異端審問編 上
第194話 物質を超えたパン
ケルン派の魂とはなんぞや。
生命の灯とはなんぞや。
肉の焔(ほむら)とはなんぞや。
姉妹に問いかける。
我々の宗派が何が為に自分の魂を、生命の灯を、肉の焔(ほむら)を燃やしているのか。
姉妹に問いかけるぞ。
我々は何を目指しているか、それを姉妹は答えることが出来るか。
それをちゃんと認識して、ケルン派として歩んでいるのか。
姉妹、貴女の考えを述べなさい。
そう尋ねたのはケルン派の枢機卿である。
真意を問われたのは一人の助祭であり、私であった。
ポリドロ領と呼ばれる僅か300名の領民が住む貧しい土地、ファウスト・フォン・ポリドロ卿が当主を務める封建領地にて信仰を灯すケルン派の助祭。
それが枢機卿猊下に拝謁する私の今の立場であった。
「はい、答えます。枢機卿猊下。私は『物質を超えたパン』こそが本願と考えております。アンハルトの司祭様には否定されてしまいましたが、この私の知識ではそれ以上の答えを導きだせません」
人はパンのみにて生きるにあらず。
そう贖罪主は仰った。
精神的満足・充実が無ければ人は生きていけぬと。
全く以て仰るとおりであるが、同時に人はパンを食べねば生きていけぬではないか。
ある日、一人の神母が呟いた。
別に、贖罪主の言葉を否定するために、そう呟いたわけではない。
ただ誰もが抱く共通認識であり、事実の確認にすぎなかった。
人は、パンとワインを口にせねば生きていけぬのだ。
魂を、自分の血肉を保つためには何か食べなければならぬ。
だが貧しかった。
ただひたすらに、私たちが生きるこの時代において、人々は貧しかった。
皆が貧しくて、畑をいくら耕しても腹いっぱいになれる者などは少ないのだ。
腹いっぱいまでパンとワインを口にできる者。
それは王様、貴族、宗教家で。
戦う人が先で、祈る人も当然先で、働く人は最後も最後。
畑をいくら耕しても、自分が耕した作物を満足に口にできる農民などは数少なかった。
だから、どうにかして、誰もがどうにかして。
心ある王様も、信念ある騎士も、ただお腹が空いているだけの農民も。
誰もが作物の収穫量を増やそうとして、畑を耕して、そこから食べ物を得ようとした。
土から作物を得て、また作物で家畜を養い、食料を得る方法を手に入れようとした。
では、宗教家は?
一人の神母が自問自答した。
食料の貯蔵・生産を目的として政治に専念できる王様を産み、官僚を産んだ。
領土を奪うために、防衛するためにも騎士を産んだ。
では宗教家は?
人を慰めるために存在するという側面を見るとして。
果たしてその領分を全う出来ているのか?
