第191話 ぱらいそ


帝都ウィンドボナまで、あと十日も経たずに到着してしまうだろう。

あの憎きマインツを打ち破った戦功に対して、ヴァリエール様が約束してくださった報酬が皆に支払われたのだ。

この傷だらけの手では一度も握ったこともない、アンハルトにて鋳造されるリーゼンロッテ女王陛下の横顔が彫られたもの、ヴィレンドルフで鋳造される悪魔超人レッケンベルの横顔が彫られたもの、マインツにて鋳造されるマインツ選帝侯の横顔が彫られたもの。

そういった、人生で一度手にできるかさえ怪しい大銀貨すらも与えられた者さえいる。

――マインツ選帝侯領の大銀貨だけは、酒保商人に両替する際に『この先通貨価値の信用がおけぬ』と買い叩かれてしまったようだが。

選帝侯としての名誉や権威の失落は、通貨価値にすら及ぶのだ。

ともあれヴァリエール様が行軍で封建領主から手に入れた財産、マインツ選帝侯から前払いとして受け取った謝罪金のそれから供出され、本当に沢山の報酬が支払われたのだ。

金だけではない。

『権力者からの特別な好意』も大盤振る舞いされた。

20名以上に及ぶ騎士叙任式が行われたのだ。

衆目の大歓声の中で、様々な者が呼ばれていった。

数十名の、誰よりも傷だらけの傭兵団を率いる団長がいた。

嗚呼、彼女の傭兵団はどの団よりも本当に勇ましく戦ったと聞く。

アンハルト法衣貴族の三女四女、騎士に成ることが出来ぬ14歳にも満たぬ若造がいた。

足りぬ教育と訓練でありながらも、見事マインツの敵騎士を討ち取った者であると聞く。

行軍の途中参加である黒騎士なども、滂沱の涙を流しながらに両手を組みて、ヴァリエール様を拝んでいた。

危険を承知で最前列にて戦い抜き、敵槍兵を討ち取りて敵陣地への中入りさえ果たした見事なる武芸者であること。

それは私が戦功調査をしていたザビーネ卿に証言した。

ああ、そうだ、彼女らは当然の結果としてあそこにいるのだ。

誰もかれもが戦場での評価は、見事な働きを為したという戦功評価に対してのみは誠実であるのだ。

我ら全ての為に怒りを示してマインツ選帝侯へ戦を挑んだ殿下への貢献に対して、何一つ嘘をつくことができるわけない。

神に対して舌を出して嘲笑うことはできても、あの幸運妖精を貶める行為だけはできなかった。

だから、あれなる全ての騎士に成り上がったものは正当な評価の結果として、衆目の中で殿下に肩を剣で叩かれているのだ。

あんな奴が何故、私の方がずっと、そんな腐ったゴミのような言い訳を浮かべる理由すらなかった。

クズな私でも、そんな醜い行為が自分を惨めにさせるだけなのは理解できている。

嗚呼、でも、羨むくらいはいいだろう。

私も、ああなりたかった。

なれど、なれなかった。

ならば、このままずっと『死ぬまで』行軍を続けていたかった。

ヴァリエール様に従って、自分のようなくだらぬ人生を歩いているものに、この先何もいいこと一つないような落ち穂どもに立身出世の希望を見せてくれたのだ。

それが終わってしまえば、この夢から醒めてしまう。

多額の金銭を、報酬として受け取ることは出来た。

なれど、この身には頼る「よすが」が無い。

家など飛び出してしまって、何処かに腰を落ち着ける市民権すらないのだから、何処に行っても排斥されてしまうのだ。

金さえあれば何でも買えるというのは嘘で、社会的な背景が無ければ何にもならない。

生活基盤を整える術がないのだ。

いつか酒にでも酔って、いい気になって全財産をいっぺんに使い果たして終わりだ。

また半傭半賊の生活に逆戻り。

文字も書けねば計算もできぬ貧民など、元の生活に戻るだけだ。

そんな自分の将来を、理解できてしまう。

歩き続ける筋肉の痛みも、皮膚が剥けて皮がめくれる痛みも、マインツ軍との戦闘で負った戦傷でさえも、行軍を続けることが許されるならば何もかもが気にならないように思えた。

