第189話 オイゲンの降伏



胸当てと兜のみ、そして腰に拳銃とサーベルをぶら下げた軽装騎兵姿の子女である。

年齢は若く、そばかす顔を見るに年の頃は16と言ったところではなかろうか。

やや茶目っ気を覗かせた、小さな舌を覗かせる女性だった。

その若い騎士の眼前にて、私は必死になって脳に血肉を巡らせている。


「オイゲン・フォン・マインツと申します」


聞いたこともない名である。

なれど、眼前の若き騎士はマインツ選帝侯家の縁者であると宣言した。

隣にいるケルン派の写本家と顔を見合わせて、真実を確かめる。

いや、知りませぬと写本家は首を振った。


「母と似ておりませぬか?」

「貴女は――オイゲン卿は、マインツ選帝侯の娘であると?」

「私も気づいたのは、ここ二年ほどの話でありますが」


関係を秘されていたのですよ。

まあ子がおらぬ法衣騎士の養女に過ぎず、本当の父も母もわからぬ私に対して、ありとあらゆる教育の機会が与えられ。

マインツ選帝侯はもちろん周囲の上級法衣貴族などが妙に優しく、将来は選帝侯となるべくして領内の仕事や補佐官が与えられるようになれば――母がいくら隠しても、気づいてしまうところでありますが。

そのように嘯いて、オイゲンという名の女は微笑んだ。

真偽を確認する方法はないが、まあ嘘をついている風貌ではない。


「さて、失礼ですが貴女のお名前をお伺いしたい」


ファウスト様は名を隠して戦場に参じており、この従士も名を隠す必要が少なからずあった。

ゆえに一瞬、本名を答えるかどうか迷ったが。


「……マルティナ・フォン・ボーセルと申します」


この場においては、正確に返事をすべきと判断する。

数か月後にはマルティナ・フォン・テメレールとなる可能性もあったが、今口にすべきことでもない。


「なるほど、ではマルティナ殿。単刀直入にお伺いするが、ヴァリエール殿下との直通回線をお持ちか?」

「何故、この小娘に対してそうお考えに?」


確かに、ヴァリエール殿下に直通で通信できる水晶玉を保持している。

だが、この身は齢九つの少女に過ぎぬ。

馬に跨りて単身こちらに訪れて、丘を一度見回しただけで。

ああ、ここかとばかりにオイゲンはこちらに馬を走らせてきたのだ。

丘には数百人以上の商人やら旅芸人やらで、溢れかえっているにも関わらず。

私の姿を見つけた瞬間には、一直線にこちらへと足を向けたのだ。


「ポリドロ卿は、従士として子供を連れていると聞いたことがあります」


ぽつり、とオイゲンが呟いた。

聞き捨てならぬ言葉であった。

そらとぼけようとも思ったが、無意味であろうな。

何か返事を行う前に、彼女は言葉を連ねる。


「……現在、帝都ウィンドボナに滞在していることになってはおりますが。まあ、別に誰かが彼を見張り続けているわけでもないし、やろうと思えば婚約者の元に参じることはできた。迂闊でした。領地を出発する前に読めていれば、やりようはいくらでもありました。母を引き留めることも出来た」

「それに気づいたのは?」

「ヴァリエール殿下が母の異端審問に対し、宣戦布告を行ったときに。大変失礼ながら、そのような大胆なことが出来る度胸の持ち主と聞いた覚えがありませぬ」


少なくとも臆病で、大胆不敵とは程遠いと耳にしております。

もしそのような少女が、戦いを挑んでくるとすれば。


「惚れた男に背中を押されたぐらいのことがあった時でしょう。そして同時に、我がマインツ修道騎士団に対する勝利の見込みが辛うじて立った時です」


なるほど、オイゲンは無能ではないようだ。

こちらに何があって、何故ヴァリエール殿下が行動を決意したかまでを理解している。

だが、だからと言ってどうにもならぬことも、このマルティナは知っている。

仮にファウスト・フォン・ポリドロ卿が強力無双の騎士であることを理解していたからと言って、戦端が開いた今どう抗うことができようか。


「我が母も、まあ背後に何かあったかまでは読めずとも。敗北の可能性があることを予見して、後継者である私に対して領地に帰るよう命じたのですが。私としては、母や領民を見捨てて帰るわけにはいかない。もし領地に逃げかえれば、私は大切な物全てを失ってしまいます」

「戦場後方の丘に避難しているであろう集団まで辿り着けば、ヴァリエール殿下への直通回線を持ったものがいるだろうと?」

「酒保商人の代表か、あるいはポリドロ卿の従士か。どちらかが敗北時に逃げるよう連絡するための手段をヴァリエール殿下が持たせていると考えました。私は領地に逃げ帰ると見せかけて、戦場を大回りしてこちらに辿り着きました」


