第188話 マインツ枢機卿の結末


人が死んでいる。

ただひたすらに、人が死んでいるのだ。

我が軍の歩兵どもが、一方的に殺戮され続けている。


「勇気ある我が兵どもに告ぐ! 己らの指揮官であり、選帝侯たるマインツ自らが撤退を許可する、領地まで逃げ延びよ!!」


おそらくは、故郷にたどり着けぬであろう兵どもに叫ぶ。

地獄から抜け出す一本の糸を伸ばされて、歓喜の表情を見せた兵の顔が一瞬でぐちゃぐちゃになった。

ヘルムやコイフに全く防御的効果などなく、ただ単純なる膂力をもって振るわれた暴力に一方的に処理されたのだ。

敵方のバケツ頭が乱雑に振り回した戦棍に僅かに引っかかれば、ただ破裂するという現象だけが残る。

惨いな。

ああ、あまりにも惨い。

いくら示威行為とて、限度というものがあろうが。

もう勝敗は明らかであろうに。

誰も手向かいなどする気はなく、ただひたすらに逃げ惑うているのが今の我が配下である。

これでは、まるで畜生に対する屠殺以下の扱いではないか。

嗚呼、だが。

味方の損失を少しでも減らしたいならば、殺せるときにできるだけ多くの敵を殺すのが正しい。

この状況の責任は指揮官である、このマインツに全てが帰結するのだ。


「……」


私の名乗りを耳にしたのか、バケツ頭の騎士がこちらを向いた。

強烈な視線を感じる。

何一つ物事など考えていないような、ただひたすらに眼前の敵を殺戮して回ること以外を忘却してしまったような。

そんな物狂いの殺意だった。

そのバケツ頭はこちらをじっと見つめているが、何か言葉を発する様子はない。

本物の騎士なれば、何かを達成するにあたって何か言葉を吐く必要などない。

ただ眼前の敵を縊り殺せば事は片付くのだ。

騎士教練的な教えが脳裏をよぎる。

今すぐにでも走り出して、此方の頭を破裂させそうにも見えた。


「嗚呼」


いよいよもって、この身は終わりであろうと考える。

眼前の騎士は化け物であった。

その存在が如何に異常かは威圧感で理解でき、それがわからずとも状況を一見すればどのような阿呆でもわかる。

そこら中に体の上半身を『破裂』させた兵士が転がっており、それを為したのは騎士が両手で握る巨大な戦棍であることは明らかだ。

騎士は2mを超える体躯にて、これまた2m以上の体高である悍馬に跨って。

その姿は時代遅れのグレートヘルムなどを身に着けていて容姿は窺えず、全身を覆うプレートメイルには忌まわしい紋章が刻まれている。

『奇形な』十字架。

此処が我が心臓である、狙え、と言わんばかりに大きく胸元に刻まれたケルン派の紋章。

誰か、本当に誰か我が軍にも勇気あるものがいたのか。

クロス・アンド・サークルの紋章が輝くのを妨げるように、血でできた掌の跡がべたりとそこに付いていた。

あの跡をつけたものが自分の意志で行ったとあらば、それだけで騎士受勲ものの誉れである。

同時に、我が軍の兵が決して弱卒でないことの証明とも言えた。

もう、その兵も今は死んでしまったのであろうが。


「我が騎兵に告ぐ。できるだけ兵を逃がすように心がけよ。一兵でも多くを逃がすことが、マインツ修道騎士団の名を汚さぬことに値すると思え」

「承知しました。枢機卿猊下は?」

「わかっているだろう? 同じ騎士ならば、私がやりたいことぐらいは」


どうせ、死ぬのだ。

枢機卿という聖職者としての名誉も、選帝侯という三聖職諸侯としての地位も、何もかもがぐちゃぐちゃになって。

異端審問を仕掛けながら、その異端に殺された間抜けとして死ぬのだろう。

もはやこの身の破滅は免れぬ。

なれば、一人の領主騎士として最後の名誉ぐらいは保ちたいではないか。

まあ。

相手が受けてくれるかはわからんがね。


「ご武運を」


騎兵隊長が声をかけた。

私は顎を少し動かすだけで、答えた。

馬の腹を蹴りて、あのバケツ頭の騎士まで馬を駆りて近づく。

突撃するのではない。

この見事な装束の甲冑姿なれば、一目で手柄首だとわかるだろう。

雑多な敵兵が戦功目当てに近づいてくるのを見て、息を胸いっぱいに吸った。

吐き出すのは我が名である。


「おのれらの怨敵、マインツがここにおるぞ! 枢機卿にして、選帝侯であり、一人の領主にして騎士であるマインツがおのれらの目の前に現れてやったぞ!!」


二つ、目的がある。

枢機卿の名誉や、選帝侯としての地位も、もうどうでもよかった。

なれど、マインツ領の領主として民は逃さなければならぬ。

できるだけ多くの目を引き付け、敵兵が私の首を誇らしげに掲げている間に兵を逃がさねばならぬ。

要するに時間稼ぎをする必要があった。

もう一つは。


「兵士ども、どけ! 私はそこの本物の騎士に用がある!!」


馬を歩かせながら。

これまでの人生で数度あった機会、それすら及ばないほどに自己保存の本能が抗うのを理性で抑えながら、ただひたすらに死の道を歩いていく。

