがねと。

 鼻で笑って口にするが、実のところ、それは真実ではないと自分が一番よくわかっている。

 私は生まれつきこうなのだろう。

 他人に慮って、自分の欲望を制御するという理由がわからぬ。

 人の痛みを知れだの、自分ばかりが得をして人から奪って満足かだの。

 最終的には誰もが何か理由をつけて「そうする」くせに、表面だけは公平や誠実や道徳や優しさを気取るという連中が、このザビーネは腹の底から大嫌いなのだ。

 それ以上にヴェスパーマン家という、母と氏族から漂う暗部の薄暗い匂いが大嫌いであった。

 その匂いが全く違うものであること、我が実家のやらかしによる衰退の臭いであると知ったのはつい先日、妹の口からの告白からであったが。

 今ではどうでもよいことだ。

 私は母をいずれこの手で殺すだろうし、そうしたいと思っている。

 だが、そこに大した意味はない。

 かつてヴェスパーマン家の一族であったものとして、まあ色々と取り繕うためにやらなければならぬことであって。

 重要事項ではない。

 そのようなどうでもよいことで、現状に憂鬱を感じているのではない。

 何か産みの苦しみのように、感じているものがある。


「ヴァリエール殿下」


 一言だけ呟いた。

 表面だけは誠実や道徳や優しさを気取る連中のなかで。

 誰かがそのような風評をヴァリエール殿下にかぶせようものならば、腹の底から違うと口にしてそいつを殺すのだろうと。

 そう断言できる私の理想的人物が、ヴァリエール・フォン・アンハルト第二王女殿下であった。

 帝都ウィンドボナ包囲戦のため、暗部たる母が紋章官として帝都に出向いていた間に。

 警戒が緩んだ家を飛び出て、少し見分でも広めようかと当主代理としての登城権を利用して、入り込んだ王宮で。

 私が13歳の時に彼女を見つけたのだ。

 風評によれば、姉アナスタシアとは比べ物にならぬ凡愚であり、才能をすべて奪われてしまったかのような少女で。

 妖精のような貴族として容姿こそ恵まれど、体躯には恵まれず一介の騎士として頼るには力量が乏しく。

 香しい花の匂いつきの声こそすれど、戦場全てに響かせるには心もとない。

 あれではスペアとするにも心もとなく、それこそアナスタシア様に全ての忠誠を向けた方が誰のためにも良い。

 誰もが目を向けず、縁を繋ごうとも考えぬ。

 そのような少女が当時のヴァリエール殿下であった。

 哀れなものだと――ふと、私は宮廷にて彼女とすれ違った際に、そう思ったのだが。

 その時、彼女は小鳥を手にしていた。

 王家の家紋刺繍入りハンカチに小鳥を乗せ、白い布にはわずかに血が滲んでいた。

 ぱたぱたと、足早に歩いていた気がする。

 私は暗殺者として育てられた実力を発揮して、そっと、彼女に気取られぬように後をつけた。

 宮廷の内部構造は知らぬが、まあ彼女の望むところ。

 ヴァリエール殿下の出向くところは理解できており、医務室であろうとは思った。

 小鳥を。

 あの息絶える寸前の小鳥を拾いて、どうにかならないかと頼もうとしたのだろう。

 答えはまあ想像できる。

 宮廷医の真剣さにもよるが、食えもしなけりゃ、伝書鳩にも使えぬ小鳥を癒やすわけもない。

 ヴァリエール殿下の頼みに答えてやるにしても、人ならともかく小鳥を癒やすための経験が医師に無いだろう。

 せいぜい、慰めの言葉をかけてやるぐらいではないのか。

 慰めの言葉はこうだ。


『その小鳥も、優しいヴァリエール殿下の御情けを頂けて幸せだったでしょう』


 笑わせる話だ!

 小鳥が言葉だけのお情けなど欲しいものか!!

 必要なのは癒やしそのものであって、お気持ちや同情心などではない。

 結果こそが全てで、何をしてまでも癒やしてくれたという結論だけが必要であるのだ。

 そうまでしてやったところで、小鳥は何も返さないがな!

 所詮、生まれついて弱いものは何も為せないのだ。

 そういうものだ。

 あの殿下もそのうちに飽いて、小鳥など庭のそこらに打ち捨ててしまうだろう。

 あるいは、静かに何処かに埋めてしまうか。

 いや、その埋めるという行為すらも自分の申し訳なさを誤魔化すための行為にすぎぬ。

 小鳥が可哀想だからではなく、小鳥を助けてやれぬ自分が可哀想だから。

 それを慰めるために行動するように、人間はできているのだ。

 醜いものだ。

 どうせ醜いものならば、最初からそうあればよいものを。

 私のように。

 私は医務室から少しで出てきたヴァリエール殿下を見つめ、だんだん飽いてはいた。

 だが、どうしてか、どうしたものか。

 殿下の物悲し気な顔は、私の心を少しだけ引き留めた。

 最後まで見届けようかとふと思った。

 さっさと捨ててしまえ、そうすれば私は家に帰る。

 そのまま実家を飛び出して、強盗騎士になってしまうのもいいな。

 そんなことまで考えて、殿下の後ろを暗殺者のように忍んで歩く。

 ふと、庭で止まる。

 バラ園であった。

 やはり埋めるのだろうかと、私は考えるが。


「ごめんなさいね。私の力ではあなたを救えなかった。ごめんなさいね」


 謝罪の声が聞こえた。

 小鳥はすでに事切れていた。

 殿下は、死体の小鳥に詫びていた。

 私の気配に気づくことなく、独り言で詫びているのだ。


「きっと、私の祈りはあなたの何のためにもならないのでしょう。あなたにも帰るべき居場所が、巣があったのかもしれない。あなたにも家族がいたのかもしれない。どちらもなくて、あなたは一羽で生きていたのかもしれない。どれも私にはわからないことだけれど」


