第184話 子供のたわごと
ヴァリエール殿下の御命令により、酒保商人や旅芸人といった非戦闘員は後方に退けられた。
ロバを二頭連れたこの私もその一人であり、なんとか丘までたどり着く。
とりあえずは安全地帯までたどり着いたと言ってよいだろうが、殿下の敗北となってしまえば我らも財産を全て強奪されて、飢えて死ぬだろう。
或いは、調子に乗ったマインツ枢機卿の騎士団に殺されてしまうか。
誰もが気も漫ろで、戦場の様子を窺おうとする中で。
――ふと気づけば、横に一人の少女とケルン派の修道女が話し込んでいた。
「小高い丘と聞きましたが傾斜は緩やかで、ここから全軍が見渡せるというほどでもないですね」
「本当に明確な高地とあれば、先にマインツ枢機卿が陣取っておりましたでしょう。この辺りは平野であり、マインツ修道騎士団の騎兵が活躍するには適しております。兵力の優勢を活かすこともできるでしょう。あの枢機卿は残念ながら無能ではありません」
名こそ知らぬが、二人の事は知っている。
子供のほうは、確かアナスタシア殿下からの伝令使が連れてきていた従士である。
もう一人は騎士となったばかりの元傭兵団長たちに請われて文字などを教えている、ケルン派の写本家であった。
「一応、貴重な通信用の水晶玉を持ってきたんですが無意味ですね」
「まあ、そもそもヴァリエール殿下に敵地の奥まで見通せたことを伝えたとしても、どうしようもないでしょう。即座に戦闘隊形を切り替えられる教練を積んでいる軍でもありません」
どうも、馬借の私などよりも教養の高い二人であるようだ。
世間話でもするように、誰に隠すこともなく話し込んでいる。
「殿下の軍勢主力は傭兵団や黒騎士です。個人や小規模軍勢の戦闘となれば腕が立つものも沢山いるでしょうが、ここまで急に迫られた戦となれば、酷く原始的な形で――」
子供が自分の腰にぶら下げていた木剣で、地面に横棒を引く。
単純な斜線であった。
おそらくは陣形図を酷く単純化したものであり、その一本の左端をとんとんと棒でたたく。
「兵力を左翼に極限まで集中させました。ベルリヒンゲン卿が率いる騎兵隊、乗馬戦闘に覚えがある黒騎士連中、そして私を戦闘の邪魔だと置いていった立派な騎士様の伝令使一行ですね」
子供は頬を膨らませながら、地面を木剣で擦る。
「ヴァリエール殿下の軍勢が勝つ方法は単純です。ベルリヒンゲン卿率いる騎兵隊が側面を回り込んで、戦列を崩壊させることが出来れば勝機は見えます。上手く陣中のマインツ枢機卿を見つけ出したならば、そのまま討ち取ればよろしい」
至極単純な話です、と子供は言ってのけた。
ケルン派の写本家は眉を顰めた。
「そう簡単にはいかないでしょう。マインツ枢機卿は先ほど言ったように無能じゃない。戦場経験豊富な選帝侯なんですよ。此方側の手など容易に読むでしょうし、最低限こちらを見た瞬間に思惑を察するでしょう。軍人として教練を積み、演習を何度も繰り返している修道騎士団であれば、容易に陣形など変えられる。同じように戦力を集中させ、抜かせまいと抵抗してくるはずです」
写本家は子供から木剣を受け取り、同じように一本の線を引いた。
線の右端をとんとんと叩いて、対抗するようにして右翼に戦力が集中する旨を伝えた。
「敵を誉めたくはありませんが――マインツ枢機卿は奇策を好まず、同時に相手に奇策を試みる余裕も許しません。純粋に兵力の優勢による平押しを試みるでしょう。戦闘正面を継続させ、倍軍による分厚い戦列により、こちら側を平らに押しつぶします。こちらの包囲すら試みないでしょう」
どちらかといえば、ヴァリエール殿下の軍勢が側面から攻撃される可能性のほうが高い。
私ならば、戦列の背後に騎兵などで即応できる部隊を残しておいて、と地面に〇を書く。
「少しでも殿下の戦列が崩れたならば、その穴に突撃させるか。あるいは戦場が硬直化し、士気低下などにより戦列の身動きが取れなくなった瞬間に、兵力を集中してない右翼に突撃させて後方を取りますよ。それこそ、そのままヴァリエール殿下を討ち取らせるチャンスだってある。それだけ兵力差に余裕があるんですから」
至極単純な話ですよ。
こんなの軍学齧ってない私でも理解できるレベルの話です。
子供に対して妙に対抗心を剥き出しにしている写本家に対して、子供は微笑んだ。
「そうですよ。普通にやれば勝てる戦である以上は、マインツ枢機卿はそうするだろうとザビーネ卿も言っておりました。というか、この戦いマトモにやれば勝ちの目なんてないですよ」
兵数は少なく、装備で劣っており、教練も覚束ない連中。
要らないものと捨てられた落ち穂ども。
それが騎士団にマトモにぶつかり合って勝てるはずがない。
相手は常備軍の家系に産まれ、子供の時から常に鍛え続けており、それこそ本物の暴力を身に着けている連中なのだから。
弱者は強者に勝てないシステムに此の世はなっている。
子供が指を折り、一つ一つ負ける理由について呟いた後。
「まあでも、この程度の戦であれば確実に勝つでしょうよ。ヴァリエール殿下の勝利条件が揃い過ぎている」
本当につまらなそうに子供が吐き捨てた。
頭を捻る価値もないと言いたげで、つまらなそうに。
「……勝利条件?」
「勝利を確定させるための必須条件が揃い過ぎています」
軍学をちょっとだけ齧ったことがある者として教えましょうと、子供が言った。
高慢なようにも見えるが、この馬借にはどうも眼前の子供が愚劣には見えぬ。
むしろ、私のような貧民などよりも賢いだろうと思えた。
「一つは精神的な要素です。マインツ枢機卿の騎士団は、そもそもベルリヒンゲン卿の逮捕とケルン派への異端審問に来たのです。戦争をすることが目的ではありません。兵数は暴力の背景にするためにかき集めたものであり、小競り合い程度しか予想してなかった。自分が一方的に搾取する強者であると勘違いさえしていたのです。一部の古強者などは大丈夫です。もしくは本物の騎士なれば、いざ戦とあれば仕事として暴力を振るう覚悟をすぐに済ませられるものですが――」
さて、私の主のような本物の騎士など、相手方に何人いるものでしょうか。
モラール(士気)はありや?