声を張り上げず、ただ歩く。

敵兵の誰もが睨んでいるが、同時に困惑していた。

敵の指揮官が従士すら連れず、撤退を命じた挙句に一人で突き進んでいるのだ。

私だけでなく、味方すらもが化物だと認識している騎士に対して近寄っていく。

まるで処刑台に歩いていく罪人を眺める表情で見つめているのだ。


「絶景かな、絶景かな」


誰もがこのマインツを親の仇のように睨んでいる。

私がやったことを考えれば、当然のことである。

貴様ら、異端とされて悔しかろう。

力ある者が正統を名乗り、力なきものを異端と呼んで蔑む。

弱きものは財貨を当然のごとく奪われて、腹を蹴とばされる。

金がなければ愉悦の為に虐められ、酷い時には命さえもが奪われる。

自分が心底大切にしているものなど、まるで石ころを大事にしている阿呆のように侮辱されて笑いものにされる。

そのような悪行をおのれらに為そうとしたのが、このマインツ枢機卿だぞ。

睨むとよい。

おのれらにはそれだけの権利がある。

それでもやっていかねばならぬと。

犬に噛まれたと思って忘れなければ、歯を食いしばって生きていかねばならぬときがあると。

たとえ無様を演じても、血が滲むほどに歯を食いしばる屈辱を受けてもだ。

空を仰いでいる限りは、自分の人間的尊厳まで侵略されないのだと。

そのように生きてきた者しか、ヴァリエールの軍勢にはいないと聞いている。

せめて地面を見つめぬから、このヴァリエールの行軍へと参加した連中しかいないのだ。

『落ち穂拾いのヴァリエール』だったか。


「我等は盤の弾かれもの。或いは家庭、或いは市場、或いはお城。要らぬ要らぬと棄てられて、石を舐めて飢える日々。このまま路傍の塵芥と、変わらぬ未来が精々だ」


口から詩が紡ぐように出た。

ヴァリエール・フォン・アンハルトを称える詩だった。


「しかしながらあの方は、枯れた我等の手を取りて、確かに言って下さった。泣くな、憂うな、腐れるな。お前達は落ち穂なり。その気があればまだ見えぬ、価値をこの世に示せるとも。命を懸けて付いてこい」


詩が好きだった。

このマインツ、若い時は聖職者にも選帝侯にもならず、市井で詩など唄っては暮らせぬものかと本気で考えたことがある。

詩の練習もしたことがあるのだ。

説教や聖歌などは聖職者として当然にやることだから、基礎力もある。

これでなかなかのものだと自負しているのだが。


「我が身を落ち穂と思うなら、落ち穂の矜持があるならば。その身を以て価値示せ。どうせいずれは塵芥。此処に居場所が無いのなら、落ち穂の爆ぜ音鳴らすべく、裸足で参じた1万人」


むろん、そのような暮らしで食べていくなど辛いだけであると。

選帝侯として人を取りまとめる立場である以上は知っている。

夢は夢だった。

だからこそ、私はその悲惨な立場から立身出世した『貴女達』を褒め称えることが出来る。


「熱砂を、砂利を、ぬかるみを。等しく肩組み踏み越えて。倒れるものを踏み越えて、長らえ者と生を祝う。明日もこうして価値示そう。そうして生き抜いた夜明けには、新天地にて芽吹くのだ。我々だけの人生が」


誰かが、覚悟の表情で槍を握りしめて、私を突き刺そうと近づくのを見た。

なれど、止めた。

止めたのはベルリヒンゲン卿であり、そしてバケツ頭の騎士の二人であった。

兵は何が起こっているのかわからぬようで、私の口上を理解しようと努めている。

私は唄い終えて無事にバケツ頭の目前までたどり着き、目的を果たそうとしている。


「歯を食いしばることは出来ても、ずっと空を仰ぎつづけても。おのれらが盤の弾かれものから人間になれたのは、ヴァリエール・フォン・アンハルトという一人の娘がいたからだ。ゆめゆめ主君から与えられた恩寵を忘れぬことだ」


何を言っているのだろうか。

自分でも、何を言うているのかわからぬ。

ここは戦場であるのだ。

なれど、誰もが突然に唄った挙句に、説教まで述べた私のことを、狂った者として見つめている。

我が軍勢などは戦場からの離脱を始めている。


「さて――異端審問を撤回しておく。このマインツ枢機卿の不明を恥じるところであり、ケルン派は異端ではない。あの暴力教皇がどう出るかは知らぬが、少なくとも私だけは撤回しておこう」


バケツ頭に告げる。

なれど、私の眼前の騎士殿は横にいるベルリヒンゲン卿を見て。

貴女が相手をするように、と促した。

騎士殿は何も語る気がないようであった。


「承知した。マインツ枢機卿の名において、ケルン派への異端審問が撤回されたことを承る」


因縁あるベルリヒンゲン卿が困ったような、それでも自分が騎兵の指揮官なのだからと。

私の顔を見つめながらに承知した。


「宜しい。当たり前だが、それに付随する七つの要求も撤回しておく。まあ、敗者が何を語ろうと無意味だがね。ヴァリエール殿下に対する謝罪はもちろんのこと、その意味を含めた賠償金ももちろん支払おう」

