第190話 講和交渉とヴァリ様の救済


ヴァリエール殿下とマインツ選帝侯による講和の成立が宣言された。

マインツ選帝侯が受諾した条件は以下の通りとなる。


①ケルン派への異端審問の撤回

②それに付随する七つの要求の撤回

③公式文書によるマインツ選帝侯からの全面的謝罪

④和解金として多額の賠償額を支払う

⑤娘であるオイゲン・フォン・マインツのケルン派への改宗

⑥和解金が支払われるまで、オイゲン卿は人質としてヴァリエール軍にて預かる

⑦ケルン派への異端審問が誤りであったことを、教皇に認めさせることへ全面的に協力すること


細かいところを言えば他にも諸条件があるが、上記七つが和解条件の骨子である。

この辺りが、お互いが呑みこめる最大限の譲歩であった。

傭兵団などには、マインツ選帝侯領まで乗り込んで財産や領地をヴァリエール殿下のために奪うべきではないか、殿下が新たな選帝侯と成り上がって私たちはそれを支える騎士に、云々とこれ以上の戦果の積み上げを望む連中もいたが。

攻城戦を仕掛けるとなれば容易ではなく、領地の支配権の奪い合いに至っては数年単位の時を要するであろう。

さすがに異端審問を受けた状態でそこまでするには、大義も名分もない。

第一、相手の領地まで攻め込むにはさすがに兵力が足らぬ。

そもそもの大前提として、モンゴルの侵略が差し迫るこのグステン帝国でそんなことをやっている暇などなく、二年もすればタイムオーバーで何もかもが破綻する。

このファウスト・フォン・ポリドロにとっての目的は、ヴァリエール殿下を無事帝都まで到着させることにある。

目的を達成したとあらば、さっさと帝都にて状況を報告せねばならぬ。

これ以上は戦を継続するなど御免であった。


「……」


要するに、この戦の落としどころはここだろう。

少なくともマインツ選帝侯はもう教皇には従わぬだろうし、彼女が公的な謝罪と賠償金さえ支払ってくれれば、ヴァリエール殿下にとっても十分な利があった。

マインツ側の本音としては、①から④の条件で済めばよかったのだろうが。

マルティナが追加条件を交渉して、そうはなっておらぬ。


「はて、マルティナの選択は本当に正しいのか」


私にはわからぬ。

追加条件を勝ち取ったのは素直に褒めるべきであるが、妙手かというと悩む。

マインツ選帝侯領の次期後継者であるオイゲン・フォン・マインツがケルン派に改宗し、ヴァリエール殿下側に立ってくれるというのであれば強力だろう。

少なくとも、軍勢が本当に全滅する前に講和を勝ち取った時点で無能とは言えない。

問題は、マルティナが脅すようにして勝ち取った条件を、オイゲンがどこまで真面目に履行してくれるかという点である。

一度交わした契約を破る気はないだろうが、積極的協力と消極的協力とでは異なるだろう。

かといって、マルティナを責めるのもまた違う。

①~④の条件で交渉を終えてしまっては、異端審問によりこちら側への改宗を強いてきたマインツ選帝侯への明確な報復とはならぬ。

ヴァリエール殿下がここまでで十分としたところで、どうしても命も財産も尊厳も何もかもを奪われる寸前まで追い詰められた『ヴァリエールの落ち穂ども』から見れば、それだけでは足らぬとなる。