だが、もうチャンスなどない。

弱卒3000名で、選帝侯の騎士団6000を破ったものに誰が立ち向かおうと考える。

山賊などはどんなに小さな集団でも噂を聞いた瞬間に、誰もかれもが皆逃げ散ってしまった。

封建領主などは、競い合うようにヴァリエール様との主従関係を繋ぐことを望み、金など景気よく捧げてしまうのだ。

手柄を立てる機会も、暴れる機会も、もうどこにもない。

ああ、もうそろそろだ。

ヴァリエール様の行軍が終わってしまう。

我々が一生に一度だけ夢見ることが許されたパレードは、もう終わるのだ。

そんな時だ。

奇妙な噂が立った。


「全員が救われるって聞いたんだ。ヴァリエール様に従ってさえいれば、最後に何とかしてくださると聞いたんだ」


そのような奇妙な噂が、我々『ヴァリエールの落ち穂』どもの間で流れた。

まさか、と誰もが思った。

だけど、だけどだ。

誰もがひょっとしてと、希望を捨てきれないのが無学で哀れな我らだった。

善男善女など何処にもおらぬ、うらぶれていて世界を憎んで、それでも地べたを這いずり回って生きてきた我ら最後の希望だった。

だから、我慢した。

ヤケになって暴れることもせず、どこかの旅商人の荷物を盗んで逃げるなどの悪心さえ起こさずに、静かに、静かに行軍をした。

ヴァリエール様に従うことだけを善として行軍したんだ。

まさかな、まさかと。

そんなわけがないとは、誰もが知っているのだ。

嫌というほどに、今までの人生で理解しているんだ。

この世で与えられるパンの数は限られていると。

ワインの数も限られていると。

贖罪主の肉(パン)も血(ワイン)も口にできる者の数は限られていて、全ての者が腹を満たすことは出来ず、いつか『物質を超えたパン』を作り出すなどというケルン派の聖句は戯言だと。

夢は食えないのだと。

誰もが知っている、それこそ我らのような貧民から、マインツ選帝侯のような大金持ちまでが知っている。

貴族のような青い血どころか、教皇や皇帝という頂点でさえも知っていることなのだ。

皆が救われることはないと。

誰もが必死に生きたところで報われることなど無いと。

生まれついて恵まれたものだけが、パンもワインも与えられるのだと今まで思って生きてきた。

だから、だからだ。

我々は、耳を疑ったんだ。


「ヴァリエール・フォン・アンハルトである。まずは礼を言おう。我が旅に同行し、また手助けをしてくれた3000なる全ての騎士、兵、傭兵、酒保商人、旅商人、旅芸人、名すら口にできぬ全ての者に対して、心から感謝を」


ヴァリエール殿下が演説をしておられる。

帝都を目前として、ちょうど見つけた小高い丘の上に立って、『ヴァリエールの落ち穂』誰もが見つめる中で、一人語っておられるのだ。


「苦しい旅だった。落伍者こそ誰一人として出ない旅であり、それについては幸運と言えたが――知っての通り、沢山の死者が出た。遺骸こそ弔ったが、どうにも遺髪の引き取り先さえないものが多い。私はそれを一つの合同墓地に弔うことにした」


私の友人も死んだ。

だが、彼女とて幸せだったのではなかろうか。

別に、私も彼女も優れた兵士というわけでもなく、やはり立身出世の目などなかったであろう。

ならば合同墓地に手厚く弔われて――


「……私は彼女たちの名を、以前一人一人読み上げた。ザビーネに、プレティヒャに頼み、彼女たちが生前どのような者であったかは調べたつもりである。私は自分の為に命を使い果たした者を生涯忘れぬことを誓いとした。彼女の墓を今後も弔うこととしよう。そう――」


自分の名を呼んで、自分の存在を認識して、それを弔ってくれることを約束した。

ヴァリエール殿下が墓を見舞ってくれる方が幸せな結末ではなかろうか。

本心からそう思っている。


「貴女達に話したいことがある。その前に、一つだけ教えておかねばならないこと。それについて話そうと思う」


息を吸う声が聞こえた。

3000の兵に聞こえるように、ヴァリエール殿下が先ほどから呟いている言葉は、彼女が率いる軍のそこかしこで復唱されている。

親衛隊や、新たに彼女の騎士となった者たちが復唱しているのだ。

彼女たちはあらかじめ、これから殿下が話す言葉を知らされていたのだろう。

だから、息を吸う声が聞こえたとすれば、彼女たちの声なのだ。

ここから話すことが、我らにとって大事なのだろうと思った。


「ポリドロ領を知っているだろうか。いや、知らぬだろう。私には一人、婚約者がいて――その名もファウスト・フォン・ポリドロという。その、なんというか。私が12歳の頃に見初めた第二王女親衛隊の相談役で、7つも8つも年上で、まあ無骨な男騎士だ。封建領主の一人だ」


