第146話 ぶっ生き返す!

きっと、この身は死んでしまうものだろうと思えた。

自分を支え続けていた信念が、完全に折れた音を聞いたのだ。

ならば、私は死んでしまうのだろう。

困ったな。

私は見事に何もかもをポリドロ卿に撃ち破られた。

剣で私を打ち倒し、論にて上回った。

私の懸念を、懊悩を、発狂すらも遠ざけてしまった。

ならば、私は彼と約束をした通りに、この後は全て彼の言う通りに動く必要があった。

私は騎士同士の約束を破るなどせぬ。

犬馬の労を厭わず、この猪が犬畜生のようにして働いてあげてもよかった。

なれど。

私はもう、どこかこれで良いと思ってしまっている。


「テメレール公、死なれては困ります!」


ヴィレンドルフの客将、フェイロン王朝出自のユエとやらが叫んでいる。

これも一つの結末なのだろう。

私はそれを受け入れつつあるのだ。

もうよい。

血が流れすぎてしまったのだ。

これではさすがに助からぬと、自分でもよく分かっている。


「さらばだ。この気狂い猪はこれで終わりよ」


私にはもう心残りなど無い。

ちゃんとモンゴルの資料は残しているし、このファウスト・フォン・ポリドロという男なれば、何もかも良いようにしてしまえる。

そう思えるのだ。

私は、そうして意識を失った。

微かに私の愛する配下どもが、「狂える猪の騎士団」の悲鳴だけが耳に残っている。

そこまでは覚えているのだ。

そして、そこからがさっぱりわからぬ。

私は死んでしまったと思うのだ。

それだけは間違いないのだが。


「――ここは何処だ」


私はと言えば、自室の寝台で毛布に包まれて眠っていた。

あの堡塁にある粗雑な兵士用の簡易寝台ではない。

私が帝都にて所有している館、ランツクネヒトに取り込まれたことで放棄したはずの我が寝室である。

流石に調度品などは何もかも奪いつくされてしまっており、毛布ですらも元々私が所有しているものではなかった。

ただ一つ、異物がある。


「お前は誰だ」


毛布に、一人の少女が潜り込んでいる。

温かい。

血が足りず、すっかり冷たくなってしまっていた私の身体を、少女の体温が温めてくれていた。

要するに、これは低体温症状への治療行為であると思えた。

なるほど、この10歳にもならぬだろう少女が私の横にて眠っていることは理解した。

私は別に同性愛者ではない。

とはいえ、繁殖のための存在でしかない男など大嫌い――一人だけ例外のような存在を見つけてしまったが。

ともあれ、淫売夫などが忍び込んでいるよりは少女の方がマシであった。

さて。

自分の手のひらを眺め、ぐっぐっ、と握りこぶしを作る。


「……生き残ってしまったか」


まあ、これでポリドロ卿との約束を守れるのだから悪くはない。

契約を全うできること考えれば、むしろ喜ぶべきである。

私は私の生存などよりも、その点の方がよほど気がかりであった。


「よいだろう」


私は握りこぶしを解いて、静かに応諾を為した。

同時に、ドアからノックの音がした。


「入ってよい」


私は応答する。

死にかけの私を気遣うようにして、一人の男が現れた。

もちろん、私の部屋を訪れる男など一人しかおらぬ。


「失礼します」


ファウスト・フォン・ポリドロ卿である。

世間では醜いとしか扱われぬ筋骨隆々の姿にて現れ、私の様子を見てほっと息をついた。


「お目覚めでしたか」

「何故私は生きている?」


まずは問う。

結果は良いが、過程がわからぬ。

ポリドロ卿に尋ねて、彼が答えた。


「輸血というものをご存じでしょうか?」

「ケルン騎士より聞いたことがあるな」


はて、聞いたことはある。

医学において一部の修道院や大学が、社会全体における医学の発達を促進している。

瀉血療法などはとうに廃れており、輸血の概念自身は聞いたことがあった。

ケルン派などは忌々しいことだが、戦場音楽奏でる場所に赴くことが多い狂人集団である。

医療などでも秀でているのだ。

だが、輸血自体はあまり上手くいくという話を聞いたことがない。

輸血には副作用がある。

所詮は他人の血液というのが問題であり、血液を保存する方法など無いから、誰か他者を別な寝台に並べて輸血せねばならぬ。

何かの流行り病、体質が合わず衝撃により死ぬ、血液が上手く練り合わずに血が固まってくたばる。

未だ優れた治療方法とは呼べまい。


「どう考えても輸血せねば死ぬという状況下がケルン派信徒において多数あり、どうせ死ぬならやってみようという多くの犠牲を元にして、血液型――互いの血を混ぜ込み、血が固まらぬ組み合わせを見つけ出したのだとか」