 真摯な謝罪であった。

 聞いていて、何処か不愉快で、そのヴァリエール殿下という存在そのものが世界に不適格で。

 家畜でもない小鳥に向けるにはふさわしくない言葉であった。


「せめて主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。あなたの死が誰かに、せめて私に看取られたことがせめてもの慰めでありましたように……」


 愚かな子供だと、憎しみすら湧いた。

 何をしているのだと。

 何故、人に向けるべき祝福を小鳥などに口にしている。

 所詮は善悪の区別なく、ただ生きるために生きているだけの畜生なのだ。

 お前の行為には何の意味もないと。

 お前のその善良を与えられずに、一人ぼっちで虚しく、何も得られず、何にもなれずに死んでいく哀れな人間がこの世でどれほどいると思っているのだ。

 ゴミのように死んでいく農奴や黒騎士、家や家族すらない野盗にすらなれぬ、市民権を得られず人とすら認められないものがどれだけいると。

 思わず飛び出て、そう殿下を罵りそうにさえなった。

 だが。

 そうはしなかった。

 ヴァリエール殿下の瞳が、静かに潤んでいるのを悟ったからだ。

 私は罵倒を口にしようとしたが、噤み、静かにその場から立ち去って。

 頭の血が落ちたように真っ青な表情で、忌むべき実家の自室へと帰りついてから。

 心臓がバクバクと鳴り出したのだ。

 そうして呟いたのだ。


「私は真に美しいものを見た。殿下は本当に心の底から、あの小鳥の死を憐れんでおられたのだ」


 あれだけだ。

 あれだけが、この世の総てで唯一美しいものであるかのようにして、私は倒錯した。

 そうだ、一種の、領主騎士として教養があるポリドロ卿が指摘してくれるところのフェティシズムを覚えたのだ。

 ヴァリエール殿下という存在そのものに、崇拝を覚えた。


「私だけが理解しているんだ」


 極めて陶酔したのだ。

 私だけがこの少女の優しさを、本性を、誰もが未だ目を向けぬ心優しさを理解していると。

 それどころか、殿下の母や姉すら選帝侯家を継ぐものとして価値なしと見切った原因である善良を。

 私は嫌っているものと全て相対する、真に美しいものを見た。

 どうしようか。

 どうしても、私はあの殿下のところに辿り着きたい。

 実家の当主を継ぐことなどはもとより知ったことではないし、どうでもよいことだった。

 何か騒ぎを起こして、権利を勝ち取ることにしよう。

 そうだ、権利だ。

 ヴァリエール殿下の側近として、第二王女殿下の親衛隊として侍る権利だ。

 私は一生、あの殿下の瞳で見つめられたい。

 力届かずして虚しく死んだときは、彼女に本当に心の底から憐れまれて抱きしめられたい。

 一生をかけて私の死を引きずっていてほしい。

 それ以上に得られる栄光などが、私にとってこの世の何処にあるものか!

 私はそのためならなんだってしようと思い、何だってした。

 そうして見事第二王女殿下親衛隊の立場を勝ち取って、14歳にして隊長になった。

 そうだ、あれから4年以上が過ぎた。

 色々とあった。

 殿下親衛隊の連中は誰も彼もが行き場所なんてなくて、捨てられた猫や犬みてえな面をしていたのに、ヴァリエール殿下に声をかけられたとあれば爛々とした目になる。

 あれは私のだぞと言いたくもなるが、自分が大好きなものが人に認められたとあれば、同時に小気味よい気分でもあった。

 やがて、その中に男騎士が一人加わった。

 ファウスト・フォン・ポリドロ卿という名前で、やはりアンハルトでは誰からも武骨な容姿を馬鹿にされているが。

 時々はヴァリエール様の魅力に触れて「仕方のない人だな」と愛おしそうに笑うのだ。

 だから、私は彼も嫌いではない。

 いや、むしろ、どうしようもなく好きになっていた。

 私はいつしか、このままそれで時間が過ぎていけば、死ぬまでこのままでもよいと。

 殿下と親衛隊とポリドロ卿の皆で、永遠が過ごせればよいと。

 やっと息詰まりの虚しい人生で、初めて呼吸が出来たような気分にさえなったのだ。

 だが、私の親友は死んだ。

 私と同じで家が大嫌いで、家名すら名乗りたがらないハンナという名の女だった。

 彼女にとって最大の慰めは、自分にとって一番大切なヴァリエール殿下を守り切り、代わりに自分が死んで。

 その死が最後まで看取られたことであった。

 私は狂ったように泣いた。

 生まれて初めて人の死がここまで悲しいということを知って、狂ったように泣いたのだ。

 グズグズと泣いて、泣いたが、ポリドロ卿が慰めてくれた。

 死んだハンナのために、小さな花で棺を埋めてくれた。

 だが、そのポリドロ卿も奇妙なことをした。

 縁もロクにない、たかがマルティナというガキ一人のために自分の頭を床石にこすりつけた。

 王命に逆らって助命嘆願をしたのだ。

 私は困惑して、彼に尋ねた

 何故貴方は、あのように何の利益もない行為を、と。

 ポリドロ卿は答えた。


「……親の罪を幼き子が背負う世の中は、たとえ青い血でもおかしいとは思わないか」


 真剣な表情だった。

 愛おしさに溢れていた。

 ヴァリエール殿下が、小鳥の死を憐れんだ時と同じ表情であった。

 私はその時に気づきかけていたのだ。

 狂っているのは、醜いのは世界ではない。

 きっと私の方なのだと。

 私がこの世で一番醜いのだと。







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