第183話 貴女のためなら死んでもよい


ヴァリエール殿下の陣幕に入り、一度だけ停止をして。

爆発するように肺を膨らませて、絶叫した。


「お前は何を考えているんだ!!」


絶叫したのは、他ならぬヴァリエール殿下に対してだ。

何を考えているんだ。

見捨てろと、私を、このベルリヒンゲンを見捨てろと言ったはずである。

眼前を睨みて、そこにいる全ての人間を確認した。

何かに酷く陶酔してしまったかのような瞳で、頬などには熱を帯びているザビーネ卿は殿下の横に立っており。

プレティヒャ卿を含めた今回の旅程にて騎士受勲を受けた数十名が膝を折りて、殿下の前にて礼を尽くしている。

ケルン派聖職者の写本家を含めた数名が、何もかもを見届けるためにその場にいる。

どうでもよいが、アナスタシア殿下からの伝令使である者たちも完全武装で隅に立っていた。

もう一度殿下を罵ろうとして。

――私は殿下の顔を見てしまった。

臆病者が、蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手で、粗末な木製の玉座に腰を下ろしている。

彼女が先ほどマインツ枢機卿に言ったように、目玉はサファイアにあらず、腰の剣の装飾はルビーではなく、肌身は金箔に覆われてなどいない。

ただ一人の臆病者の少女に他ならぬ。

先ほど狂気そのものを剥き出しにしたばかりの人間の顔ではない。


「――何を考えているんだ」


ようやく、声を絞り出すようにして呟いた。

ヴァリエール・フォン・アンハルトはそれに返事をしなかった。

語りかけたのは、自身の配下に対してである。

この旅路にて騎士に成り上がった全ての者に対してである。


「プレティヒャ、そして愛する配下の皆に対して、私は謝らねばならぬことがある」

「なんでしょうか、マイ・ロード」

「本当に簡単なことを――これから言うつもりである。私はそこにいるベルリヒンゲン卿を見捨てることができた。アンハルト以外のケルン派聖職者が磔にされて、火あぶりにされることを見過ごすことができた。旅の本隊から少し遅れたところにいる貧しい馬借などが、マインツ枢機卿の軍勢にちょっかいをかけられて財産を奪われて殺されるなども見ないふりをすることができた」


そうだ!

それでよかったではないか。

ヴァリエール殿下の旅の目的は帝都に辿り着くことであり、それも旅する前よりも膨大な路銀を貯蓄して、兵団を引き連れて到着することができた。

呑める条件だったはずだ!

あのマインツの挙げた条件は、それほど無茶苦茶な法外ではないのだ!!


「なのに、私はそれを見過ごすことができなかった。見捨てれば、ここに膝を折りて私に忠誠を尽くしてくれる全ての騎士が、戦に巻き込まれることがなかったにも関わらずだ。主君と騎士の主従契約において、これは私にとって主君としてはふさわしくない行為と看做している。私の落ち度である。ゆえに、貴卿らに主君として謝罪と説明をせねばならぬ」


誰もしゃべろうとしなかった。

代わりに、すう、というヴァリエール殿下が息を吸う音が聞こえた。


「私を見捨ててよい。私を見捨てても、それを責めることなど誰もせぬようにする。貴女達、アンハルトの騎士が契約を結んでいるのは国家に対してであり、この私に対してではない。アンハルトにいる母上リーゼンロッテでもよい、帝都にいる姉上アナスタシアでもよい。新たな主君に私がすでに渡した感状を抱きて訪ねれば、その二人も悪いようにせぬ。そのための、ちゃんとした感状を――ザビーネ!」

「はい」


ザビーネ卿が、ふらふらと熱を帯びた爛々とした瞳で歩いている。

おそらく、昨夜は眠っていないのであろう。

紋章官の代わりとして、徹夜で感状の全てを書き上げたに違いないのだ。

ちらと、近くの騎士が手にしたそれを目にした。

それは彼女たちが旅路にて為したことへの礼と感謝を尽くしていて――ヴァリエール殿下が例えどのような死に様だったとしても、彼女達は裏切ったのではなく、私が命じたのだと。

