第145話 致命の一撃

私の名はユエである。

祖国たる、もう滅んでしまったフェイロン王朝では「月」を意味した言葉である。

家名は名乗らぬ。

それはすでに捨ててしまったものなのだ。

もし名乗るとすれば、それはトクトア・カンを。

私の一族を皆殺しにした、私の祖国を、故郷を滅ぼしたトクトア・カンを。

テメレール公が言うところの国号「モンゴル」なる国の皇帝を殺した時に、再び名乗ることが許されるのだろう。

そのような事を考えている。

私はというと、この夜半に、奇妙な沈黙に耐えかねているのだ。

夕陽はすでに落ちていた。

堡塁前に集まっていたランツクネヒトや帝都兵などは、すでに撤収してしまっている。

アレクサンドラ殿が、もう終わったと。

この勝負はもはやポリドロ卿の勝ちで終わったと周囲に告げてしまい、まあテメレール公さえも口では抵抗しつつも、負けたと言われたところでそれを咎めなかった。

ポリドロ卿に殺されかけたダメージから回復してきた「狂える猪の騎士団」などが集まってきて、周囲の兵士などを無理やりに収めて、解散を告げてしまった。

ポリドロ卿は異常である。

あのような騎士、巨大なるフェイロン王朝にすら存在しなかった。

一呼吸するだけで削れた体力を回復し、骨のヒビすら短時間で回復し、その技量はどのような達人相手であろうとも抗えるほどで、対抗している時間に相手の技を覚えてしまう。

一騎打ちなれば、何があろうと負けぬ。

もちろん彼に勝つ方法はあり、強力な騎士や武将の集団で取り囲み、呼吸を整えることが出来ぬほど矢継ぎ早に殴りつければ、勝つことは可能と思えた。

ポリドロ卿はそれを打開するための何らかの手立ても未だ隠しているだろうが、まあ死ぬときは死ぬであろう。

同時に、準備万端なれば何があっても一騎打ちにては死なぬだろう。

そういう感想を抱いている。

まあ、それはよい。

大事なのは、このユエにとって大事なのは、シャルロット・ル・テメレールと名乗る公爵である。


「なるほど」


一つの本を、「銃・砲・騎士」なる本を読みふけっている。

彼女こそが重要たり得た。

神聖グステン帝国の重要な起点として、私の目的に足り得るように思えたのだ。

カタリナ女王陛下は私を重要な客将として迎え入れてくれた。

肌の色さえ違う私を、強力な超人として、ヴィレンドルフの最英傑たるレッケンベル卿の代わりの将軍として迎え入れてくれたのだ。

そこに文句をつけるなど、恥を知るべきである。

なれど。

なれど、やはりテメレール公に比べればやや劣る気がしている。


「ポリドロ卿、尋ねたいことがある。いくつかだ。ほんの少しで済むだろう」


もしフェイロン王朝にテメレール公がおれば。

モンゴルに、トクトア・カンに追い詰められる前のフェイロン王朝なれば、勝てたかもしれない。

フェイロン王朝が、騎兵20万の軍を率いる遊牧民族の長に、トクトア・カンに勝てる要素たり得た。

あの遊牧騎馬民族国家の王は確かに強かったし、フェイロン王朝における全ての超人の能力を超えていたのだろう。

だが、それは理由になどならぬ。

負けたのは、トクトア・カンが強者だっただけではない。

フェイロン王朝がどうしようもない弱者であったからに過ぎない。

吐き気を催すほどに国の機能が死んでいたのだ。

国家の滅亡に至るまで、国家内部の権益争いを続けていたのが我々だ。

誰かが必死になって戦争のための物資をかき集めても、いつの間にか誰かがそれをくすねてしまう。

どこもかしこも準備不足のままの戦争を強いられる。

故郷のため必死になって兵士を集めても、それは野盗と変わらぬような顔ぶれで、酷い時など官軍であるからと味方の町や村を焼いては、掠奪を働いていた。

誰も真面目に戦わぬ。

フェイロン王朝が完全に滅ぶまで、その様子が続いた。

味方が懐を肥やすために自国を食い荒らす有様で、どうやって戦争に勝てようか。


「……象徴がいなかったんだ。私も故郷を守る一人の将軍に過ぎず、それだけだった」


酷いのは、戦争中に軍による政権奪取が起きて皇帝が殺されたことだった。

戦争に勝つ為にやったことではない。

担当地区における敗戦責任を問われたくなかった将軍が軍権を掌握し、皇帝を殺したのだ。

国を奪ったその将軍もまた、全く同じ理由で別な将軍に殺されてしまった。

ここまでくると、笑うしかない。

