第144話 井の中の蛙大海を知らず

私は武器を手放して。

もはや気力だけで立っているテメレール公に歩み寄り、問いを放つ。


「テメレール公に問う。貴女が本当に望むのは、皇帝の座ではないと知った。それは手段でしかなく、帝国を救えるのであれば。手段は問わないのだと解する」

「私が皇帝の地位に就く以外、どのような手段がある。お前らの底は知れているんだ!」


確かに。

テメレール公が口にしているのは私たちへの偏見などではなく、テメレール公から見た真実であるのだ。

アナスタシア殿下、アスターテ公爵は戦略・戦術ともにレッケンベル卿に負けていたし。

このファウストには、人を殴りつける暴力以外の能力は持たない。

我が身は、転生者である。

なれど、間違いなくこの世に産まれ落ちた人間で、価値観さえも現世と前世が相混じっている。

そして頭はよろしくなく、前世の知識をこの世界において流用することなどできず、それによる何かを成し遂げるなどは何一つできなかった。

私の力は全て母が産み落としてくれた、私の肉体のみによるものである。

私がゲッシュを誓い、それをアンハルト王国の騎士たちが信じてくれたことは。

モンゴルという強力無比な国家の知識があったからではない。

アナスタシア殿下、アスターテ公爵、私がかつて成し遂げたレッケンベル卿との戦いという結果において恩義を感じてくれた騎士がいたから。

私一人ではここまで何もできていないことを、この小さな脳みそで理解している。

私は自分のみの力にて、ここまで辿り着いたわけではない。

なれば、テメレール公とて、誰かを頼るべきではないか。


「テメレール公。では、私たちは何一つ役に立たぬということか。全部自分でやるということか。選帝侯足り得るアナスタシア殿下や、カタリナ女王には何も任せぬということか。何もかも成し遂げたところで、孤独な皇帝としてただ一人何もかもを成し得るつもりだったのか」

「――私は理解しているだけだ。お前らはどうせ裏切ることを理解しているだけだ」


テメレール公が、悲痛に満ちた表情をしている。


「裏切るんだ。皇帝や教皇と同じように裏切る。だって、お前らは自分の領地を保全するためならば、何だってやるだろうが。領地のためにトクトア・カンの小便を飲めと言われれば喜んで飲みさえするだろう。『死よりも名を惜しめ』などという無謀が許されるのは、子孫の名誉がために他ならぬ。自分の一族が敗北必至なれば、自分の領地と民を失う選択肢を告げられれば、誰もがそうする」


お前とて、そうする。

寂しそうに吐き捨てるテメレール公。


「我らが裏切らず、貴女に協力するとすれば。裏切らぬようにゲッシュを誓えば如何するか」

「ポリドロ卿。私は先ほど言ったな。裏切ってはいけない立場の人間と、裏切っても許される立場の人間がいると。皇帝や教皇などは明確な前者で、お前などは明確な後者よ。領民300名の辺境領主騎士が、民や領地のために名誉をかなぐり捨てて誰が責めようか」


妙に優し気な声であった。

テメレール公は、それだけ言った後に膝を崩した。

ユエ殿が支えようとするが、彼女はそれを強く跳ね除けた。

あくまでも一人で立とうとしている。


「ポリドロ卿。お前はきっと、アナスタシア選帝侯やアスターテ公爵の事を強く信じているのであろう。お前の事を裏切らぬと。お前が命を投げ捨ててゲッシュを誓ったゆえに、それを信じてくれたがゆえに、裏切らぬと。そう信じたのだろう」


皇帝や教皇という立場の者が裏切ることなど有りえぬと信じてしまったように。

そのようなとんでもない間抜けがこのテメレールであると。

お前はそのようになるなと。

小さく彼女がそう呟いて、幼子を諭すように呟く。


「お前がどのようにして遊牧騎馬民族国家の侵攻を知ったかは知らぬが、その全容については知らんだろう。それはゲッシュの言葉から理解できる。お前はモンゴルが攻めてくるのは7年以内と言ったそうだな」

「仰る通りです」

「私の予想ではあと2年もない」


――かつて前世で金王朝が屈服し、モンゴル帝国がドイツ・ポーランドを攻めるまで何年かかった?