「人はパンのみにて生きるにあらず」と声高に説教が出来る宗教家など、もはや一握りとているものか。
世間を見よ。
男娼を買って市街にて悦楽を楽しむ詐欺的な姦通者、金により権限を売り渡す聖職売買者、肥えた身体を揺すりながら貧乏で痩せた農奴に説教をする聖職者。
これが堕落した教会の現状である。
何が正統だ、笑わせやがる。
お前らは全く以て落ちぶれやがったのだ。
贖罪主が目の前におられれば、こう仰せになるだろう。
『ブクブク肥えた醜い体で祈る暇があったら鍬で畑を作りやがれ豚ども。それすらできない豚は屠殺場へ行け』
ある日、一人の神母がそう声高に罵った。
彼女は異端とまでは呼ばれなかったが、教会からは叩きだされた。
その叩きだされた神母が一念発起して作り上げたものが、ケルン派という宗派の始まりと言われている。
だが、事実かどうかは知らない。
「私がケルン派の信徒となり、一姉妹として家を飛び出して。教会に入った当時はそう伺っておりました」
最近、また更新されていると写本家の姉妹が呟いていた。
新たに古文書や資料が『発見』されることにより、そのクオリティ次第ではケルン派の来歴や、聖書が差し替えられることなど珍しくもなかった。
最高に人の心を揺さぶる内容であれば、永遠に『新世紀贖罪主伝説』に発見者の名前と、そのエピソードが刻まれるのだ。
もちろん、世間の流行と言うものは我ら宗教家こそが読みとらねばならず、最新版を闇雲に発行するだけでなく、過去の版の再掲載も当然必要であるとして、本拠地に厳重に保管されている。
時々、昔のあの話が載った版が読みたいと姉妹はもちろんのこと、王族や貴族、商人などからも発注がかかるのだ。
『新世紀贖罪主伝説』に一度でも載ったことがある以上は、どれもこれも力作揃いであるとケルン派の聖職者なれば胸を張って言えるのだ。
我ら姉妹はケルン派の本拠地から各地方に塩と一緒に配布される最新版を楽しみにしているだけでなく、ちゃんと保管されている過去の版にも目を通して、その発見者である姉妹に手紙を送ったりもしている。
文面はこうだ。
『はじめまして、アンハルト王国とヴィレンドルフの境目にある、ポリドロ領にて助祭を務めているアルマと申します。〇版、〇章の姉妹の発見を拝読いたしました。全く本章のエピソードは素晴らしい内容で、私などはただひたすら感服して姉妹の発見に対する感動に打ち震えるだけでありました。僭越ながら、姉妹のファンになってしまったことをお許しください。最近は『発見』にあまり参加できず、やはりインスピレーションは若い姉妹の特権だ、などと巻末の発見者あとがきにて書かれておりましたが、そんなことはありません。姉妹は素晴らしい『発見』実績があり、今後も活躍されることを誰もが期待しております。ポリドロ領の神母様も『この方、もう私の若い時には『新世紀贖罪主伝説』の半分を埋め尽くす勢いで発見してたんだから。本当にケルン派信徒の誰もが熱中したのよ』と口にしておりました。姉妹の『発見』をこれからも期待している私のようなファンがおりますことを、お心に留めて頂けますと嬉しいです。追而書、ポリドロ領は辺境地のため返信不要です』
もちろん、ケルン派において名高い発見者である姉妹は高い地位にあり、普段は彼女に対する礼法を弁えねばならぬ。
このように気軽な手紙なんて本来は失礼に値するのだが、『発見者』と『読者』では階級差をあまり意識せぬようにというのがケルン派の方針であった。
節度を以て、同時に傲慢の悪徳を抱かずというのがケルン派姉妹全てに求められていた。
一般姉妹は『他人の発見を見て、観賞という方法で批評する』という行為で信仰を表現し、写本参加者は『インスピレーションにより新たなる発見を行う』という行為で信仰を表現し、聖書を発刊するケルン派総本部は『新世紀贖罪主伝説のクオリティを常に高め、維持する』という方法で信仰を表現している。
誰もが同じ姉妹なのだ。
誰の地位が高くて、誰の地位が低いという区分けは組織運営上どうしても必要だが。
聖職者の本分たる信仰が何より大事であることを忘れてはいけないと、歴代の枢機卿は仰っている。
「姉妹よ。違います。『物質を超えたパン』はケルン派の本願ではありません」
枢機卿猊下は、静かに私の言葉を否定された。
ですが、と口にしようとして止める。
反論をすることは傲慢である。
ケルン派帝都大聖堂。
天井のステンドグラスを静かに指さして、枢機卿は語られた。