最初からどいつもこいつも、国のことなんぞは考えていなかった。

自分の責任なんぞ放棄して、咎められたらその相手を殺し、将来など何一つ見えておらず。

誰一人真面目にやろうとしなかった。

滅んで当然である。

グステン帝国の方がマシであった。

皇帝と教皇は裏切れど、まだテメレール公がいた。

危難を理解し、国の為と何もかもやろうと動いた人物がいた。

私は少しばかり、この偏屈で増上慢な超人に感激すらしていた。

人格面には何一つ褒めるところなどないのだけれど。

まあ、それはそれとして。


「力不足ですね」


虚しさも同時に感じている。

テメレール公は確かに一廉の人物であるが、明らかに力不足だ。

今の神聖グステン帝国に勝利をもたらすには足りなかった。

彼女自身すらそれを理解しており、表立って認めようとはしないが、せめて帝国における最後の皇帝として相応しい在り方を世に示そうと。

せめて最後まで抗うだけ抗おうと。

そのように動いていた。

実のところ、その程度しかできないだろう。

そして、それすらもファウスト・フォン・ポリドロという一人の暴力に打ち砕かれた。


「……さて」


このユエの目的は、トクトア・カンの殺害である。

私を逃した一族の復讐である。

家名を取り戻すための報復を果たさなくてはならない。

何一つブレの無い覚悟である。

そのためだけに生きており、その達成のためには目の前の事件の解決が必要である。

シャルロット・ル・テメレールという一人の武人を、自陣営に引き入れる必要があった。

私は。


「ポリドロ卿よ。貴方はどうされるか?」


彼には聞こえぬように、小さく呟いた。

私は、彼に密かな好意を寄せていた。

彼を見ていると「武俠」という二つの言葉が浮かぶのだ。

ポリドロ卿は己の信条に則って、己のあり方を示そうとしている。

此の世全ての理不尽を武力にて踏み潰そうというのだ。

ポリドロ卿は男なれど、誠に以て武人として最も尊いものが何かを理解していた。


「惚れるわね」


じろ、と横にいるアレクサンドラ殿が私を睨んできた。

ふむ、聞こえてしまっただろうか。

フェイロン王朝でもポリドロ卿の姿は異形であり、男としての魅力には欠けているが。

じゃあ人として好まぬかというと、全くの正反対である。

あの男が「狂える猪の騎士団」の超人一人一人を打ち倒す度に、心のどこかが疼いていた。


「何か言われたか、ユエ殿」

「貴女が聞こえたとおりですよ。アレクサンドラ殿」


私は声は潜めれど、復讐を誓ったこの身が男に好意を告げるなど、武人らしくないと思うだけであって。

別に、私がポリドロ卿に好意を寄せていることが誰にバレようと構わなかった。

それはアレクサンドラ殿も理解しているようで、別に私が彼に惚れようが咎めるつもりもないのだ。


「私はポリドロ卿が渡した本に興味があります。内容は御存じないでしょうか?」

「知りませんね。マルティナ・フォン・ボーセルという少女については知っておりますが」


よく世間話などもするのですよ。

本当に賢い子で。

ああ、これは本当にポリドロ卿が床に頭を擦り付けてでも、助命する価値があったのだと理解してしまうほどに。

あのくらいの子供であれば、もう少し我が儘であってよいと思うくらいには、理知的で優しい子ですよ。

そのような、アレクサンドラ殿の優し気な声を聴く。

酷く興味が湧いている。

ポリドロ卿に頼めば、会って話ができるだろうか。

そのような事を考えている間にも。


「理解しつつある」


テメレール公が、私が絹糸と針で強引に縫い付け、髪の毛などナイフで短く切り取ってしまった頭で。

金のフレームで出来た、水晶の眼鏡を掛け、静かに本を読んでいる。


「ポリドロ卿。私はこの本の内容を理解しつつある」


視線を上げることもなく、テメレール公はずっと本を読み続けている。

狂える猪の騎士団6名が半死半生で縋りつくように周囲に集まり、蝋燭を保持した灯火具を用いて、テメレール公の手元を照らしていた。

夜の闇は、彼女の手元以外を隠している。

明かりはそれだけであった。


「この本にはいくつも目を見張ることがあり、この本を書いた人間にはいくつか聞きたいことがあり、逆に私が増補できることも多々ある。足りないことなど多いさ。まだ経験が少ないのだろうな」