私がそこから予想して導き出したのが7年であった。

だが、テメレール公の言葉からすれば、もう悲しいぐらいに時間がなかった。


「ポリドロ卿が言葉通り、7年だったらまた違ったのかもしれないな。あのマキシーンの小娘も、勝てる要素を見出したかもしれない。だが、もう時間は無いのだよ。もう2年もすればモンゴル軍158000騎が押し寄せるだろう。道草とばかりに東の大公国を滅ぼして、亡国の兵隊すら使い捨ての奴隷兵として加えて兵力を増して。やがてアンハルト・ヴィレンドルフ北方の大高原を補給拠点として、神聖グステン帝国の何もかもを掠奪する」

「テメレール公、私は」

「ポリドロ卿。ヴィレンドルフぐらいでしか好まれぬ醜き男騎士よ。もうよい。お前は何も知らなかったんだろう。私は一度言ったな。何も知らない、何も理解しない、何もしようとしない、裏切りすらしたお前らどもとレッケンベルは違うと。お前は、そのうちの『何も知らない』の枠に入るんだろう。中途半端にモンゴルの事を理解していたからこそに失敗してしまった。そのような存在なのだろう」


ゲッシュを誓ったと聞いている。

契約を遵守しなければ、あと7年以内に死ぬと聞いている。

私はレッケンベルを殺したお前について調べたのだから、全てを知っている。

そのようにテメレール公は述べた。


「逃げよ。22歳のお前が29歳まで生き残れるならばよかろう。子供を作る時間もある。『騎兵なれば30歳まで生き残れると思うな』なんて言葉もある。騎士なれば、長生きと言っても良いであろうさ。どこか遠くに領民を連れて逃げてしまえばよい」


私はお前の裏切りは許されると思っている。

テメレール公はそう告げ、少しだけ、急にきょとんとした幼子のような表情をした後に。

けらけらと、何かおかしくなってしまったように笑い出した。


「何を言っているんだろうな私は。いや、そうだ。私は何一つ間違ったことなど言ってはいない。私はお前に殺されても負けを認めないが、少なくとも一騎打ちにおいてお前は私なんぞやレッケンベルよりも強かったことを証明した。その褒美としてアドバイスぐらいはあってもよかろう」


全てを知れば。

私が知る情報の全てを知れば、お前が信じるアナスタシアとて裏切る。


「だから、もう逃げよ。この堡塁からすぐに出て領地に帰り、民を連れてモンゴルすら及ばぬところ逃げよ。そうだな。お前が打ち倒した『日陰者』の故郷たる島国まで逃げれば、さすがに襲ってこぬだろうさ」


テメレール公は、本心からの優しさでそう告げた。

それを理解している。

ああ、そうか。

私はようやく理解しつつある。


「テメレール公、本音が透けたな。結局のところ、貴女は皇帝になるなどと嘯いているが、その結末として自分の勝利が見えてなどいないのだろう」

「……」

「貴女は皇帝になりたいのだろう。嘘か真かは知らぬが、貴女から見て裏切者である皇帝陛下や教皇猊下にはもはや任せられぬのだろう。だが、じゃあ貴女が皇帝になれば勝てると考えているかといえば、そうではない」