「『物質を超えたパン』は至る道の、経過点に過ぎません。もっともっと、遠いところにあるのですよ。空に浮かぶ星々よりも、それはきっと遠くて――月まで辿り着くような。同じことをアンハルトの司祭も言ったことでしょう」
厳かに、枢機卿の御言葉が紡がれる。
「きっと、貴女はこの帝都にて、ケルン派の本願その全てを知ることになるでしょう。そう遠い日ではありません。その時、私はおそらく異端審問にて教皇にお呼ばれしている頃でしょうが」
「枢機卿猊下、そのような要求など突っぱねてしまえば」
断ってしまえばいいのだ。
私が派遣されている領地のファウスト様も、激怒しておられるのだ。
このまま甘んじてそのような要求を受け入れる必要はないと、すでにアンハルト・ヴィレンドルフ両選帝侯に訴え出ている最中である。
「さて、どうしましょうかね。私は教皇に色々とお話ししたいことも、お聞きしたいこともあります。命を賭すことで教皇が隠されている秘密を明らかにし、そしてどのようなお考えでケルン派に異端審問を仕掛けたか知るというのも――この老骨の身の処し方としては悪くないでしょう」
枢機卿はそう仰って。
私に両手をすっと差し出した。
「それはさておき。姉妹がせっかく帝都まで辿り着いたのです。先に旅の目的を達成してもらうとしましょう。さあ、この手に聖遺物を」
「はい」
私は頷いて、両手で聖遺物を持ち上げた。
『聖ゲオルギオスの聖なる戦棍』である。
ケルン派に改宗した民衆の前にて、聖ゲオルギウスがこの聖なる戦棍で滅多打ちにしてドラゴンを殺処分なさったという聖遺物である。
両手でそれを掲げ、崇敬の念を抱いているようにして、丁重に枢機卿猊下に見せる。
「よろしい。受け取ります」
枢機卿猊下は老骨なれど、ケルン派としてよく鍛え上げられている。
それを受け取りて、ぐるんと手首を返した。
戦棍を振るためではない。
「さて、と」
猊下が欲したのは、柄の真下を見ることであった。
右手で柄を握り、左手で何か蓋を回すような仕草をする。
いや、仕草ではなく、実際に回しているのだ。
柄には溝があって、柄の真下には蓋があって回転させることが可能で、柄の中には僅かな空洞があった。
枢機卿は右手で戦棍を持ち上げて、それを少し振って。
左手で、空洞に入っていた中身を受け取った。
「アンハルト司祭の研究進捗はどうでしょうかね。ああ、残念ですが助祭にこの内容を教えるわけにはいきません。いつか教える日も来るでしょう。ご苦労でした。貴女の部屋はちゃんと用意してありますので、部屋の外で待っている姉妹に案内してもらいなさい」
「はい」
枢機卿の左手には、一枚の丸まった羊皮紙と。
後は、何か奇妙な形をした弾丸が収まっていた。
はて、アレは何だろうか。
羊皮紙の内容も気になるが、それ以上に弾丸が気になっている。
アレは確かに弾丸のはずだが、それにしたって奇形であった。
マスケット銃の丸い弾丸ではなく、椎の実のような形をしているのだ。
聖遺物の柄と同じく、弾丸の底には溝が切られており、凸凹があった。
「溝を切る冶金技術は完成したということか。これならば、弾丸だけでない。銃身内部に溝を切ることもできよう。大量生産することだって可能だ」
背を向け、静かに立ち去る中で枢機卿の御言葉を聞き取ってしまう。
わざとではないが、私はどうも耳が良いのだ。
言葉を拾って、それにどのような意味があるのかと考えてしまう。
どうせ、部外者の誰にも口に出来ぬことであるのにな。
「だが、欲しいものではなく、その副産物ばかりが産まれてしまう。我らケルン派の本願はまだまだ遠い」
枢機卿のボヤキのような言葉を耳で拾いながら。
さて、ともあれ私は旅の役目を終えたのだ。
明日にもファウスト様、そしてヴァリエール様のところに出向くとしよう。
そして、枢機卿猊下と、ケルン派のために動くとしよう。
この助祭アルマは教皇を暗殺できるならば、自分の命だっていらないと考えているのだ。
そうアナスタシア殿下やカタリナ女王に訴えるつもりであるのだ。
だから――枢機卿猊下には、早まった真似はして欲しくないと振り返って言おうとして。
何もかも御見通しのようにこちらに視線を合わせた枢機卿を見て、何を言っても通じぬだろうと察し、それを静かに諦めた。
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