テメレール公の声には、微かな興奮が感じられた。

私を倒したのだから、まだ負けを認めていないが、まあ一応は読んでやる。

ひねくれた子供のような態度で読み始めた時とは改まって、真剣な声色で。


「私は諸兵科連合を、自らの軍にて試みた。兵科相互に欠けている能力を補完し合うことで、戦場を操る術をこの手にする事が出来ると考えた。まあ、レッケンベルが用意した、命など投げ捨てて狂人のように突撃してくるランツクネヒトには負けてしまったのだが」


あの時は、自身の能力が足りないというより、結局はレッケンベルが強かったのだ。

そう結論付けてしまった。

だけど、と。

そうテメレール公は前置きして。


「私がこの本を、7年前に手にしていれば。少なくともあのように無様な負けを喫することはなかったであろうな」


少し、面白そうに呟いた。

テメレール公は笑っている。


「……兵科の能力を把握し、それを補填する考え自体は昔からあったのだが。そうか、この少女は砲兵こそ今後最も重要であると考えているのか。私もそれは変わらぬ。彼女が凄いのは、ではどのように運用するか、その訓練方法は何か。銃や砲を放つ作業自体を、武術の動作のように緻密に記載していることだ。もちろん、それは机上の論も多数目立つが、この少女であれば一つ教えてやりさえすれば、すぐ修正してしまうことだろう。私などあっさり超えて」


テメレール公の頬が紅潮していた。

灯火具に照らされて、闇の中で唯一それが良く見えた。


「そうか、そうか。私は何か勘違いをしていたのだな。お前が言うように、老いぼれであったのだ。レッケンベルや私など、一時代前の将軍に過ぎず。我らの考えすら追いつかぬほどの人物が、今も神聖グステン帝国には産まれているのだ。もしこの本のような軍事教練が実現可能なれば、まだ帝国にも勝ち目が残っているかもしれない」


大切そうに本を抱えていたが、やがて瞳が潤んで、テメレール公は本を閉じた。

本の頁を最後まで読み終わったのだ。

横を向いて、狂える猪の騎士団の一人に声をあげる。


「ケルン騎士。私はお前らの、ケルン派の秘密を知ったぞ。硝石の生成方法をお前らが知っていることを、おそらく醸成場があることを、私の想像以上に大量の火薬を抱えていることを」

「ええ、仰る通りです」

「私はそれを知らなかった。私は――ケルン派にとって信じるに値しない、全てを任せるには至らない存在だったのだな」


テメレール公は、寂しそうにつぶやいた。

ケルン騎士が答えた。


「少し違いますね。もしテメレール公が皇帝位簒奪に成功したのであれば、全てを教えるように指示されていたので。貴女しかいないのならば、自然貴女に全てを任せることになったでしょう」

「……そうか。見ての通りだ。私はただ醜く足掻いていただけで、何もかもに失敗した。お前らの見込みは間違っちゃいなかったよ。そうか。私が一人馬鹿みたいに暴れていただけだったのか。この分だと、ケルン枢機卿も教皇の裏切りには気づいているだろうな」


裏切り? とケルン騎士が呟いた。

教皇の裏切りまでは、さすがに知らないようであった。

だが、知っているのがテメレール公だけとは、もはや思えなかった。

おそらくは宗教派閥でも闘争が始まっている。


「……」


テメレール公は、閉じた本の題名を指で愛おしそうになぞった。

「銃・砲・騎士」と書かれているのみである、その騎士の部分を親指で覆い隠して。


「『願わくば今の神聖グステン帝国皇帝陛下が最後の騎士などと呼ばれぬことを祈ります』と。そう本には書かれていたな。そうだな、まさに私だよ。今気づかされたが、せめて皇帝に成りあがって、モンゴルに最後まで立ち向かって死ぬ最後の騎士としてあらんと私は考えていたんだろう。どうしようもない阿呆の老猪にすぎぬ」


よろよろとして立ち上がり、ポリドロ卿に本を渡そうとして手を伸ばす。


「本を返すとしよう。お前の言いたいことはよくわかった」


ポリドロ卿は黙って、それを受け取った。

もはや両者に殺意は無いように思えた。


「さて、そうだな。私の負けさ。それを完全に認めよう。私は何も知らないとお前を罵ったが、私の方こそお前らの何も知らなかった」


テメレール公は、今までの様子が嘘だったように負けを認めた。


「それで――どうするかな。お前の望み通りにするのはよいが」


何か、少し困ったように呟いて。

ふらり、とテメレール公の身体が揺れ動いた。

頭上の縫合傷から、また血が滲み出ていた。


「すまんが、生きてたらになるだろうな。死んだら、後は任せた」


テメレール公は全ての気力を使い果たして、前のめりに倒れた。

慌てて私は駆け寄り、なんとか彼女を抱きとめる。

その体は血が流れ過ぎており、驚くほどに冷たかった。

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