アンハルト選帝侯家のためにこそ、軍からの離脱を命じたのであると。

何の恨みも感じられない、本当に丁寧な綴りでまとめられていた。

その感状を持つ、彼女の手は震えていた。

さて、どれくらいの時間がたったのであろうか。

やがて、音が聞こえ始めた。

感状を引き千切り、破り捨てる音であった。


「このようなものは、貴女の騎士として要りませぬ」


プレティヒャ卿はそう言い捨てた。

それがどういう意味かを周囲が理解し始め、そして同じように破り捨て始めた。

やがて――ザビーネ卿が必死に徹夜で書いた全ての感状は破り捨てられてしまった。

努力の成果が無駄になった彼女は怒った様子などなく、瞳は熱を帯びたままである。

やがて、感状を破り捨て終えたプレティヒャ卿が朗々と述べた。


「私たちはアンハルト選帝侯家に仕えたのではありませぬ。アンハルト王家に仕えたのではありませぬ。貴女に肩を剣で叩かれて、貴女の騎士になったものと思ってございます。ここにいる私を含めた騎士ども皆は、何分頭の程度が低く、中には文字を読めず簡単な算術もできぬものすらおります。粗雑乱暴であります。田舎より出でたばかりにて、都の流儀を知らざる――山出しの者が殆んどでありますがゆえに。感状を主君の前にて破り捨てた不調法お許しあれ」


ザビーネ卿は楽しそうに笑っている。

何もかもが予想通りといったように。

ああ、そうだ。


「ですが、殿下とて不調法であります。私が失敗をしたから部下は見捨ててよいなどと。それは主君として騎士に対してあまりにも軽い御言葉ではないでしょうか。貴女が、ヴァリエール殿下が私を拾い上げてくださったというのに、その事実を無視して戦場から立ち去れなどと騎士に放ってよい言葉ではありませぬ」


こいつらは、ヴァリエール殿下という熱病にかかってしまったと。

ならば、それなりの待遇はしてやろうではないか。

そう同病相哀れむような、自分の身内を迎えるような目で見ているのだ。

プレティヒャ卿が――ついに誓いをつぶやいた。


「ヴァリエール殿下が、我が主君が死地にいるというならば、主君を助けに行くか。それが駄目なら一緒に死ぬというのが騎士の生き方であります。殿下が私どもに与えてくださった優しさが理由で死地にあるというなれば、私どもには関係ないなどとほざいて見捨てる騎士がどこにありましょうか。殿下が、もしどうしても今回の件に対して、気兼ねがあるというなれば」


致命的な誓いだった。

死ぬことを前提とした誓いだった。


「今回の死地にて活躍しました全ての貴女の兵に、今まで通り報酬の確約をしてください。誰もそれ以上を求めはしませぬ。そうですね、もし私どもが武運拙く息絶えてしまったのであれば――墓を作り、殿下に墓参りなど来ていただければ嬉しいです」


プレティヒャ卿の本心本音の誓いだった。

何一つ嘘紛れもない言葉である。

ヴァリエール殿下はそれを主君として受け止めた。


「理解した」


殿下が玉座から立ち上がった。

蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手の臆病者が叫んだ。


「全軍全兵に伝えよ。退陣許可を与える。このヴァリエールの軍勢から離れたいと思うものは、今すぐ離れてよい。貴卿らもそれを許可せよ。イングリット商会を代表する酒保商人、馬借などの全て、旅芸人なども含めて戦場から少し離れたところにいよと。我が軍が敗北した場合、速やかに逃げるように教えてやれ」