「……ケルン派は頭がおかしい」


ケルン派がどのような犠牲者――それも自らの信徒、多くは傭兵か、あるいは従軍司祭などを生贄に捧げてその方法を見つけ出したのかは知らぬ。

知らぬが、私を生き返らせたのはケルン派の知識であるようだ。

アイツらにだけは助けられたくなかったが、現実は違った。

悲しい現実が私を襲っているのだ。


「変な血を混ぜたのではなかろうな――いや、あまりにも失礼な事を言った。謝罪する」


あの状況では、血を分けてくれるものから、その血をもらうための道具すらなかったであろう。

なれば、互いの静脈と静脈たる血管を直接つないで行わねばならぬ。

自分の腕をナイフで切り裂き、血管を引きずり出して血を受け渡してくれたのだ。

誰がそこまでしてくれたというのか。

私の部下ならば当然のようにやってくれたのは分かっているが、そこまでしてくれた者がいるのだ。


「私に血を分け与えてくれた。その勇気ある者には、勇気に対する褒美を渡さねばならぬ。名を教えてくれ。兵士ならば騎士としての身分を。騎士ならば領地を与えよう」

「元はと言えば、私がやったこと。褒美はお受けできませぬ。謝礼を頂けるのであれば、治療を手助けしてくれたケルン騎士殿に」


ポリドロ卿が、あっさりと言い放った。

そうか、お前か。

私の全身に流れる生命力ある血は、お前の物か。


「ふふ」


私は少し笑った。

なるほど、なるほど。

これが私を打ち破った男か。


「勝てぬな」


この全身を巡る血を受け入れて、理解する。

このような熱き血の持ち主に、私のような老いぼれが勝てるわけもなかったか。


「……褒美をやるなど、大上段から失礼な事を言った。お前の言うようにしよう」


全身にほのかな熱が灯った。

顔は紅潮し、どうか、どうしてだか。

私はポリドロ卿の少し困って、それでも微笑んだ顔を真っ直ぐに見つめられないでいる。

理由は知らぬが、私は私を恥じている。


「ポリドロ卿、私を見るな。私の今の姿は余りにも惨めよ。髪が整っておらぬ」


病床の身だからではなく、ポリドロ卿に頭蓋を砕かれた故に。

ユエが治療行為として縫合するために、私の髪などナイフで切り刻んでしまったのだ。

私の美しい髪は短く刈り込まれている。


「それに、鼻だって潰れている」


ポリドロ卿との剣戟において、兜越しに鼻の軟骨をグシャグシャに潰されてしまった。

曲がった形こそ医者が整えてくれたかもしれぬが、ペチャンコになっているのは間違いない。

自慢げにピンと立っていた鼻は、完全に潰されてしまった。


「体も膨れている」


私が眠って起きるまでに、どれだけの時間が経ったのかは知らぬ。

だが、私の身体は未だ回復に至らぬ。

内出血で身体のラインは崩れ、そこかしこに紫色の痣とふくれが目立っている。


「だから、その、私を見るな」


私は今の姿を、何故か眼前の男に見られたくなかった。

理由など分からぬが、そうされたくはなかった。

そうして、そのような事を恥じたところでだ。


「私が全てやった事であり、私がそれを醜いと思うなど、天が切り裂け海が砕けようとありません。今のテメレール公を侮辱するような者が居れば、すぐにでも殺してまいります」


多分、このファウスト・フォン・ポリドロという男は本当に心底気にしないのだろう。

私はそれを知ってしまった。


「……あの増上慢な貴女も正直、それほど嫌いではないのですが。今の素直な貴女は、初めて夜会であった時などより余程に美しい」


私は男が嫌いだ。

だって、アイツら何のために生きているのかわからぬ。

何か喋るとしてもボソボソとしており、奥に引きこもって調度品のように扱われる者か。

あの忠義者の夫のように、庇護される立場として蝶よ花よと育てられ、何か完全に勘違いをした吐き気を催す愚か者ぐらいしか見たことがなかった。

私はそんなものとは違う、一人の男を産まれて初めて知ってしまった。

世間では酷く醜いと扱われる男が、どうしてこうして、ふと見れば良い面をしていると理解してしまった。


「美しいなどと言うな」


お前に褒められると、ようやく蘇生したばかりだというのに、何かもう心臓が破裂して死んでしまいそうになるのだ。

私はそこらの何も分からぬ阿呆どもとは違う。

自分に起きている現象が何かを理解している。

この男は自分を思う存分叩きのめした。

暴力だけでなく、論弁にて私を打ちのめした。

それどころか、自分の血さえも私に分け与えた。


「……」


嗚呼、駄目だ。

顔の紅潮が止まらぬ。

そうだ、私は理解したぞ。

あの死肉喰らいの薄汚い爬虫類じみた目つきのアナスタシア選帝侯が、レッケンベルの愛情を死んだ後にやっと理解するような乳母日傘育ちのカタリナ選帝侯が。

どうしてこの眼前の男に惚れたのかを、今この場で理解できたんだ!