もはや神聖グステン帝国最後の皇帝という名とともに、自分の首がウィンドボナ市街に晒されることすら覚悟している。

テメレール公は自分が皇帝ならばモンゴルに勝ち目があるとは考えていないのだろう。

彼女が皇帝になろうとしているのは、私の眼前にて一人立ち塞がっている通り。

結局はただの意地張りにすぎなかった。


「……やるまで勝負はわからんさ。どう考えても倒せぬレッケンベルとて、お前が倒した」

「テメレール公。もうよい。貴女は確かに我々より多くの事が見えているのだろう。私の事を何も知らない者だと言ったし、事実私は貴女が知る情報など何一つ知らなかった。ゆえに、私は貴女に全ての情報開示を望む。アナスタシア様やアスターテ公爵、カタリナ女王陛下にモンゴルの事、帝都における現状の全てを教えて頂きたい」


私が求めるのは、テメレール公が未だ隠している全ての情報をこちらに委ねて欲しい。

一騎打ちにて私が勝利したならばと約束をした一つの事だけである。


「信じられぬと言っている」


それにはテメレール公に一騎打ちで勝つ必要がある。

だが、テメレール公は殺されても敗北を認めぬだろう。

だから。


「貴女はレッケンベル、レッケンベルなどと口を開けば呟くが、実に愚かしい。それ以上の人物を知らないからそのような事を言えるのだ」


私は強い言葉を吐いた。

テメレール公に対する挑発である。


「何を言っている」

「確かにレッケンベル卿は強かった。彼女に比べれば、貴女の言うように私たちなどは脇役や端役なのだろう。私はテメレール公の言葉全てを否定せぬ。何一つ否定せぬ」


私はレッケンベル卿を侮辱するつもりなど欠片もない。

なれど。

私は心にもないことを呟くこととする。


「なれど勘違いするなテメレール公。貴女の増上慢ぶりに酷く吐き気を催すんだ。何もかも悟った気になっているようだが、貴女が此の世全てを知り尽くすことなど生涯かけても有りはしない。このファウストが、貴女の言う通りにアナスタシア様やアンハルト王国の他の同胞騎士を見捨てて逃げ出すなどと少しでも頭によぎった時点で底が知れている」

「――人の善意を」

「貴女のそれは善意ではない。死にかけの老いぼれが耄碌してほざいた生き残ること全てが美しいなどという言を真理や善意と呼ぶも同然だ。もう一度言う。何を悟った気で居やがるんだ」


私は誰も裏切らぬ。

そして、アナスタシア様やアスターテ公爵が私を裏切らぬことを知っている。

カタリナ女王陛下が私を裏切らぬことを知っている。

薔薇の花を捧げた際に、此の世全てたる母の愛に気づいて涙を流した彼女を見たことから。

ゲッシュを誓った私に、何の理屈も示せぬ私に同意してくれたことから。

それだけで、私が死ぬまで信頼を注ぐには十分に過ぎる!


「物知り顔で、それ以上に賢しらに振る舞うのはよせ。卑怯な振る舞いはよせ。レッケンベル卿にこれ以上縋るな。貴女がやることは、結局のところ一つだけでしかない。帝国を救うのだ。貴女の本来の目的に立ち戻れ。その方法は皇帝になることなどではなく、全ての情報を私と私が信じる全ての人に明かす事だけである。過去にいつまでも縋るな、この意地っ張りの老いぼれ風情が!」