承りました、とプレティヒャ卿は答えた。

元よりそうするつもりであると言った風情である。


「なれど、もし勝利の暁には特別な報酬を与える。この死地にて特別な貢献を果たした者には、金であれ地位であれ特別な報酬を汝に与えようと。死にたがり全員に伝えなさい。そして、このヴァリエール・フォン・アンハルトがハッキリ言っていたことを伝えよ。この戦は勝つつもりであると。勝ちの公算はヴァリエールの戦略と、貴様らの貢献により見いだされると」

「――ヴァリエール殿下?」


プレティヒャ卿と、いくつかの騎士が驚いた顔を見せた。

私もそれと変わらぬ。

何を言ってるんだ。


「私には勝ちの目が見えていると言っている。それも交渉を勝ち取るための局地的なものではない。圧倒的にマインツ枢機卿を敗北せしめたと誰の目にもわかる勝利を掴み取る自信があるのだと」


馬鹿なことを!

ここまで状況が悪ければ、勝ちなどヴィレンドルフの悪魔超人レッケンベルが、「背高のっぽ」の糸目がこの軍に居ない限りは不可能だ!!

いや、いくらそれほどの超人がいても、戦略無しでは――。

このベルリヒンゲンという強盗騎士とて、明確な事前準備をこなしてこそが悪徳の本領であり、それなしでは何一つできない。

騎士を5,6人巻き添えにして討ち死にが精々だ。


「いいか、私は軍勢の一部を見捨てるのが嫌だっただけで自分も一緒に死んでやろうなどと考えたのではない。勝てるからだ! 無慈悲なまでに勝つことができると『信じている』からこそ、マインツ枢機卿が売ってきた喧嘩を買ってやったのだ。これは高く付くと思い知らせてやる!」


ヴァリエール殿下が高らかに手を打ち鳴らした。


「全員配置につけ。昼にはもう戦だ! それぞれの役目を全うせよ!!」


プレティヒャ卿が、騎士の全員が本陣から立ち去る。

主君であるヴァリエール殿下の姿をハッキリと眼に焼き付けた後に、それぞれが率いる兵の元へと駆け出した。

彼女たちが引かぬとあれば、その兵も引かぬであろう。

配下の配下は自分の配下ではないというが、騎士が主君に対し心服しているのであれば、その部下も当然のように従うのだ。

ああ、それでも、兵が敵に怯えて逃げ出すことはないとしても。

それでも、マインツ枢機卿6000の兵には。

騎士が全員本陣から出て行ったところを見計らって、歩み寄る。

もうどうしようもない状況であるが、何か言わずにはいられなかった。

ああ、でも、何もかもが今更で。

そうだ。

今更なのだ。


「ヴァリエール・フォン・アンハルト」


名を述べた。

彼女は、自らの騎士たちを心服せしめている。

恩で、情で、利益で、心の底から貴女のためなら死んでもよいと。

馬鹿な山出しの騎士どもに、死んでもよいという誓いを述べさせたのだ。

彼女は統治者として完全に間違っている。

だけど、騎士物語の主君としてなれば正しい存在であった。

学も教養もない山出しの枯れ葉どもを、拾い上げてくださって。

いざ戦場で死ぬとなれば、一緒に死んでくれて、それどころかお前だけは逃げてもよいと言ってくださる。

それに対して、騎士になった者どもが『貴女と一緒に戦場で死ぬ』と叫び返してしまうような。

もの知らぬ馬鹿者どもが思わず妄想してしまったような、立派な主君様だったのだ。

私はその名前を思わず口にしてしまって。

それだけで、次に何も言えなかった。

だから、殿下はそれをむしろ気遣ったように答えた。


「アメリア・フォン・ベルリヒンゲン卿」


私の名前が呼ばれた。

何を言うのだろうか。

このような事態の遠因の一つである、私を責める言葉でないことだけはわかっている。


「……ここで私に雇用されただけの貴女は逃げてもよい、と言ってあげれば格好いいのかもしれないけど。ごめんなさいね、貴重な戦力である貴女を逃がすことはできないし。やってもらいたいこともあるのよ」


逃げるものか!