なるほど。

その読みは何もかも正しい。

さて、となると、彼女の目的と言えばだ。


「交渉ですか」

「そうなりますね」


要するに、もしマインツ軍の敗北が明らかになった場合、その時点でヴァリエール殿下に降伏を申し込もうと考えたのだ。

そのために、人質同然のように単身で私の目の前に現れた。

周囲を見れば、私たちの話を聞きつけた酒保商人のイングリットなどが数名の護衛を引き連れている。

マインツ枢機卿に死ぬか生きるかのギリギリを突き付けられているためか、その縁者が眼前に現れたとあって、彼女たちの目は血走っている。

手にはピストルなどが握りしめられていた。

私は掌を彼女たちに向け、何もしないように伝える。


「マルティナ殿! 捕縛すべきです!!」

「イングリット商会長。無駄だからやめなさい。彼女はこの場全員を殺して逃げ出すことすらできる」


色々と考える。

戦場の様子はまだわからぬ。

鬨の声などは聞こえているが、どっちが勝っているのかさえわからぬ。

それはオイゲンも同様であろう。

勝敗今だ定かならぬ。

その状況で、何故オイゲンが単身堂々と現れて名乗りを上げたのかと言えば。


「卿は超人ですね。そうでなければ単身ここに訪れない」

「噂のポリドロ卿には到底敵わぬ実力ですが。母は大砲を打ち返したポリドロ卿の噂や、レッケンベル卿の伝説を下世話な吹聴の類であると馬鹿にしておりましたが――ああ、それも私のせいでしょうね」


オイゲンは取り囲む周囲を見渡し、どうということもなく微笑む。

十数人がピストルを持って立ち向かったところで、あのサーベルで殺戮を開始するだろう。

超人とはそのようなものである。


「私というほどほどの超人を認識していたから、その可能限界を知っていたからこそ。母にとっての超人枠の限界点は私までであろうと定めてしまった。レッケンベル卿やポリドロ卿というのは幻想的なものにすぎず、この世に存在しないのだと思い込んでしまった」


おそらく、ヴァリエール殿下の姉君たるアナスタシア殿下や、姻戚であるアスターテ公爵。

そしてヴィレンドルフのカタリナなどを見ても、まあこの私程度。

聖ゲオルギオスがごとき龍殺しの化け物など、この世に存在せぬと見切ってしまった。

悲しそうに、オイゲンは語る。


「このオイゲンも母と同様であり、まさかとは思っておりましたが。ヴァリエール殿下が戦に臨んだというならば、ポリドロ卿の実力は本物でしょう。あるいは、ポリドロ卿以外にも強力な超人がいるのかもしれませぬ。加えてテメレール公直下である『狂える猪の騎士団』のようなものがアンハルトにもあり、ヴァリエール軍にいるのかも。だが今更そのような事を言ったところで、戦端が開かれた以上はどうしようもありませぬが」


心の中で舌打ちをする。

『狂える猪の騎士団』の参陣まで予想されている。

確信したとまでは本人も言わぬが、少なくとも最悪のケースを考えて動いていた。

だが、まあ現状ではどうにもならぬ。

この眼前のオイゲンは、ヴァリエール殿下の宣戦布告という材料を得るまで真実にたどり着けなかった。

ファウスト様と私の勝利である。


「……あなたは、母親であるマインツ枢機卿が負けると」

「その可能性が高いと考えております。さりとて、もはや戦わないわけにはいきませぬ」


異端審問に出向き、異端であると宣告したのです。

ヴァリエール殿下に反抗されたところで、はいそうですかと帰るわけにはいきません。

どうしても一戦交える必要はあります。

オイゲンは微笑んで、かぶりを振った。


「子としては母の勝利を信じたいところ。なれど、その母とて負ける可能性を見込んでおります。死を覚悟で、何かあればマインツ領の全権を頼むと言われました。なれば、子としては母のため、領地の後継者としては領民のため、いざとなれば我が軍の被害を最低限に抑えるために交渉をせねばなりませぬ。敗北が確定した時点で戦場を監視している配下から、私に直通回線が入ることになっております。その時点でヴァリエール殿下に降伏を行うつもりです。マインツ軍にも投降し、武装解除するように内部から呼びかけます」


考える。

なるほど、道理である。

オイゲン・フォン・マインツの判断は何一つ間違っていない。

なれど。


「それに私が応じると? 貴女の利益の為に、わざわざヴァリエール殿下に直通回線をつないでやると?」

「応じますね。応じないことになにかメリットが? ヴァリエール殿下は無意味な殺戮をお好みですか? 血に飢えた血妖精ヴァリエール殿下とでもお名乗りあそばせたいと? 情け容赦ない異端の王として勝ち誇られ、温情ある解決を望まれない御方とはお聞きしておりませんが?」