「……承知した」


毒気を抜かれたような表情にて、彼女は静かに頷いた。

少しだけ、お互いの空気を読みあう。

戦場でありながら、静寂が起きた。

状況は酸鼻を極めており、そこら中に兵士の遺骸が打ち捨てられており、悲惨の一言である。


「降伏するのか?」

「状況を見て言いたまえよ。むしろ殺さないでくれと命乞いをする状況だろう」


全ては指揮官たる、このマインツの責任である。

死をもって責任を取らねばならぬ。


「ああ、いや、降伏自体は認めてくれるならするがね。受け入れてくれるのならば、すぐに全軍に連絡してマインツ枢機卿軍への追い打ちの中止を認めてくれないかね?」

「……どこまで可能かは判らんが。承った」


ベルリヒンゲン卿が、手合図をした。

水晶玉を取り出した騎士が、彼女の右腕にそれを手渡す。

ヴァリエール殿下に連絡を送っているようだ。


「うん」


思わぬ僥倖であった。

私は降伏など叶わぬと思っていたし、有無を言わさず殺されることを覚悟していたのだが。

どうやら、領主としての義務はもちろん、騎士としての一分も果たせそうである。

遺骸を晒されるのは良いが、拷問死だけは免れそうであった。

なんだか、心が安らぐようだった。


「はい。ええ……。ええ?」


ベルリヒンゲン卿が、何か耳を疑うような表情で水晶玉を眺めている。

何があったのか知らんが、鉄腕である右腕をくい、くいと動かして。

バケツ頭の騎士を呼びつけて、兜と兜をごつんと合わせて何か囁いている。


「!?」


バケツ頭の騎士は何か酷く驚いたような様子で。

ベルリヒンゲン卿はこくり、と頷いて私を見た。

なるほど、ヴァリエール殿下は私の降伏を即座に認めてくれたのだな。


「降伏が叶ったならば良い。なるほど、優秀なるヴァリエール殿下はリソースを食いつぶすことをお好みでないようだな。賢明ならば、金をもらってマインツ選帝侯領を今後利用することを考える」

「いや……そうではなく」

「人から奪うことしか知らぬ強盗騎士よりも、選帝侯の一族とあらば上品なのだよ」


鼻で笑った。

もうベルリヒンゲン卿への憎しみはないが、それはそれとして好きではない。

彼女は私の領土を脅して金を奪ったのだ。

この眼前の強盗騎士がクズであることに変わりはなかった。


「さて、そこのバケツ頭にして、本物の騎士殿よ。最後に頼みがある。このマインツを殺しておくれ。できれば一騎討ちでお願いしたい。卑怯未練なれど、最後に一人の騎士としての名誉を背負っての決闘がしたいのだ」


騎士の一分である。

どうせ死ぬのであるならば、本物の騎士との決闘の上で殺されたい。

化物と戦って殺されたというのであるならば、いくらか私の死後の名誉もマシになるだろう。

このバケツ頭の事は良く知らぬが、著名であるか、これから著名になるかのどちらかであるのは間違いない。

私は嘆願を口にして。


「……」


バケツ頭は何かに、酷く困惑したような様子で。

それでいて何も語らずに。

こくん、と頷いて了承する。

望みは叶った。

私は斧槍を掲げ、裂帛の叫び声をあげるが。


「いや、申し訳ないが、マインツ枢機卿の要求には答えられぬ」


ベルリヒンゲン卿は、私の覚悟も死ぬことへの決意も、何もかも読み切った様子であるが。

これだけは譲れぬと私たちの間を遮った。

この強盗騎士、最後の騎士の一分すら許さぬつもりであろうか?

生き恥を晒すなど御免であるし、この戦場にて死んだ配下にも申し訳が立たぬ。

それぐらいは品のないお前でも判るであろうと、訝しむが。


「マインツ枢機卿、貴女が降伏する少し前にマインツ軍はヴァリエール殿下に降伏している。すでに我が軍の右翼では武装解除が行われているそうだぞ。戦争の継続となる行為はもちろん、両者の交渉に対する妨害行為は許さぬと。貴女から全権委任を受けたと本人などは主張しているのだが……」


とても信じられないことを言った。

私はそりゃ降伏したかったが、使者など出した覚えはない。


「なんだと!? 誰がそのような勝手な真似を――」


そのような事を許した覚えはない。

仮に許したとして、交渉の伝手などない我が軍の誰がどうやって?

降伏した者を責める気はないが、出来るならば私本人がとっくにやっていた。

そんな私の表情を見て、どうも話が通じてないと。

ベルリヒンゲン卿は不思議そうに、一人の女の名を呟いた。


「交渉人の名はオイゲン。オイゲン・フォン・マインツ。貴女の娘だと名乗っているのだが……何も知らんのか?」


私にとって一番大切な者。

たった一人の娘の名前だった。

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