テメレール公の頭から、液体が噴き出た。

激昂したのだ。

脳に血が巡り、髄液と黒い血が混ざりあって、彼女の顎先から垂れ落ちた。


「何の方策もなく、何の目算もできず、ただ若さに任せて駆け走るがばかりの愚か者になるぐらいであれば。意地っ張りの老いぼれ風情で構わぬわ!」


テメレール公が叫んだ。

結局のところ、私は愚かなのだろう。

私だけは、このファウスト・フォン・ポリドロだけは彼女の言う通りどうしようもない愚劣でしかなかった。

この帝都に来ることすら、私には何もすることができないからと拒むつもりであった。

彼女を老いぼれなどと呼ぶ権利がどこにあったものか。

なれど。


「勝利の見込みはある」


私の背中を押してくれた子供がいる。

貴方はゲッシュを誓い、自分の命をチップにしたのだから。

ありとあらゆる努力を実現に向けて果たさなければならぬと。

そのように告げたのは、未だ9歳児たる少女である。


「少し待て。貴女に見せたい物がある」


アレクサンドラ殿に頼み、甲冑を外そうと試みる。

兜を脱ぎ捨て、フリューテッドアーマーを外し、鎧下たるギャンベゾンの拘束を外して。

一冊の本を取り出す。

この本はこの世に二冊あり、一冊はアスターテ公爵の手中にて。

マルティナ自身が写本したもう一冊が、私の胸元にある。


「見ての通り、一つの本にすぎない。ある一人の少女が書いた本だ」

「その本がどうした」

「この本自体にも価値はある。なれど、私が言いたいのは一人の少女のことだ。マルティナ・フォン・ボーセルという9歳の少女の事だ」


テメレール公は、少しだけ悩んで。

さすがに、アンハルト王国内の小さな事件までは知らないようで。


「知らぬ。誰だ」


全てを知り得ると言った彼女ですら、知らないことがあることを軽く証明した。

彼女は知らぬ。


「レッケンベル卿を、このファウストをいつか超える存在だ」

「――何をバカげたことを」

「テメレール公。本が汚れては困るゆえに、まずは頭の血を拭かれよ。ユエ殿、絹糸と針の準備は良いな。傷を縫合せよ」


このファウストが、どうしようもない程にねじくれた価値観の元で救った少女を知らぬ。

彼女の優秀さを知らぬ。

この私が、剣技にて私を上回ると、レッケンベル卿すら超えた完璧なる超人に成り得ると見込んでいる幼い少女の事を知らぬ。

私が育てること自体が間違っており、もっと良い環境をと望んでしまうような。

眩い結晶の塊が存在を知らぬ。


「読めばわかるのだ。どう見ても9歳児の少女が書いたものではない。私など教養が無くて古語を知らぬから読むことすらできぬ本だ。なれど、その愚かな私とて、分かるぐらいの物なのだ」


読めもしない本を、無茶苦茶に褒めたたえる。

内容自体は理解しているので問題ないだろう。

子など持ったこともない私がこのような事を口にしたところで、笑われるかもしれないが。

私はこの本の共同著者たるマルティナに、もはや実の娘にも等しい感情を抱いている。


「その名も『銃・砲・騎士』という。内容も大切だが、私とてこれだけでモンゴルに勝てるなどとは思っていない。だが、それでも」


勝利の見込み、可能性、目算の欠片ぐらいは浮かぶだろう。

最低でも、貴女がやみくもに皇帝位を目指すなどよりは高いはずである。

そのように述べる。

テメレール公というと、気でも狂ったかという目で私を見ている。

無理もないが。


「貴女は何もかも知っているような顔をしているが、そうではないと分かっていただきたい。私やレッケンベルを超える超人が今にも目覚めようとしていることを知り、貴女は考えを改めなくてはならない」


テメレール公すらも、まだ知らないことが沢山残っていると思われた。

ケルン派が硝石を大量生産しており、多数の醸成場を抱え、彼女が想像している以上に火砲の開発状況は進んでいることを。

軍隊というものを即席で大量生産する術があることを。

神聖グステン帝国には、勝利の要素がまだ眠っている。


「まずは読まれよ」


テメレール公を翻意させることが肝要である。

これ以上喋ればボロが出るだろう。

だから、これ以上の事は口にしない。

何せ、私にはアナスタシア様やカタリナ女王陛下、テメレール公やマルティナのような智謀はない。

あの醜い男騎士、脳味噌さえ筋肉で出来ているだろうともっぱらの評判である。

モンゴルが2年以内に来ると理解できたならば、それに抗えるように、信じる者全てに危難を訴えるだけであった。

それだけ。

私ができることなどは、それだけである。

テメレール公とまっすぐに視線を合わせて。

やがて、彼女は何か諦めたようにして座り込み、ユエ殿から治療を受け始めた。

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