その名は知っている。

私などは、ヴァリエール殿下の行軍に最初から最後まで従った幸運なアンハルトの傭兵である。

そうだ、最初は頑張れば騎士受勲さえ叶うなどというふざけた好条件に団長や友人ともども疑ってこそいたが。

プレティヒャとかいう傭兵団の団長が騎士になったのに目の色を変えて、誰もが血眼になってヴァリエール様に認められようと死に物狂いで走り回って。

――それで、いつの間にやら行軍に、このパレードに魅了されて、ここまで付いてきている。


「ヴィレンドルフとの国境線上にある辺境に、ポリドロ領はある。私はまだ訪れたことがないけれど――大きな山があり、その土と森林が蓄えた雨水から、領地に流れる川へと良質な水資源が供給されている。領民は300名ほどの、村とも、町とも呼べぬ小領地だと聞くけれど。始まりはたった30名にすぎない人々だと、かつて父上ロベルトに聞いたことがある」


すう、とまた息を吸う声が聞こえた。

私が一番近くに立っているのは、はて、ザビーネ卿と言ったか。

たしか親衛隊の隊長であったはずだ。

彼女はどこか虚ろで、それでいて目はギラギラと輝いており、何かに操られているかのようにさえ見えた。

だが、姿勢だけは真っすぐとしていた。

彼女はそのまま、ヴァリエール様のお言葉を続けた。


「私はファウストに問うた。ポリドロ領の起こりを、その在り方を。父に教えられた記憶の糸をたぐり、その全てを明かしてくれるように頼んだ。ファウストが語ってくれた全てを、皆に話すことが私に許されぬことを理解してほしい。これでも婚約者の秘密を全て口にするほど、悪い女ではないのだ。私は婚約者であるファウストに嫌われたくない」


どこからか、指笛を吹く声が聞こえた。

これほどの無茶苦茶な行軍を成し遂げたにも関わらず、婚約者に嫌われたくないと発言した殿下を茶化したのだ。

勇気ある行動だと、思わず笑ってしまった。

あまりにもここからは遠く、殿下の表情などわからぬのに。

ヴァリエール殿下の顔は微笑んでいるように見えた。


「……どこまで言っていいものか。言葉を選ぼうとした。なれど、ファウストの言葉を聞くにつれて、選ぶ必要すらないことを知った。これは私の言葉ではない。ポリドロ領を開拓した、一人の名もなければ家名もなく、フォンという貴族を意味する前置詞すらない女性の言葉だ。一人の開拓民の言葉だ。そのリーダーであった彼女の発言を、ファウストにこれだけは許された発言そのままを借りようと思う」


やはり、また息を吸う言葉が聞こえた。

大きな息を吸う音であった。

一つの続けた言葉を発言するための、呼吸音で。


「我らはもはや人としての価値など与えられていない。嘲弄され、辱しめられ、唾された。我らの聖地など、この世の何処にも存在しない。我らの故郷など何処にも存在しない。天国や地獄すら無いだろう。せめて、自分たちの村が欲しい。自分たちの国を作ろう。ここに居ても未来は無い。何処に行っても未来は無いだろう。ならばせめて、好きな事をして死のう。埋もれる墓すらないならば、空腹を抱えた犬に遺骸を食われても、何も変わりはしないだろうと」


何か、言おうとして。

何も言えなかった。

何があったかは知らないが、正気の人間の言葉ではない。

どう考えても、どこまでも追い詰められた人間が苦し紛れに渇望を見出した言葉のようではないか。

我らのように。


「ポリドロと呼ばれた一人の女の発言だった。ポリドロ領を開拓した初代の言葉だった。聞けば誰にでもわかるが、領地を開拓するにあたっての壮絶な決意である。私はこれを聞いて、少し躊躇ったが。同時に、彼に一つの質問をしたのだ。もし、この地に同じようなものが訪れた際は如何すると。嘲弄され、辱しめられ、唾された者が訪れたならどうすると。迎え入れるのか、それとも拒むのかと」