舌打ちをする。

このマルティナでは経験不足である。

ここでオイゲンから降伏に値する利益を得るため、何か要求をすべきだが思い浮かばぬ。

だが、ここで安易にヴァリエール殿下に通信を繋いでしまうわけにもいかぬ。

マインツ枢機卿の娘が降伏してきました! と伝えようものならば。

え、マジで。これで戦争は終わりだ、などと敗北を認める上での条件を大して聞きもせずに喜んで応じてしまうヴァリエール殿下が目に浮かぶ。

てめえ、ヴァリエールの奴、性格をオイゲンに見切られてんじゃねえか。

ファウスト様の婚約者様を今回かなり見直している私とて、そこのところはヴァリエール様が無能であることは理解できた。

一番良いのはあのクズそのものである気狂いザビーネが通信に出て交渉してくれることだが、おそらく戦場ゆえに傍におらぬ。

右翼の最前列にて、親衛隊による銃撃を指揮しているはずだ。

畜生、肝心な時に役に立たないな、あのチンパンジー!


「……」


考える。

ここは、むしろオイゲンに降伏条件を喋らせるべきだった。

オイゲンとて、何もなしに降伏できるとは思うていないだろう。

ヴァリエール殿下が降伏を受け入れたところで、オイゲン側から何かしら差し出すはずだ。


「敗北を認めるにあたって、マインツ枢機卿が差し出せるものは?」

「最終的には母とヴァリエール殿下が直接諸条件を詰めることになるでしょうが。異端審問の撤回、付随する七つの要求の撤回ではどうでしょう。もちろん、ヴァリエール殿下に対する公式な謝罪と、和解金としての賠償金の支払いもお約束できます」


考える。

悪くはないし、十分に勝利を達成したと言えるだろう。

このままお互いの兵を食い潰し、リソースを使い果たして勝利したというよりもスマートに降伏を呑むべきだった。

ぶっちゃけ、このまま自軍を消耗させてマインツ軍を皆殺しにしたとしても、それで何が産まれるというのか。

お互いの領地の支配権を争っているわけでもなければ、マインツ軍の軍資金や武装を奪ったとしても、マインツ枢機卿が支払ってくれる謝罪金以上の額にはならないことなど目に見えている。

つまり、戦争を継続するメリットなどヴァリエール殿下の側にも全くないのだ。


「……」


沈黙して考える。

オイゲンとしても、まあどうせここまでは母も受け入れるから、何も変わらぬでしょうと。

飄々とした顔で澄まして呟いた。

気に食わぬ、このソバカス顔!

ここで妥結してもファウスト様はよくやったと喜んで、私の頭を撫でてくださるだろうが。

何か、オイゲンの見込み通りに全てが運んだようで気に食わぬ。


「……そうだ」


一つだけ良い考えがある。

なるほど、オイゲンは妥協すべき条件を呑みこんだ。

なれば、もう一つ条件を呑みほしてもらおうではないか。

我が主、ファウスト様の為に役立てるように、コイツを扱いやすい駒にしてやろうじゃないか。

それこそモンゴルに対抗するにあたって役に立つぐらいの。


「良い考えがあるのですが、オイゲン卿。なるほど、ヴァリエール殿下に直通回線をつないでも良い。なれど、発端は信仰に関わる問題であります。異端じゃないから終わり、謝ったからこれでよいだろうと。それで済む話でもない。せめて、オイゲン卿による誰の目に見てもわかるケルン派への懺悔を頂きたい」

「懺悔ですか?」


別に、表向きなら頭でもなんでも下げてやろう。

そのような心根が隠しきれぬオイゲン卿の瞳の奥に気づきながら、私は宣告した。


「懺悔です。自分の行為が悪であったと看做し、ケルン派に告白する気持ちが必要ではありませんか? 心改めた、心から自分が悪いと思ったんだと誰にでも見て取れる行為が、そう、我らケルン派信徒から見ての納得が必要なんですよ。例えば――」


良い考えを思いついたとでも言いたげに。

世間話のように口にしてやった。


「将来のマインツ選帝侯家を継がれることとなります。オイゲン・フォン・マインツ卿のケルン派への改宗とかどうでしょう? 異端審問を要求した教皇への明確な反逆を示してほしい。教皇が間違いでケルン派が正しいと、旗色を明確にしてほしい。いやあ、良い考えを思いつきました」


微笑みを崩さぬ、オイゲンの顔を見る。

瞳の奥底から、強力な怒りが目にとれた。

だが、彼女が腰にぶら下げた布袋の一つが光っている。

マインツ軍における、彼女の信頼置ける配下からの直接回線である。


「オイゲン様! マインツ軍右翼が敵騎兵に打ち破られました。戦場は混沌としており、逃散兵多数! マインツ選帝侯は兵を一人でも逃がすため、騎兵隊を連れて突撃を開始されました!!」


その報告を聞いた以上。

母が死を覚悟して突撃し、領民が殺されている現状を知った以上は。

もはやオイゲンには選択肢などなかった。


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