第193話 宗教改革の時代


 怒号がマインツ選帝侯家の幕舎全体を包んでいた。


「母親の生死や去就ごときで、不利を呑む馬鹿貴族が何処にいる! オイゲン、それでもお前は私の娘か! たとえ母子の名乗りはせずとも、お前には最高の教育を与えていたつもりだ!!」


 眼前にて母が激高している。

 世間では――表向きには、この私オイゲンがマインツ選帝侯領の兵士、そして母のために窮したがゆえに、あのマルティナという小娘の提案を呑んだ。

 皆の命を救うために仕方なくケルン派への転向を呑んで、衆目の眼前にて――ヴァリエールの手を借りて、ケルン派への改宗を行った。

 そうなっているし、そういうことにしている。


「母上、まあ落ち着いてください」


 両手で指を組み合わせ、落ち着かせるために笑顔を浮かべる。

 この状況で、楽しい感情などがあるわけないが。

 何はともあれ、母を納得させなければならない。


「これが落ち着けるものか! 嗚呼、オイゲンよ。確かにお前の判断自体は概ね間違っていない。見事と褒めるべき点もある。あの状況では降伏以外に手段など有り得ず、お前は私の予見をも超えた。ヴァリエールの婚約者であるポリドロ卿が参戦していることを読んだ。見事にヴァリエールへと直通で連絡する手段も見つけて、降伏するための嘆願を繋いだ。おかげで我が軍は致命的損壊を免れた」


 そこまではよい。

 そこまではよいのだ。

 繰り言のように呟き、顔を両手で覆ってかぶりを振る。

 母上は、悲しげに吐き捨てた。


「三聖職諸侯にして選帝侯。このマインツ枢機卿の後継者であるにも関わらず、お前はどうしてケルン派への転向などを呑んだ! 私など見殺しにしてよいから、死体など渡してしまってもよいから、降伏条件を譲歩させるべきだった。ここまでされたことの意味を理解しているのか!?」

「理解しているからこそ、そのように動かしました」


 しれっと述べる。

 すべて計算の範囲内だ。

 もちろん降伏交渉である以上は損しかしていないが、少なくともマシといえる良い負けを選んだ。


「何!?」

「アドリブではありますが……まあ、ヴァリエール側の交渉人であるマルティナの好むようにさせてやったのです。ハッキリ言えば、此方側にも悪くない条件でありましたし」

「お前は何を言っているんだ?」


 正気を疑ったように、母がこちらを見る。

 私は正気である。


「確かにマインツ選帝侯家は三聖職諸侯の一つ、聖職者の立場であります。それが正統からケルン派へ転向させられる状況に追い込まれてしまった。これは一見問題ですね」

「そうだ、正統だの、ケルン派だの、いずれの宗派が正しいかなどは骨の髄までどうでもよい。宗教は神のものではない、人のものだ。このマインツ枢機卿に本音を言わせれば、人に難癖をつけ、暴力を振るい財貨を奪うための道具とさえ思っている! 自分の領地領民全てを保護するための盾で、市民のための財貨を蓄えて生活を豊かにするための道具に過ぎぬわ! 今回の敗北で大事なのは、正統を護るべき聖職者であるマインツ枢機卿の娘が、次期後継者が!!」


 お前が。

 アンハルト選帝侯家の後継者でさえないヴァリエールごときに屈し、異端審問への返し刀で転向させられたオイゲン・フォン・マインツが、今後はどの選帝侯家からも舐められるということだ。

 そう母上が悲し気に告げ、それ自体は間違いではない。


「これの何処がマシな負け方なんだ。死ぬほどの屈辱以外の何物でもないだろうが! 領主が舐められるということは、それに従う全ての者が舐められるのと同じことだ! 我が領地が発行する貨幣の下落は当然の事、騎士も、兵士も、領民も、我が選帝侯領に住まう全ての人間が何らかの不利益を被らねばならぬ!」

「問題ありません」


 すげなく言い返す。

 何の問題もない。

 我が母上は優秀であるが、どうにも状況が見えていないようだ。

 ハッキリと言っておこう。


「確かに一時的に不利益は被りますが、それは降伏した時点である程度は呑みこまなければなりません。母上が今までの人生で溜め込んだ財産を放出して、慰撫してください。正統からケルン派へ転向した――転んだことについて、私は何の問題もないと考えております。良いタイミングだったからです」