責任はとるつもりである。

マインツ枢機卿に捕まったところで、どうせ拷問で殺されるのが落ちであろう。

なれば、戦場で死んだほうがマシであるのだ。


「本当に危険が多い役割をこなしてもらうこととなるわ。だから、多分本当に貴女は今回死んでしまうのかもしれない。ごめんなさいね」


どのような危険な任務でもよい。

どうせ勝てはしないだろうが、少なくとも勝ちの目がヴァリエール殿下に見えるというならば、そうして上げて差支えはない。

それだけの迷惑を貴女に与えている。


「だから、その――貴女に聞いておかねばならないことがあるわ」

「……何を」


ヴァリエール殿下が私に聞きたいこと。

私の財産の始末であろうか。

そのようなもの、死んだら別にくれてやってもよい。

領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。

何もかも好きにすればよい。

だが。

眼前の少女がそのような欲惚けたことを口にしないのは、もう理解してしまっている。


「貴女が大切にしているもの。銀貨風情では取り戻せぬもの。アメリアという娘に与える数枚の銀貨のために失なわれた者の命について。悪名高き盗賊騎士の母であることがバレても墓を荒らされぬように、細心の注意を払った小さな墓について、その場所を」


言葉に詰まる。

答えを言いたくないのではない。

完全に理解してしまったのだ。


「貴女が、アメリアが死んだら、一緒に墓に埋めてあげる。多分、場所については安全なアンハルトに移してしまうことになるけど、それはごめんなさい。ああ、それだけじゃない。貴女は忘れろと言ったけど、貴女が本当に大切にしているものについて私は全く忘れることができなかった。ごめんなさい」


もう、何も言えない。


「もしもの時は。週に一度、貴女と貴女の母の弔いに墓へ出向く。私にはそれぐらいしかできないの」


それだけだった。

私が生涯を懸けて探してきたものは、ただあなたにとって「それぐらい」の事であったのだ。

母が選帝侯家の子女により、崇高なる名誉を以て弔われるのが保証されることで。

私が見栄えの良い立派な騎士様としてパレードを歩いて、先頭を歩く主君がために胸を張れるような。

馬鹿どもが思い描く、立派な主君様を具現化したような存在が貴女なのだ。


「ヴァリエール殿下」


私は膝を折った。

顔を地面に向けて頭を垂れ、騎士受任式のようにして構えは崩さぬ。

これから嘆願を行うのだ。

人生で今まで誰にも行ったことがない儀式を強請るのだ。

強盗騎士のゆすりたかりなどではなく、一人の騎士として許された行為を。


「この強盗騎士めが、今まで自分が膝を折るべき主君を延々と、この齢になるまで探し続けていた一人の女が誓願いたします」


ヴァリエール殿下は、このアメリアをついに心服せしめた。

もはや、命令があるまで顔を上げることはできなかった。

顔を上げろというまでは、殿下がどのような表情をしているか知ることはできないが。

きっと臆病者が、蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手で慌てているのであろう。

それでよい。

どこか愉快になるようでさえあった。


「貴女への臣従礼(オマージュ)を望みます。アンハルト選帝侯家の第二子女としての貴女ではない、ヴァリエール・フォン・アンハルト個人に対してとなります。領地も、城も、特注の義手も、鎧も、剣も兜も。この剣の何もかもを貴女に捧げますので、どうかわたしを貴女の騎士として迎え入れてくださらないでしょうか?」


この戦が勝てるなど有り得はしないだろうが、それでもよい。

私は人生の終わりにして、ようやく自分に対して、母に対して胸を張って威張れるような立派な主君様を見つけたのだ。

だから、あとは死に物狂いで戦って死ねばよかった。

すぐに消えてなくなってしまう、泡のような夢であるのはわかっている。

それでもよかった。

私は最期にして、ようやく生涯を懸けて探し求めたものを見つけたのであるから。



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2巻の書籍化作業により10月の更新が遅れる予定です

ご了承ください

一巻は物理・電子ともに好評発売中でありますので

よろしくお願いいたします

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