嗚呼、そうか、人はこのように恋をするのか。

私は今まで、貴族としての義務たる自分の子供すらいらぬ、そう思うて生きてきたが。

今では過去の自分が何を考えて生きてきたのかすら分からぬ。


「そうか、レッケンベルは本当にお前に惚れていたんだな」


あの悪魔が何を考えていたのかわからぬが。

男を見る目は間違いなく確かだった。


「――さて」


さて、と呟いて。

どうにかしようと考えたが、どうにもならぬなとも考える。

だって、この28歳の老いぼれ女猪の求愛などを、22歳のポリドロ卿が好むとは思えぬ。

第一、私はポリドロ卿を散々に侮辱してしまったし、ここでお前に惚れてしまったなどと言う権利などはどこにもなかった。

私は恋を自覚したが、そのような事を口に出す意味はない。

ポリドロ卿の貞操を買えるならば、大領地一つ容易く買えるぐらいの金ぐらいは払っても良かったが。

それで彼が話を受けてくれるとは、とても思えぬ。

私の産まれて初めての恋は、始まる前から敗れてしまっていた。

断られて傷つくくらいなら、口に出さぬ方が良い。

私は静かに自分の初恋を諦めた。

話をすり替えてしまうことを試みる。


「一つ尋ねたいことがある」

「何でもお答えしましょう」


私の心中など何一つ理解していないだろう武骨なるポリドロ卿に対して。

さっきから気にしていたことを口にした。


「この少女は誰だ?」


血を失い、身体を冷やした私の身体を暖めてくれた少女のこと。


「誰の子どもかは知らぬが、この少女と、その親にも礼を言わねばならぬのでな」

「親はもう、此の世にいませぬ。あえて言うならば、私の子供とでも申しましょうか」


ポリドロ卿が、全ての慈愛を込めた瞳にて少女を見つめている。

私はあのような目で父親から見られたことなどなかった。

少し、私は自分の過去について理解しつつあるが、多分男嫌いなのは父親が塵芥のような存在であったからだろうな。

恋叶わぬこの身にはもはやどうでもよいことだが。


「――お前の子供?」


ポリドロ卿が、ファウストが呟くその言葉は酷く気にかかった。

どういう意味であろうか。


「私がアンハルトにて引き受けた従者にして、騎士見習いにして、私が貴方に教えた本の著者。マルティナ・フォン・ボーセルです。私にとってはもはや娘のような存在です」


意味はわからぬ。

なれど、ポリドロ卿は本当に優し気な声で呟いた。

そうか。

なるほど、これがレッケンベルさえも超える才能の持ち主か。

私にとって。

私にとっては、何かこれはもはや、天命のようにすら思えた。

子などいらぬ男嫌いとして今まで生きてきて、どこか親戚の子をもらってきて後を継がせれば良いと考えていた今までの私が。

28歳にして初めて恋に溺れかけ、その恋が叶わぬことを挑む前から知っており、その男が自分の娘と呼ぶ者が私の傍で寝こけている。

同時にそれは私の眼を開いた存在であり、この神聖グステン帝国の未来を変えるかもしれぬ才能の持ち主なのだ。

そうか。

多分、これはきっと一つの運命なのだろうな。

自然とそう思えた。


「ファウスト・フォン・ポリドロ卿。話がある。このような事を突然に言われて困るかもしれぬし、貴方がこの子の父親だというのであれば、拒むかもしれぬ。この少女の事はろくに知らぬが、私はこの少女が書いた本の価値を理解している」


私は今考えていることを口に出す。


「だから、どうか、お尋ねしたいことがある。もしも、この少女の未来がまだ確定していないのであれば。騎士見習いとして未来がまだ定からぬ立場であるならば、一つの選択肢を提示したいのだ」


私が今考えたばかりの、何を言い出すんだと言われそうな。

それでいて――運命を感じた男と少女に対するお願い。


「この娘を、私の跡継ぎに。お前が父親のようなものであれば、私が母親という立場に。このシャルロット・ル・テメレールが支配する領地の後継者に推薦するつもりはないだろうか。この老猪、伏して希い奉る」


私は未だ目覚めることの無い、多くの才能を秘めた少女に対して。

多分、男女の交わりなどする事は生涯無いであろう惚れてしまった男に対して。

ありとあらゆる願望を込めて、そのように呟いた。


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