誰の目にも明らかに、勝利を勝ち取って報復を済ませたと発言できるだけの成果は必要であった。

異端審問を強いた相手へ逆ねじを食わして改宗を迫るという、明確な勝利が。

『我らのヴァリエール様』に明確に敵が屈したとあれば、逆に誰もが快哉を上げるだけで終わるはずであった。


「……うん」


だから、結末としてはこれで正しいように思えた。

これでよいのだろう。

そうだ、これで良いのだ。

ヴァリ様が仕事を完遂した以上、マインツ選帝侯の立場やオイゲン卿をどう利用するかなどは全部アナスタシア様やカタリナ女王に丸投げしたところで、誰も責めまい。

アンハルト選帝侯家第二王女殿下ヴァリエールは6000を超えるマインツ修道騎士団に立ち向かい、3000からなる寄せ集めの弱卒にて見事勝利を果たした。

今から為すべき対応は、事後処理の解決である。


「……」


妖精のような容姿の、小さな体躯が簡易ベッドに突っ伏している。

マインツ選帝侯との講和条件交渉を終えて、ヴァリ様はついに精神力の全てを使い果たして倒れたのだ。

ヴァリ様の精神はもうズタボロであった。

別に彼女はありとあらゆる困難に立ち向かう度に輝くような、黄金の精神の持ち主ではない。

彼女は目玉がサファイアで、腰の剣の装飾がルビーで、肌身が金箔で包まれていれば、それを千切って皆に配ってあげられればよかったと考えるだけの凡人である。

ヴァリエール・フォン・アンハルトの心臓は、重たい鉛にすぎなかった。

溶鉱炉でも溶かせぬだろう特別製の鉛という違いはあったが。


「……また沢山の人間が死んだわ。戦の前に、私に命懸けの忠誠を誓ってくれた兵も死者の中にいる。だけど、他にどうしようもなかった」


独り言のように、ヴァリ様が呟いた。

まるで私に何かの返事を求めているかのように。

なれど私はそれについて、ヴァリ様の部下は死んだところで何も後悔などしないことについて、開戦前に全て語り終えている。

ヴァリ様とて、その全てを理解して戦に臨まれた。

なれば、もう何かお互いに会話をする意味などないのだ。

口を閉じて、相変わらずのバケツ頭で沈黙する。


「ザビーネ! ザビーネ・フォン・ヴェスパーマン!!」


私の沈黙を破るかのようにして、ヴァリ様が叫んだ。

ベッドに突っ伏した顔を上げてむくりと立ち上がり、ただ彼女の懐刀の名だけを叫ぶ。


「お呼びでしょうか、ヴァリ様」


ザビーネの顔はマスケット銃から放たれる、黒色火薬の煤で汚れている。

彼女の体から流れる汗の匂いすらも、硝煙の匂いに包まれていた。

戦列の薄い右翼が耐えきったのは、死に物狂いで前線指揮を執った彼女の貢献があってこそである。


「貴女も知っての通り、すでに講和は整った。戦場から遺骸を回収して弔う時間を与えている。マインツ枢機卿による弔いを邪魔しないように全軍に命じなさい」

「承知しました。我が軍の方は?」

「私自らが弔いの儀式を済ませるつもりだけど、彼女たちに身よりは――」


落ち穂どもに、底辺どもに遺骸を引き取ってくれる身寄りはいるか。

一応はそう尋ねる。

答えは決まっているが。


「おりませぬ。ヴァリ様が引き取ると?」

「そのつもりよ。遺骸の全てをアンハルトに持ち帰ることは?」

「……残念ですが、せめて遺髪を持ち帰ることぐらいしか」


そう、とヴァリ様は呟いた。

ハンナという女性がいた。

初陣にて主君を庇いて倒れた、親衛隊の騎士の一人だった。

ヴァリエール・フォン・アンハルトという一人の主君は、週に一度彼女の墓を見舞うことで、返せぬ忠誠へのせめてもの報酬としていた。

自分の為に命を使い果たした者を生涯忘れぬことを誓いとしたのだ。


「なれば遺髪だけでも。ザビーネ、疲れているところを申し訳ないけれど、死者の全てがどのような者であったかを確認しなさい。せめて、彼女たちをここで弔うにあたって何か一言を述べてあげたいと思う」

