第153話 聖遺物

アンハルト王都のケルン派大教会にて、私は跪いていた。

崇敬の対象は教会の中央であり、磔にされた贖罪主の像が飾られている。

その手にはマスケット銃が握られており、腰の鞘にはピストルが収められている。

大昔は手にクロスボウ、腰にはメイスであったが、写本などを担当する聖職者達が新たなる聖書を発見してきたのだ。

異端どもと最後の最後まで戦い抜き、弾丸が尽きるまで戦い抜き、捕らえられて処刑された後も『勝つまで止めねえぞ! この地獄に何度でも這い上がってやる! 何度でも、何度でも勝つまでだ!!』と絶叫しながら蘇生した贖罪主。

なんて美しい姿なのだろうか。

これほど美しい御姿が世界のどこにあろうか。

このように美しい御方がおられ、聖書たる『新世紀贖罪主伝説』にて今も語られていることを思うと胸が張り裂けそうになるのだ。

私は像を見つめながら、ほう、とまるで梟のように大きな溜息を吐いた。

私などは法衣騎士の長女として産まれ、しょうもない家を継ぐための騎士教育を受けてきたのだが。

ケルン派の教会を訪れ、その極めて神聖なる『新世紀贖罪主伝説』にて贖罪主が復活したくだりを読んで感涙してしまった。

そのまま俗世の穢れを厭って、聖職者となってしまった経歴の持ち主である。

今までの人生に何一つ後悔したことはない。

と、過去を振り返ってしまったが、これはいかぬ。

礼拝の最中であるというのに気を逸らしてはいかぬ。

私はぶんぶんと首を振り、また祈りに集中しようとして――


「姉妹よ」


背後から声がかかり、このポリドロ領の助祭は振り向いた。


「司祭様」


此の世に産まれ落ちた人の殆どが20歳まで生きられぬ。

平均寿命でいえば、農奴など30を生きる者が殆どおらぬ。

人とは長く生きられぬものなのだ。

そんな中で老境に差し掛かり、いよいよもって神秘性を漂わせるケルン派大教会の司祭様が私に声をかけている。

私は一度立ち上がり、再び向き直って跪いた。


「姉妹よ、そのままお聞きなさい。今しがた信徒ヴァリエールの旅立ちにあたって、我が宗派が為すべきことを決めてきました。ケルン派を代表して赴く立場として、この司祭の言葉をお聞きなさい」

「はい」


アンハルト第二王女殿下ヴァリエール様、およびその指揮下の第二王女親衛隊100名は全てケルン派信徒である。

その従軍神母には私が選ばれ、付き従うことになったのだ。

名誉ある立場である。

この助祭にとっては初陣ともいえる。

もちろん、信徒の旅立ちにあたってケルン派が何も支援しないというわけにはいかぬ。


「信徒ザビーネからはもちろん、イングリット商会からの個人傭兵雇用の要請もあり、火薬の取引があるケルン派信徒の傭兵団に広く声をかけました。急ぎの話であるため、確実な数は答えかねますが……」

「どのくらい集まるでしょうか?」

「ふむ」


司祭様が、片手の掌を開く。

5本の指が立っていた。


「公爵の常備軍に匹敵する兵数500は保証できましょう。だって、こんなにも魅力的な話はない。信徒ザビーネが伝えてきた条件――旅路にて傭兵団の特別な活躍有れば、その団長を騎士とする。指揮下の傭兵も、アンハルトの兵士として雇い入れる。これは法外なものですよ。よく王宮からこれほどの条件を引き出してきたものと」

「信徒ヴァリエールは相当な御方ですね」


あの短躰の可愛らしい顔に詰まった脳味噌に、どれほどの展望を詰めているものか。

市井では今、幸運の長い赤髪を持つ麗しき妖精殿下などと謡われている。

その髪一本でも掴むことが出来れば、生涯の安寧が約束されると。

イングリット商会が吟遊ギルドに金を出したとは聞いているが、麗しい姫君の経歴と真実を謡っただけであるのだからこそ、聖職者としても眉を潜める点はない。

ついでにケルン派が如何に崇高かも謡って欲しいところだが。


「実に素晴らしい。元々、領民が全員信徒たるポリドロ領を将来率いる立場であり、婚約者であるのだから――悪い印象はこれっぽっちも抱いておりませんでしたが。婚約が決まってすぐに直下の親衛隊全員を改宗させるカリスマといい、月ごとの報謝といい、私たちが助力するにふさわしい御方」

「アナスタシア殿下は、私たちの従軍参加を拒みましたからね」


ポリドロ卿が行くのだからと、私たちケルン派もアナスタシア殿下が帝都に赴く際は助力しようとしたのだが。

よりにもよって司祭様に対して、あの御方は。


「頼むから付いてくるな気狂いども、と心底嫌そうに断られるとは思いませんでした」

「まことに」


伝説のバジリスクにも似た――全ての蛇の上に君臨する蛇の王、そのような爬虫類そのものである目つきのアナスタシア殿下。

きっと彼女を槍で刺し殺せばその毒で、槍を持った騎士が苦しみ悶えて死んでしまうし。

馬上の騎士なれば、その騎士が流した汗からの毒で馬すら死んでしまうだろう。


「姉妹よ。とはいえ、アナスタシア殿下を恨んではいけませんよ」

「理解しております」


嘆かわしいというのが本音だ。

正直、ケルン派としては信徒であるヴァリエール殿下に王国を継いでほしい。

だが、能力だけは確かに優秀で、アンハルトを継承するのがアナスタシア殿下であることは決定事項だ。

寡兵、初陣、野戦という重なる悪条件で見事に勝利した彼女を否定することなど誰ができようか。

すでに選帝侯としての継承式も行われる予定であり、信徒ヴァリエールはポリドロ領の領主として迎えられることが決定している。

幸運を与える妖精にも等しい魅力を持つヴァリエール殿下は、アンハルト王国を継げぬのだ。


「姉妹よ。アナスタシア殿下と信徒ヴァリエールを比べて、片方を憐れむなど許しません。『後悔はするな、人を妬むな、人の持ち物や地位を羨むな。やっていいのは見下してきた社会や侮辱した相手への報復だけ』と贖罪主も仰っておられます」