ヴァリエール様が何を言おうとしているのか。

とらえかねて、少し戸惑う。

何かを、その婚約者のファウスト・フォン・ポリドロに強請ろうとしているのだけはわかる。


「我らから土地を奪おうとしたなら殺してやる。これは我らの土地だ。農具なんぞ無いから、棒切れと手で畑を掘り起こした。知恵や技術など無いから、沢山の農作物を枯らした。超人などいないから、獣から身を守る術など無く、沢山の死者が出た。そうして先祖代々積み上げてきた努力の成果を何故人に施してやらねばならんのか? おのれらは我らを奴隷か何かだと思っているのか? 我らの尊厳を犬の子のように誰かに譲り渡せるものとして嘲笑うのか? 誰かに我らが耕した畑の土一粒でも譲ろうというならば、それが婚約者の貴女であろうともこの場にてぶちのめしてやると。そのように、婚約者であるファウスト・フォン・ポリドロは私に言ってのけたよ」


当たり前だ。

私は、少しだけ理解し始めている。

とんでもないものを、ヴァリエール様は婚約者から強請ろうとしたのだ。

封建領主にとって、自分の命よりも重要な領地というものを。


「なれど、と」


一呼吸置くようにして。

一番近くにいる、ヴァリエール殿下のお言葉をお伝えするはずのザビーネ卿が、何かとんでもない恐怖に襲われたように瘧を起した。

ひきつった声をして、喋れないでいる。

まるで、領地を強請られたポリドロ卿の怒りを眼前で受け止めたかのように、何かに怯えているのだ。

何故かそれが抑えられるのを待ったようにしてヴァリエール殿下は言葉を止めて。

ザビーネ卿の瘧が収まったのをみて、またしゃべり始めた。


「我らは、ポリドロ領は少しだけアガペーを知っている。同じ――嘲弄され、辱しめられ、唾された者がいるというならば。もう、どこにも行く場所がない人間がいるというならば。その者たちが、私たちが耕した土地を奪うというのではなく、自らが開拓して住む場所を作るというならば。少しだけ協力をしようと呟いた。ポリドロ領民を名乗るというのならば、それだけのことをやってから名乗れと」


今度は澱みなく。

どこか清い水の感触さえ感じさせるようにして。


「沢山の古ぼけた農具を与えよう。沢山の使い古したオストラコン(陶片)を与えよう。沢山のボロボロの書物を与えよう。沢山の種苗を与えよう。そこまではしよう。どうしても、どうしてもポリドロ領に誰かを迎えたいというならば、最初から何もない土地を開拓してくれ。そこまでが、ポリドロという封建領主が婚約者にできる最大限の譲歩なのだと。ファウストは言った」


ヴァリエール・フォン・アンハルトという、私が生まれて初めて忠誠心という物を抱いた妖精君主が喋っている。

私の、私だけの。


「私は答えた。私がこの手で何もない土地に古ぼけた鍬を入れると。この手で石を取り除いて、この手で種苗を植え、この手で陶片を配って命令を与えて、この手で開拓の書物を読むと。広大なポリドロ領の土地における未開拓の、何もないところで私が村を開拓しようと」


私たちだけの、君主様が喋っているのだ。


「その……これから発言することが、大それた言葉だとは思っているの。苦労無しの選帝侯の第二子女が、愚かなことを言っていると思えるのかもしれない。そう思ってしまえたならば、私を見捨ててもよいわ。これから発言することは、私が勝手に思い詰めて、その挙句に思いついた夢物語のようなことで。何一つ、貴方たちの希望に則したものではないのかもしれない」


私たちだけのものだ。

そうだ、かつてのポリドロという一人のリーダーに従った人間たちとて同じことを思っただろう。

これは、私たちだけのものだ。


「もし、もし。この行軍が終わってしまって。どこにも行き場所がないというのなら。この先、どこにも腰が落ち着けるという場所がない者がいるならば」


だから、言ってほしい。

私たちは、貴方の言葉ならば、ヴァリエールという一人の妖精姫の言葉ならば。


「私と一緒に、ポリドロ領を開拓しましょう。市民権は与えられる。開拓費用は、なんとか用意して見せる。苦労はあるでしょう。畑仕事もしたことないでしょう。でも、私が最初に畑に鍬を入れるから。最初になんでもやって見せるから。だから、どうか……」


なんだって従ってみせるのだ。

ヴァリエール様の言葉、全てを言い終えたザビーネ卿が倒れるのを見て。


「私と一緒に、このヴァリエール・フォン・ポリドロになる者と一緒に。私たちが住める場所を作りましょう。ポリドロ領で一緒に開拓しましょう」


私は、私たちの傭兵団だけは少なくとも全員が、賛意の雄叫びを上げた。


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