「承知しました」


ザビーネは憔悴しきった顔で、同時に何か得体の知れない神か悪魔かに魅入られたようにして微笑んだ。

ヴァリ様のために、自分の能力全てを襤褸切れになるまで使い果たすことが嬉しくて仕方ないのだ。

きっと、彼女はもうそのようにしか生きられぬのだろう。

狂人がたった一つだけ、自分の人生にとって尊いものを見つけてしまったのだ。


「……」


バケツ頭で沈黙する。

私はザビーネ・フォン・ヴェスパーマンという狂人を多少理解しつつあった。

アナスタシア殿下も、アスターテ公爵も、カタリナ女王も、それについては誰もが理解している。

ザビーネはヴァリエールという一人の少女と、それを信仰する身内以外について何の価値も感じていないのだ。

だが、誰もが彼女を暗殺者のように用いて教皇暗殺を企んでいるという。

……上手くいくのか?

どのようにザビーネを用いるつもりなのだろうかと訝しむ。

どう考えても彼女はヴァリ様の指示以外を真面目に聞く気など無い。

そこのところを理解しているアナスタシア殿下は、どう考えているのだろうか。

あの人はなんだかんだ有能であるから、上手くやるんだろうが。


「ファウスト」


ヴァリ様が、私の名を呼んだ。

独り言ではなく、明確に私に話しかけているのだ。

私はもはやデカマラスなどと名乗らず、彼女の真摯な言葉に耳を傾けねばならぬ。


「なんでしょうか、ヴァリエール殿下」

「……私はいつか婚約者として、ポリドロ領に行く。アンハルト王都にて墓を作れば、ろくに見舞うこともできなくなる。お願いだからポリドロ領の墓地にて、今回の自軍の戦死者を弔う合同墓地を作ることを許してほしい」

「そのようなことであれば、お気兼ねなく」


同じ宗派たるケルン派の死者が殆どであり、それが異端審問を受けた聖戦において、まして誰にも恥じぬ戦いをした者たちであるのだ。

我がポリドロ領にて弔うことに何の問題があろうか。

ポリドロ領民であれば、喜んで墓くらい作ってくれるだろう。


「そして、それだけではないお願いがある。将来ポリドロ領をファウストと一緒に統治するものとして、婚約者としてお願いしたいことがあるの」

「……?」


ヴァリ様が、真摯な表情でこちらを見た。

何かを覚悟した真剣な表情であり、今までで一度も見たことのないような統治者の顔であった。

統治者として必死に考えて考えてたどり着いた結論を一つだけ見つけ出して、それを口から紡ぐような。


「先ほど聞いた通り、彼女たちは遺骸の引き取り先さえないような者ばかりである。帰る領地が無い。何もない。何処にも行く場所などない。騎士に成れたものは良い。これからアンハルトで食べていけるかもしれない。旅商人や馬借だってなんとかなるでしょう。交易で財を成した商人として、何処かで店さえ構えられるかもしれない。誰もがアンハルトでの市民権を得て生きていくことが出来る」


自分の裁量で何か全てを救えたらばいいのにと。

でも、そんなことは絶対に出来ないと知っているから。


「なれど、全員は救えない。この行軍が終わっても救えない。希望に向かってひたすら前進するだけのパレードはいつか終わってしまう。だから、私に従ってくれた者全てをどうすれば救えるかだけを必死に考えていたの」


そんな方法はない。

このファウストなどはそれを知っている。

誰もが救われぬから、何もない悲惨な立場から新天地を探し求め、ポリドロ領という土地を開拓した先祖を知っているからこそ告げることが出来る。


「そんな夢みたいな話はありませぬ」

「……」


ヴァリ様がベッドの上で、頭を下げた。

私がかつてリーゼンロッテ女王陛下に下げた頭のように、床に擦りつけるように額をベッドに押し付けていた。


「だから、ファウストにお願いがあるのよ。唯一、貴方だけが解決する権利を持っているのよ。ポリドロ領の封建領主たる婚約者の貴方だけが救える。これから私がする話をよく聞いてちょうだい」


ヴァリ様の、必死の嘆願が何を意味するのか。

私は判らずにいて、ただ困惑するのみであった。

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