悪に対し悪を以って報いてはならない。

これは贖罪主の警句である。

不当な理由で左の頬を殴られたら、正当なる理由で相手の顔面を殴り返すのだ。

殴られたら人は痛い、侮辱されたら人は悲しい。

それをお前は人に対してやったんだということを十二分に相手に理解させ、改悛を促すのがケルン派の教えである。


「なんて素晴らしい聖句なのでしょうか」


私は感涙を流した。

感動に身を震わせ、心臓は張り裂けそうになる。

脈動が止まらない。


「アナスタシア殿下は確かに私たちケルン派を気狂いと侮辱したが、私たちケルン派が気狂いと呼ばれるのは承知の上であります」


知っている。

『私たちは狂っている』。

それだけは認めなくてはならないし、そうでなければやっていけない。

それはケルン派に改宗した聖職者が最初から何度も何度も教えられる聖句であり、それを否定してはいけない。

私たちはどこかおかしいのだ。

きっと、何か、誰から見ても狂った方向に向かっている。

だから、それ自体は否定しない。


「姉妹よ。私たちは狂っている。それを承知しなさい。いつかいつか、私たちが辿り着く極点に至るまで。本願に至るまで。私たちは喜んで狂い続けましょう」

「司祭様」


私はまだ全ての教えを受けていない、助祭たる立場である。

だから、ケルン派が目指す本願が何なのか教えは受けていない。

私は問うた。


「ケルン派の本願は、『物質を超えたパン』なのでしょうか」


聖餅の儀式にて、ずっと疑問に思っている言葉。

それが何かもわからずに、聖餅とともに信徒に与えている言葉。

私にはそれが本願足り得るように思えた。

きっと、この助祭がケルン派にて学び、聖職者として学術研究の一端を担う結果にはそれがあるように思えた。


「違います」


司祭様は、静かに否定して。

更に言葉を繋げる。


「姉妹よ。貴女は賢い。なれど、未だにケルン派が目指す本願について教えることはできません。『物質を超えたパン』は至る道の、経過点に過ぎません。もっともっと、遠いところにあるのですよ。空に浮かぶ星々よりも、それはきっと遠い」


全てを否定して。

空の星々を刺すようにして腕を上げ、教会のステンドグラスに司祭様は指をさした。

今は昼間であり、星は見えず。

そもそもがケルン教会の夜は経費節約のため松明など灯さぬ。

大教会とはいえ、それがケルン派の在り方である。

司祭様は、この盲目なる私に教えた。

星々など見えぬ昼間の空を指さし、星々を目指すというのがケルン派の本願であろうと思えた。


「いつか全てを教える日が来るでしょう。全てを理解する日が来るでしょう。ケルン派の教えの何もかもを知る日が来るでしょう。ポリドロ卿の神母となり、この司祭の代わりに王都にて司祭となる日が。ですが、それは貴女が帝都に向かう信徒がための従軍神母としての務めを果たし、そこからずっと先の話です。傲慢を恥じなさい」


諭す言葉。

私は有り難き司祭様の言葉を受け入れ、自分の先走りを恥じた。

ケルン派の教えを理解したなど傲慢でしかなかったのだ。

歯を噛んで、顔を赤らめ、目を強く閉じる。


「悔い改めます、司祭様」

「よろしい。貴女の疑問は当然のものでありました。では、話を戻しましょうか」


お互いに頭を下げ、私の頭に浮かんだ傲慢を消し去る。

そうして、話題を戻す。


「信徒ヴァリエールが求めた傭兵団の斡旋は済みました。帝都への旅路は大勢のケルン派信徒が連なるものになります。この行軍が失敗することはないでしょう」

「確かに」


第二王女親衛隊兵数100、ケルン派信徒傭兵団500。

これで、私が知り得るだけでも兵数は600を超える。

加えてイングリット商会が手配する酒保商人を合わせれば、そこらの小さな村の領民数など超える数になるだろう。

幸運なる赤髪を持つ妖精殿下なれば、もはや失敗することなど有り得ない。

成功が保証されているのだ。


「ゆえに、これを機会として。貴女には帝都におられるケルン司教枢機卿猊下に届けて欲しいものがあります」

「届けて欲しいもの?」


確かに、この機会に輸送を行えるのであれば、ちょうどよい。

だが、塩と火薬しか倉庫に無いと笑われる清貧なるケルン派である。

枢機卿に届けたい物など――


「さて、姉妹は聖遺物なる存在を知っているでしょうか。清貧なるケルン派にも、そういったものがあるのですよ?」


司祭様は、優しく微笑んだ。

何もかもを包み込むような老婆の、しわくちゃの笑顔であった。

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