 あのマルティナという小娘は確かにえげつない選択肢を突き付けてきた。

 一瞬は怒りに駆られたものの、少し冷静に考えれば悪い状況ではなかったのだ。

 私は大層悔しそうな演技までして、受け入れてやったよ。


「母上、よくお考え下さい。かの異端と比べてさえ腐敗した我が正統の問題点は改善すべき必要があると、これは誰が誰に言わせた言葉でしたかな」


 今からスコラ学の時間である。

 母上に時代の到来について教えてあげねばならぬ。

 質問を行い、それに対してゆっくりと考えさせてあげることにする。

 少しだけ時間を置いて。


「暴力教皇ユリアの言葉だな。彼女が異端としたケルン派に対して、正統について教皇自らがどう看做しているかを。このマインツ枢機卿を通して、ヴァリエールに突き付けた言葉の一つだ」

「その通りです」


 母上は愚かではない。

 話せばわかる人なのだから、まあ大した手間ではない。


「正統は腐りきった。教皇でさえもそうハッキリと口にしてしまうほどに。リフォーメーション(宗教改革)の時代が訪れたのではないか。このオイゲンなどはそう考えているのですよ」


 かつて、ある教皇が十字軍の遠征費用を稼ぐために贖宥状の販売を始めた。

 そこからは落ちる一方だ。

 男娼を買って市街にて悦楽を楽しむ詐欺的な姦通者、金により権限を売り渡す聖職売買者、肥えた身体を揺すりながら、貧乏で痩せた農奴に説教をする聖職者。

 これらが現在の教会の有様である。

 このような事は口に出さずとも、母上ならば理解していることだ。

 正統の終わりは近いのだ。


「オイゲン、まさかお前。ケルン派が正統に取って代わると? ケルン派こそが正統になると?」

「いえ、そこまでは」


 そんな世の中嫌ですよと、あんなイカレ宗教が主流派なんて。

 そう少しばかりの本音を口にする。


「ただ、まあ少なくとも正統が、今の主流派が落ちぶれるのは間違いないですよ。そして、ケルン派がしばらくは隆盛する可能性が高い。案外、このマインツ選帝侯家とヴァリエールの戦が宗教改革の始まりだったなんて言われるのかも」


 それは嫌だがな。

 マインツ選帝侯家が負けたことを大々的に歴史書に残されるのは勘弁だ。

 だが、まあ仕方ないかもしれないな。

 我々は負けたのだ。

 それはハッキリと認めるべきだった。

 だからこそ、負けた分は勝つことで帳尻を合わせねばならぬ。

 母上は、私と視線をじっくりと合わせた後に、困惑した表情で呟いた。


「お前は何を考えている?」

「乗り掛かった舟です。ここはケルン派に誠心誠意転向してやるべきかと。これからやることの協力をしてやろうではないですか」


 要は、勝ち馬に乗るべきだと言いたいのだ。

 正統とケルン派が争うのはもはや確定的であり、我がマインツ選帝侯家が口火を切って負けた。

 そして、おそらくはヴァリエールの姉であり、アンハルト選帝侯家の正統後継者であるアナスタシアが教皇を追い落としにかかるだろう。

 身内が、妹が殺されかけたことに対して報復をしなければならない。

 そこまでは、このオイゲンほどでなくても誰でも読める展開だし。


「教皇が死ぬだろうと?」


 時々抜けてはいるが、そもそも頭が良い母上ならば理解できるはずなのだ。

 教皇はもう死ぬ。

 必ずや殺される。

 その時こそ正統の権威は地に堕ちて、ケルン派の隆盛が到来する。


「おそらくはファウスト・フォン・ポリドロ卿に殺されるでしょう。彼の超人がどれだけ抜きんでた騎士かは、実際に戦場で遭遇した母上が一番理解しておられるのでは? どうか、正々堂々とした一騎打ちにて殺されたいと願うほどの立派な騎士であったと、母上が自ら仰っておられたではないですか」