ガイスト(精神)はありや?
エスプリ(名誉)はありや?
なるほど、秩序ある完遂に至った規律ある隊伍を、無頼が打ち破ることなど決して出来はせぬ。
それが軍隊というものである。
合理の結実を求めて生み出された暴力である。
では、本当にマインツ枢機卿の騎士団は秩序ある完遂に至っているのか?
「逆に、ヴァリエール殿下の軍勢は、もう誰もが後先など考えていないでしょう。自分が振るう暴力に対しての報復など恐れていない。自分の命に係わる自己保存の本能さえもが、忘却の彼方の軍勢だ。ヴァリエール殿下がそう彼女たちを作り変えてしまった。肩を剣で叩くことで、手を握ることで、声をかけることで、最も原始的な主従契約を彼女たちと結んでしまった」
ヴァリエール殿下には何もかもから見捨てられた拗ね者に対する、カリスマ(神の恩寵)だけは誰よりもあった。
服従と承認を要求し、代わりに拗ね者の希望を叶えるという。
その権威だけは選帝侯の第二子女として、生まれた時から手にしていた。
「……彼女は、手を握った相手を絶対に見捨てられないと。誰からも見捨てられた拗ね者にすらわかる愛情を示してしまった」
だから、もういいのだと。
私を見てくれたヴァリエール殿下のためであるならば、もう死んでもよいと主従契約を果たすことが可能な本物の騎士は数え切れぬほどいるだろう。
そのように、子供は語った。
「だから勝てると?」
精神論だけでは勝てぬでしょうと。
写本家は、躊躇い気味にそう呟いた。
先日私を導いてくださった助祭様は、夢見ることを忘れてはいけないが、現実も忘れてはいけないと説いておられた。
おそらくはケルン派の総意であるのだろう。
「それだけでは戦争に勝てません。今話したのは、圧倒的戦力差であろうともヴァリエール殿下の戦線が崩壊しない理由です。自己保存の本能に抗い、恐怖に抵抗できる理由です。戦闘意欲の継続さえ叶えばどうにでもなる。ハッキリ言えば、戦線を長時間維持さえできれば、この戦は勝てます。軍勢の誰もが死に物狂いで抵抗を行えば、ヴァリエール殿下を一定時間守り切れれば勝てる理由があるんです」
これは圧倒的戦力差において、戦争をするための前提条件をヴァリエール殿下が満たしたことを誉めただけです。
まあ、そもそもケルン派の聖職者方が傭兵団のそこかしこに分散して、従軍神母として叫びながら最前線でマスケット銃を撃っているのです。
誰も恐怖に怯えることはないでしょうけどね。
ケルン派を誉めてるのか、逆に全く誉めてないのかよくわからない評価をした後に、子供は笑った。
「二つ目は、もっと単純ですよ。こちらの左翼に集中した戦力が、一方的にマインツ枢機卿の騎士団を打ち破ってしまうからです」
その恐怖は極めて広域に伝染し、マインツ枢機卿の騎士団は殺されていく戦友を見捨てて、戦列に加わることを拒むでしょう。
自己保存の本能に従って、戦が終わった後のヴァリエール殿下による慈悲にすがる判断をする。
誰もが呆気にとられて、やがて恐慌に代わり、手から武器が滑り落ちてしまうのだ。
何もかも確信に至ったようにして、子供が言い終えた。
訝しそうにして、写本家の修道女が呟いた。
「それは貴女の主が、伝令使殿がいるから?」
「もちろん、そうですよ」
他に何があるというのか。
それ以外に何が必要だというのか、と言いたげに。
えっへんと子供は胸を張った。
「……そうなることを、ここで心から祈っています」
写本家は両手を組んで、神に祈るように膝を丁寧に折った。
そのようなことするまでもないと言いたげに、子供は戦場の方向を見つめている。
私はというと、何もかもが子供のたわごとのように聞こえて。
それでいて、そうなってほしいと願わざるを得なかった。
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