 確信に近い。

 あれは致命的な暴力だ。

 人を殺害することで問題を解決する意思の塊だ。

 ケルン派の熱心な信徒である彼は、必ずやケルン派に異端審問を突き付けたことに怒りを覚えており、婚約者を窮地に追い詰めたユリア教皇を殺害する。

 彼の憤怒だけは、それこそ婚約者であるヴァリエールにすら止められない。

 そこからの展開をどう上手く切り回すかは、アンハルト選帝侯家やヴィレンドルフ選帝侯家の手腕次第になるだろうが。


「どうせなら、勝ち組に回っておくべきだと?」

「ええ。ケルン派に転向し、ヴァリエールに人質として私が連れていかれることで、まあ少なくともアナスタシアやカタリナと言った人物は私に水を向けるはずです」


 これから教皇を殺すつもりだが、マインツ選帝侯家はどうするかね?

 そう尋ねてくるはずだ。

 私はこう言おう。

 さぞかし悔しそうに、とても腹立たしそうに。

 何もかもを裏切られた被害者のように。


「我が母上は、マインツ選帝侯家はユリア教皇に騙されたのだ。本当はケルン派への異端審問も、ヴァリエール殿下への要求もやりたくなかったのに。ベルリヒンゲン卿への怒りをどうも利用されてしまったのだ。私は悔しい。私の母上を利用したことが、私が継ぐべきマインツ選帝侯家の皆を虚しい玩具のように扱いて、むざむざと死なせた教皇のことが。だから殺してやるつもりだ。教皇を殺すことについて、これからについても、このオイゲン・フォン・マインツに全面的に協力させて欲しい。何が必要ですか? と」


 全て本当の事である。

 何一つ嘘は言っておらぬ。

 このオイゲンは、全く以てユリア教皇のせいで被害を受けた哀れな人物を装えた。


「そこまで言えば、まあアナスタシアやカタリナも悪いようにはしないでしょうね。私の事を死ぬほど嫌な奴だなと思うでしょうが。それ自体は貴族にとって誉め言葉です」


 マインツ選帝侯家の権威は敗北により落ちたが、腐っても選帝侯家だ。

 被害は大きいが、致命的な損害だって免れた。

 母上が蓄財してきた巨額の金銭だってある。

 少なくとも、粗雑な扱いを受けることはないだろう。


「母上、このオイゲンは必ずやマインツ選帝侯家の名誉を回復します。私たちを利用したユリア教皇の殺害に協力することで。勝ち馬のケルン派へ転向することで。私はそれが正しいと判断しましたし、これからそうするつもりです。まあ、見ていてください。母上が領地に帰る頃には、教皇殺害の報がマインツ領にも伝わることでありましょう」


 おそらくはファウスト・フォン・ポリドロ卿が仕留めるだろう。

 表向きには、全身が爆発して粉々になる奇病にかかったか。

 健康の為に首に縄をひっかけて、帝都ウィンドボナの大鐘の代わりにぶら下がっている事故死か。

 そこらへんが妥当だろうが。

 私は笑顔で言ってのけて、呆然とした顔をしている母上を残して幕舎から立ち去る。

 これから、ヴァリエールの元に人質として出向かねばならぬ。

 笑顔で本音を包み隠すとしよう。

 ドス黒い本音は、冷血女王カタリナや人食い蛇姫アナスタシアに出会うまでは隠す必要があるだろう。

 そして、隠す必要があるのはそれまでだ。


「……母上と、我が領民を駒のように扱い侮辱した教皇を、必ずや殺してやる。見てろよ」


 当面の目標は、それだけだった。

 後はゆっくりと。

 私を人質としたヴァリエールから情報入手でもしながら、のんびりと考えることにしよう。

 宗教改革が行われ、教皇が死に、後は――皇帝の首も選帝侯家の誰かに切り替わるかもしれない。

 血と硝煙、鉄の匂いのする突風が訪れることについて。

 今考えるべきことは、それだけだった。





第九章 完





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第九章までお読み頂き有難うございました。

今年の更新はこれで最後となり、しばらく第十章である「教皇編」プロット構築のお休みをいただきます。ご了承ください。

(1月中に再開します)


また、第8回カクヨムコンテストが開催されておりますので、当方もラブコメにて参加しております。

タイトルは「彼女でもない女の子が深夜二時に炒飯作りにくる話」です。

連載再開までの間、お暇であればお読みください。

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